山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

空見えて影も隠れぬふるさとは‥‥

2007-10-16 23:57:18 | 文化・芸術
Jun_nao_01

-表象の森- 女性の地位

近代化の明治期より封建制の江戸の社会のほうが女性の地位はむしろ高かった、と。
そんな一面があったということを宮本常一は「『日本奥地紀行』を読む」のなかでごく分かり易く説いてくれる。
戦後に改められた現行の戸籍制度ではなく、明治の民法に基づいたそれが「家」を中心にした大家族制だったことはだれでも承知していようが、その記載形式の有り様は、戸主を筆頭に、その次ぎにくるのが戸主の父母、そして戸主からみた叔父や叔母たちが並んで、やっと戸主の妻となり、さらには彼らの子どもらが記載されることになる。
ところが、檀家制度に乗っかった江戸の宗門人別帳においては、戸主を中心にした大家族制にはちがいないが、戸主の次にその妻が記載され、戸主-その嫁-子どもたちときて最後に隠居した父母がくるのが定法であったというのだ。

あくまで戸籍の形式上のことではあるが、女性の地位は江戸から明治へと時代の変転のなかで却って貶められている。
将軍と藩侯の二重支配のなか、主君と父母への忠孝を強いられまことに窮屈であったろう武士たちの社会ではいざ知らず、百姓・町人の庶民のなかでは宗門人別帳が示すように存外女性の地位が高かったといえそうである。それが明治の近代化は国民みな斉しく天皇主権の臣民となり富国強兵をめざしたからか、また維新を成した下級武士たちが時の元勲となり、彼らの生きてきた武家社会の遺制がその法制化に表れたか、いずれにせよ庶民における女性の地位は明治の近代化になってなべて貶められたのである。

こうしてみると男尊女卑という遺制がこの国の民のすべてにおしなべてひろがるのは明治の近代化においてこそだと言えそうである。
考えてみれば古代であれ中世の王朝社会であれ、それほど男尊女卑の風潮が強かったとは思えない。武家の棟梁たちが登場してきて体制の主役となってくる鎌倉・室町でさえ決定的なほどではなかっただろう。鎖国体制のなかで260年の平安をみた江戸の、それも一握りの支配階級たる武家の社会でのみこそ「主」と「家」を墨守するため儒教を利用し、男尊女卑化へより傾斜していったものとみえる。
これを明治の近代化は、国民のすべてへと拡大生産してしまった。この頃の近代化の裏面は絶対主義化でもあったのだから、当然といえば当然の話だが。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-131>
 空見えて影も隠れぬふるさとはもみぢ葉さへぞ止らざりける  中務

中務集、荒れたる宿の紅葉、家のうちに散り入りたるところ。
邦雄曰く、第三句の「ふるさと」は、詞書に従うならあばら屋となり果てた家そのものであろう。屏風絵に似た設定だが、望郷歌ながらに、王朝歌特有の流露感がある。伊勢の娘としての、類ない詩才が中務集には満ち溢れている。哀傷歌としての紅葉、「秋、ものへいく人に」の「風よりも手向けに散らせもみぢ葉も秋の別れは君にやはあらぬ」も心に響く、と。

 松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里  源俊頼

千載集、秋下、堀河院の御時百首の歌奉りける時、擣衣の心を。
邦雄曰く、松風と擣衣の二重奏、その最弱音の強さ。強調は四句切れの爽やかな響きが、あたかも槌音のように聞こえ、有るか無きかの間を置いて歌枕が現れる。六玉川の中、調布玉川が擣衣とは言外の懸詞となって面白い。井手の玉川に配するのは必ず山吹の花。今一首、家集に見える「秋風の音につけてぞ打ちまさる衣は萩の上葉ならねど」も巧みな擣衣歌、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に‥‥

