美術館巡りと古都散策、Jazz & Bossa など・・

スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

デトロイト美術館展 ~ Smile ~

2016-09-18 | 絵画

 先週の金曜日に大阪市立美術館で開催されている「デトロイト美術館展」を観覧しました。

観覧前にあべのハルカスにある「大かまど飯 寅福」で、『米沢豚と牛蒡の柳川鍋仕立て定食』

(3種類のご飯と御惣菜がお替りでき、とても美味しかったです)を食べて2時間以上歩いて観覧

するための体力をつけました(笑)

「デトロイト美術館展」をよく調べたつもりだったのですが、一つ情報を見過ごした事がありました。

それは、何と8月31日までの火、水、木曜日(祝日除く)限定で、展示室内での撮影が可能でした。

うぅ~残念。ネットで後で調べたら、たくさんの人が展示されている絵画を撮影して、

ブログにアップしていました。

さて、それはともかく アメリカの「デトロイト美術館」が収集した素晴らしい絵画52点が

観れたのには感動しました。

モネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、マティス、モディリアーニ、ピカソほか、

まさにヨーロッパ近代絵画の「顔」ともいうべき巨匠たちの名画が一挙に来日、中には日本では

初公開の絵画が15点もあり興奮しました。

「心が震える 奇跡のコレクションがやってくる 大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち」との

キャッチコピーでCMしていたので大いに期待していましたが、期待通りでした。

1885年に創立して以来、自動車業界の有力者らの資金援助を通じて、世界屈指のコレクションを

誇る美術館として成長したデトロイト美術館。ゴッホやマティスの作品をアメリカの公共美術館

として初めて購入したのもデトロイト美術館でした。

このデトロイト美術館は、2013年7月、デトロイト市の財政破綻を機に、市の財源確保を目的として

所蔵品売却の可能性が取りざたされました。しかし、国内外からの寄付と協力、そしてデトロイト市民の

声により、作品は1点も失われることなく市民の憩い・学びの場として存続しています。

さて、本題ですが、この展覧会は、次の4章にわけて名画が展示されていました。

【第1章 印象派】
クールベ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、デュラン、ジェルヴェクスの作品が計13点

ピエール・オーギュスト・ルノワール「白い服の道化師」

ピエール・オーギュスト・ルノワール「座る浴女」

カミーユ・ピサロ「小道」

クロード・モネ「グラジオラス」

カロリュス=デュラン「喜び楽しむ人々」

 

【第2章 ポスト印象派】
セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ルドン、ドニ、ヴァロットン、ボナールの作品が計11点

ポール・ゴーギャン「自画像」

フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」

フィンセント・ファン・ゴッホ「オワーズ川の岸部、オーヴェールにて」

 

【第3章 20世紀のドイツ絵画】
カンディンスキー、ノルデ、ベッカー、キルキナー、ペヒシュタイン、ヘッケル、ロットルフ、ベックマン、                                       ココシュカ、ディクスの作品が計12点

マックス・ベックマン「オリーブ色と茶色の自画像」

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー「年老いた農婦」

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「月下の冬景色」


【第4章 20世紀のフランス絵画】
マティス、ルオー、デュフィ、ピカソ、グリス、モディリアーニ、スーティンの作品が計16点

アンリ・マティス「窓」

アンリ・マティス「コーヒータイム」

アメデオ・モディリアーニ「帽子を被った若い男性」

アメデオ・モディリアーニ「女の肖像」


まず、これほど多くの有名画家が描いた名画を日本に居ながらにして鑑賞できる機会は、

多分、この先 私が生きている間には二度とないと思いました。

繊細な明るい色使いで綺麗な描写のルノワール、点描タッチのピサロ、カロリュス=デュランと

アンリ・ジェルヴェクスの写実的な絵画、ゴーギャンとゴッホの自画像、オットー・ディスクの

にらみつけているような自画像、6点も展示されていたピカソ、そして、一番見たかったア

メデオ・モディリアーニの「女の肖像」などなど・・・

大袈裟ですが、これらの絵画を観れて生きていてよかったと思った観覧でした。

下欄の動画は、この展覧会で出品されている絵画の画像を使って、私の率直な気持ちと重なる

「Smile」(私が歌って録音したものです)を BGM にして作成しました。

残念な事に、エーリッヒ・ヘッケルの「女性」、カール・シュミット=ロットルフの「雨雲、ガルダ湖」、

オスカー・ココシュカの「エルベ川、ドレスデン近郊」と「エルサレムの眺め」、オットー・ディスクの

「自画像」、ジョルジュ・ルオーの「道化」、そしてピカソの全6点が SNS をはじめとする不特定多数

への公開が禁じられていますとの案内により、これを守り動画にはアップしませんでした。

 