2007-10-15 23:55:45 | 文化・芸術
Hitomaro035

-世間虚仮- ある投書

新聞の投書欄などに触れることは滅多にないのだが、ふと胸を撃たれた感がしたので記しておきたい。
投書の主は63歳のご婦人、奇しくも私と同年だ。
彼女は、今年の初めに「毎日、ハガキを一枚書く」と決めた、という。少し過酷かと思ったらしいがとにかく始めたのである。相手によってハガキ絵にしたり手紙にしたり、時にはついつい2.3枚書くときも。そうやって9ヶ月が過ぎて、近頃は習慣になり楽しくなった、と綴る。
ある日、幼なじみの友人から突然の電話、その友は交通事故で主人を亡くしたばかりだったとかで、彼女からのハガキにとても励まされたと何度も礼を言い、「元気が出たよ」とも言ってくれた、そんなこともあったという。
ひさかたの思わぬ音信に触れた懐かしの人たちから、さぞさまざまな反応が返ってきたことだろう、と思わず此方の想像も膨らむ。
「これからもできる限り続けよう。それが私の『元気のもと』であるのだから。」と小文を締め括る彼女は、きっと毎日がこれまでになく充実し、気力に満ちていよう。そのことが手に取るように判る気がする。

ひとり黙々と自身に向かって日記を綴るのではなく、知己の相手ひとり一人に一枚々々ハガキを書いていくというこのコミュニケーション行為は、60余年のこれまでの彼女の過去いっさいを眺望しつつ、現在進行形として日々の歓びを新たに紡いでいくものだろう。これまでの彼女の来し方がどんなものであったか、順風満帆のものであったか、逆境に抗いつつ厳しい現実のなかで懸命に生きてきたものか、そんなことは知る由もないが、いま彼女はこの行為を見出だし、それを日々課していることで、これまでにない爽やかな幸福感を味わっているにちがいない、と私には思える。
彼女は自身の創意と日々の積み重ねで、自分自身を幸福感で満たす術を獲たのだ。一見なんでもないささやかなことのようだが、この発見の意味は大きく深い、と心動かされた投書であった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-130>
 ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜置きまよふ床の月影  藤原定家

新古今集、秋下、百首奉りし時。
邦雄曰く、千五百番歌合・秋四、本歌が人麿の「足引きの山鳥の尾の」であることなど遙かに霞み去るくらい面目を一新し、凄艶の趣きすら添う。赤銅色に輝く山鳥の尾に雲母状の白霜が降り紛い、しかも月光が煌めく。必ず一羽ずつ谷を隔てて寝る慣いの山鳥の、寝そびれて尾を振る様をも思い描かせようとしたか。39歳の作者の聳え立つ美学の一つの証、と。

 散りつもる紅葉に橋はうづもれて跡絶えはつる秋のふるさと  土御門院

続後撰集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、王朝和歌の紅葉は、綾錦、唐錦と錦盡しで、現代人の眼からは曲のないことだが、安土桃山のゴブラン織同様、絢爛たる幻を描き出すものだったろう。この輝き渡る紅葉の酣の季節を見ながら、今更改めて、「秋か」と疑う要も謂れもないと、理の当然の反語表現に、美を強調する。これも古歌のめでたさの一つ、様式に似た美の一典型であろう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

なれなれてはや有明の月の秋に‥‥

2007-10-14 11:44:49 | 文化・芸術
Alti200660

-世間虚仮- 郵政民営化とアムンゼン

毎日紙面の「時代の風」に同志社の大学院で教鞭を執る国際経済学者の浜矩子が「郵政民営化の怪」と題し、世界で初めて南極点到達を果たしたノルウェーの探検家アムンゼンの故事を引きながら、この10月1日に民営化へと踏み出した小泉改革の「郵政民営化」事業が孕む問題の本質をアイロニーたっぷりに論じている一文があったが、パンチの効いた皮肉とその論旨の明快さに思わず頷いてしまった。

アムンゼン隊一行が南極点に到達したのは1911(明治44)年12月15日のことだが、抑も当初アムンゼンが踏破を目指していたのは北極点だった筈で、彼自身出航するまではあくまでもその考えだった。ところが彼の出航前にアメリカのR.E.ピアリー探検隊が北極点を制覇したことを知るところとなり、二番手では意味がないと、誰にも言わずに航海途上で急遽進路を変えて南極を目指し、スコット隊に先んじ南極制覇を果たしたのだった。
アムンゼンに出し抜かれた体のスコット隊も遅れて南極に到達するも、その帰路途中で全滅という悲劇を招くことになるが、その明暗の別れは探検史上よく知られた話だろう。

浜矩子はいう、「北極に行くと言いながら、南極に到達した男、それがアムンゼンである。小泉氏の郵政民営化もこれと同じだ」と。
郵政改革のそもそもの眼目はどこにあったか。郵便貯金制度という今は昔の「国民皆貯蓄」型システムをうまい具合に廃止に持ち込むことではなかったのか。既に役割を終えた制度の上手な幕引き。目指すは郵貯・簡保の退陣だったはずである。これが郵政改革の「北極」だった。
ところが10月1日に辿り着いた場所は? 「郵貯」から「ゆうちょ」へ、「簡保」から「かんぽ」へと看板を掛け替えた巨大金融機関お目見得の日だ。優雅な終末を迎えるどころか、がんがん儲かる民間銀行に変身しようと意気込んでいる、一大延命作戦となっている。
明らかにここはもはや「北極」でない。知らないうちに「南極」になっている。こういうことが許されていいのか、と。
一方、郵政の本来業務であるはずの郵便事業はどうなるか。公共性・公益性の高い、郵政改革の中でしっかり保全されていくべき郵便事業が、効率化の名の下に、僻地・過疎地向けのサービスが統廃合されるのではないか。郵貯・簡保との分社化で利便性も収益性も悪化するなか、公共サービスとは遠く隔たりつつ、効率と収益追求の中で延命を図るというのは、どうみても本末転倒である。
役割を終えたから退場すべき退場すべきものが新たなる繁栄を求めて再出発する。他方、継続が保証されるべきサービスの命運が危うくなる。これはどうやら、北極と南極以上にかけ離れたゴールに到達してしまったのかもしれない、と、およそ概括すればそんな謂いようだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-129>
 もみぢ葉を惜しむ心のわりなきにいかにせよとか秋の夜の月  恵慶

恵慶法師集、月おもしろき夜、紅葉を見て、人々ゐたり。
邦雄曰く、月光と紅葉、それは言葉の彩であって、見る眼には既に色を喪い、薄黒い翳りの重なりだ。絵空事に似た現実の景色に、「いかにせよとか」のやや過剰な思い入れは、この場合見事に照応する。「夜の嵐」の題では「紅葉ゆゑみ山ほとりに宿りして夜の嵐にしづ心なし」の詠あり、いずれ劣らぬ新味持つ。2首ともに夜の紅葉、着目の妙を思う、と。

 なれなれてはや有明の月の秋にうつるは夢の一夜とぞ思ふ  後奈良天皇

後奈良院御詠草、暮秋。
邦雄曰く、「月の秋に」「一夜とぞ思ふ」と第三・五句がともに一音余剰を含んで響き合う。とくに第三句は「有明の月」の一種の句跨り現象を倒置法でさらに強調する。16世紀和歌特有の錯綜技法。同題で「秋をしもさらには言はず隠しつつ暮るるに年の名残をぞ思ふ」があり、暮秋は歳暮の近さを思わせる侘びしさが、これまた結句一音余りのたゆたいに滲む、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

かよひこし枕に虫のこゑ絶えて‥‥

2007-10-13 18:47:02 | 文化・芸術
Isabellabird

-表象の森- 蚤とねぶた

明治11(1878)年の6月から9月にかけて、東京から日光経由で新潟へと日本海に抜けて北上、北海道へと渡る旅をしたイギリス人女性イザベラ・バードが書き残した紀行文が「日本奥地紀行」だが、これを引用紹介しつつ我が国の古俗習慣を考証した宮本常一の「『日本奥池紀行』を読む」を繙いてみるといろいろな発見があってなかなか興味つきないものがある。

芭蕉の連句集「猿蓑」の「夏の月」巻中に「蚤をふるいに起きし初秋」と芭蕉の詠んだ付句が出てくるが、この旅の間、彼女をずいぶんと悩ませたのがこの蚤の多さであったという。
「日本旅行で大きな障害となるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」と彼女が冒頭に記すように、行く先々で、蚤の群れに襲われたとか、蚤の所為でまんじりとも出来なかったとか、たえず蚤の襲来に悩まされたことを書きつけているらしい。
そういえば幼い頃、子どもたちが順々に並んでDDTを頭からかけられたりしている光景を思い出すが、蚤や虱の類は、戦後の進駐軍によるDDT散布が広まるまで、どこにでもものすごく繁殖していたわけだ。
蚤はどこにでもいるのがあたりまえで、あたりまえだから特段古文書などに出てくることもなく、いつしかそんな日常の暮らしぶりもわれわれの記憶の彼方に忘れ去られてしまっているのだ。
芭蕉には「蚤しらみ馬の尿する枕元」という発句も「奥の細道」にあり、「造化にしたがひ四時を友とす」俳諧であったればこそ「蚤・虱」もたまさか登場するが、こういうのはごく稀だから、そんなに蚤の多かった暮しぶりなど今ではなかなか想像することもむずかしい。

本書で宮本常一は青森や秋田の「ねぶた」を「蚤」と関連づけて簡潔に考証している。
「ねぶた」は「ねぶたい」であり、津軽では「ねぶた流し」といい、また秋田あたりでは「ねむり流し」といい、富山あたりまでこういう言葉があるという。
夏になると一晩中蚤に悩まされて誰もみな眠い、その眠気を流してしまおうというわけでそんな謂いとなったと。七夕の日にするからむろん厄流し、災い流しの意味も込められている行事であるわけだが、「ねぶた」というその眠い原因は「蚤」にあり、「ねぶた流し」は「蚤流し」と元来は結びついていたというのだ。
現在の派手々々しく絢爛豪華な「ねぶた祭」を支え興じる人々からはとんでもないと礫も飛んでこようが、存外こういった素朴な発想からの名付けとみるほうが実情に即しており、よほど真相に迫っていると言えるのではないかと思われる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-128>
 夕月夜小倉の峯は名のみして山の下照る秋のもみぢ葉  後醍醐天皇

新千載集、秋下、建武二年、人々千首歌つかうまつりける次に、秋植物。
邦雄曰く、運命の帝後醍醐の詞華、勅撰入集は百首にも遙かに満たないが、後村上帝同様、宗良親王選新葉集には、力作が数多みられる。夕紅葉は勅撰集にみえるもののなかでは屈指の調べ、「小倉=を暗」の懸詞が「下照る」で巧妙に蘇り、鮮麗な幻を描くところは、なかなかの眺めである。「名のみして」のことわりに、風格をみるか無駄を感ずるかが問題、と。

 かよひこし枕に虫のこゑ絶えて嵐に秋の暮ぞ聞ゆる  越前

千五百番歌合、七百九十六番、秋四。
邦雄曰く、これぞ新古今調の秋虫、九月盡の凄まじい夕嵐、いまはもう訪う人も、まして虫の声も絶え果てた独り寝の床。調べと心緒とが綴れ織りのように経緯をなす見事な一首。左は主催者後鳥羽院の「秋山の松をば凌げ龍田姫染むるに甲斐もなき縁なり」で、定家判は持。越前の歌がよほど勝れていた証拠で、誰の眼にも御製は通り一遍の趣向を出ていない、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

春の夜のみじかき夢を呼子鳥‥‥

2007-10-12 16:53:46 | 文化・芸術
Dostoevsky

-表象の森- ドストエフスキーの森

「父-皇帝-神の殺害をめぐる。原罪の物語」とは亀山郁夫著「ドストエフスキー 父殺しの文学」上下本に記された帯のコピーだ。
上巻の帯裏には
「斧の重さか、それとも『神』の囁きか?‥‥罪の重さに正しく見あう罰の重さなど果たしてあるのか。流刑地でのラスコーリニコフの虚けた姿は、屋根裏部屋で彼がひたすら培った観念の巨大さを、その観念を一時共有したドストエフスキー自身がシベリアで経験した「回心」の道のりの長さを暗示するものなのです。震えようとしない心、訪れてこない悔い‥‥死せるキリスト=ラスコーリニコフの絶望的な闘いはまさにここからはじまります。」と本文から引かれ、
また下巻の帯裏には
「『私は蛇だ』―、その自覚こそが、18歳のフョードルを癲癇に落とし込み、57歳のドストエフスキーに『カラマーゾフの兄弟』の執筆へと向かわせた根本的な動機だったのです。私は、農奴を唆して、父を殺した。いま、裁かれるべきは他ならぬ私だ。堕落した父と、その死を願う自分との、この、原罪における同一化を措いて、父・フョードルの名づけは存在しないのです。」と同様に引かれている。

著者は「父殺し」と「使嗾(しそう)-唆すこと」というキーワードを駆使してドストエフスキー作品の深遠な森へと読者を慫慂させる。そこでは迷宮に彷徨う如く或いは樹海の深い森に迷い込んだが如く、ただただ饒舌で能弁な著者の疾走する語りを滝のように浴びつづける覚悟を要する。
本書の構成はドストエフスキーの代表的長編の読みの本線ともいうべき「講義」と、彼の「伝記」と、執筆の構想に影響を与えたとみられる同時代に起こった血なまぐさい現実の「事件と証言」と、さらには小品も含めた個々の作品の細部を参照言及する「テクスト」と、それぞれ題された4群の各小論を、まさに縄綯えか紡ぎ織りのように絡ませ重奏させ論を進めていく。斯様な綴れ織りも異色といえば異色だが、全容を一望すればまるで大河小説的ドストエフスキー論とも、またバフチンの形容を拝借すればポリフォニック・ドストエフスキー論というべき観を呈している。

若い頃に文学体験というほどのものとはついぞ縁のなかった私がこの上巻を読みはじめた時は、ドストエフスキーについては「罪と罰」をのみ知るだけだったから、その世界のなにほども知らずただ未知の森へと踏み込んだようなものである。
上巻を読みおえたのは昨年の1月末、それからずっと打棄っておいて、今年になって「地下室の手記」と「カラマーゾフの兄弟」を遅々としながらもなんとか読み果せて、このほどやっと下巻に着手、めでたく?読了となった次第だが、六十路を越えてやっとわが身にも少しはまとまった体でドストエフスキー体験なるものを経た感がするのは本書の功徳と感謝せねばなるまい。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-127>
 移り来る秋のなごりの限りだに夕日に残る峰のもみぢ葉  宇津宮景綱

沙弥蓮愉集、秋、宇津宮社の九月九日まつりの時よみ侍る。
邦雄曰く、景綱は宇津宮頼綱蓮生入道の孫、13世紀末の没。武者歌人としては出色の才あり、勅撰入集も30余首。この紅葉の微妙な翳りなど新古今調にはない。家集には紅葉の歌が多く、「今日もまた夕日になりぬ長月の移りとまらぬ秋のもみぢ葉」「秋の色もまだ深からぬもみぢ葉の薄紅に降る時雨かな」等、淡々としてまことに個性的、と。

 春の夜のみじかき夢を呼子鳥覚むる枕にうつ衣かな  木下長嘯子

挙白集、秋、擣衣驚夢。
邦雄曰く、一首の中に春・夏を閲し、冬を奏でるという水際だった技巧をみせている。畳みかけ追いかけ、打って響くような律動的な修辞も小気味よく、長嘯子の独擅場と思われる。「主知らぬ恨みこそあれ小夜衣夢残せとは打たぬものから」も同題のいま一首。繊細巧妙の極とも言うべき文体、絵空事もここまでいくと感に堪えぬ。擣衣歌の行きつく果てか、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。