ルノワールと、割烹料理と、スタンダード曲 (♪ Smile を録音) 

2016-04-16 | 絵画

今週のある日、休暇を取り大阪・難波にある山王美術館で

開催されている、ノルワール展を観覧しました。

   
 

この美術館は、月曜~金曜日に開館しており平日でないと

観れないのです。そして、所蔵する絵画を殆ど他の美術館に

貸出ししないので、他の美術館では観る事は出来ません。

今回は、所蔵しているルノワールの絵画を一挙に展示して

いるので、ぜひとも観たかったのです。

開館時間ちょうどに入館したら、何と私だけ、貸切状態。

ゆっくりじっくり観覧できました。

ルノワール作品が26点、ルノワールのほかにも東山魁夷で

6点、杉本寧で2点、堂本印象で8点、斎藤真一で8点の

素晴しい日本画も鑑賞出来ました。

2016 春・夏季コレクション ルノワール展
~描くことは生きる悦び~
とタイトルされた美術展でした。

《鏡の中の婦人》、晩年の傑作《裸婦》、

《果物をもった横たわる裸婦》など、ふくよかな裸婦像が

とても美しく、そして可愛らしい少女の肖像やめずらしい

風景画もありました。

ルノワールを鑑賞した後はフレンチと思いましたが、

以前から行きたかった割烹料理店で、美味しいお刺身を

食べました。

「手作りざる豆腐」と「釜揚げしらす」もオーダーしました。

色々な料理があって迷いましたが、鯛・かつお・いか・太刀魚

が盛りつけられたお刺身は絶品でした。すごく新鮮で身がすごく

しまっていて美味しかったです。太刀魚の刺身は初めて食べました。

最近食べる事にすごく興味があります。

でも、太ってはいませんよ(笑)

お腹も満たされ、時計を見たらまだ1時過ぎ うむ~久しぶりに

カラオケに行って録音しょうと。

カラオケの最新機種 LIVE DAM STADIUM で Jazz Band

バージョンと云う本物の生演奏ですごいのがリリース

されているので、試してみました。

スウィンギーな曲は、まるでジャズのセッションで歌って

いるような感じでした。6時までたくさん歌って、その内の

7曲を録音。歌い疲れて帰宅しました。

久々の休暇でしたい事をして充実した一日でした。


~ ♪  ☆彡 ♪ ~   ~ ♪  ☆彡 ♪ ~


下手っびな歌ですが、ルノワールの名画を鑑賞した感動を

忘れないようにと、鑑賞したルノワールの作品を含む名画を

スライド映像にしました。そして、この日に自分が歌って

録音した ”Smile” を BGM にして You Tube にアップしました。

 

             ~ Smile ~

作曲 : チャールズ・チャップリン
作詞 : ジョン・ターナー&ジェフリー・パーソンズ

Smile, though your heart is aching.
Smile, even though its breaking.
When there are clouds in the sky You'll get by,
If you smile through your fears and sorrow
Smile, and may be tomorrow
You'll see the sun come shining through for you

Light up your face with gladness.
Hide every trace of sadness.
Although a tear may be ever so near,
That's the time you must keep on trying
Smile, what's the use of crying
You'll find that life is still worth while
If you'll just smile

心が痛むときでも、微笑んでごらん
くじけそうになっても、ほほえんでごらん
曇り空のときも、君ならきっと乗り越えられるさ
かなしみや不安を感じるときでも、
笑顔を忘れずにいれば、
きっと明日には、君のために太陽の光が輝きだすよ

喜びに満ちた笑顔で顔を輝かせているんだ
悲しみの影なんて 人に見せちゃだめだよ
たとえ涙がすぐにでも こぼれそうになっても
そんな時こそ 頑張って笑顔でいるんだ
微笑もう、泣いたってなんにもならないだろう
人生まだまだ良いことがあるってわかるよ。
微笑んでいれば・・・


小磯良平画伯

2016-01-30 | 絵画

神戸市出身の小磯良平画伯は、日本の近代洋画界を代表する画家です。

小磯良平画伯の絵画『斉唱』(兵庫県立美術館に常設されています)

などの実物を観覧した事や神戸市立小磯記念美術館内に再現された

小磯画伯のアトリエを見学した時の感動が忘れられず、小磯良平画伯

の事を調べ記録しておくために日記にしました。


【小磯良平画伯の経歴】

明治36年7月25日、神戸市に生まれる。

当時の神戸は、外国貿易の窓口となり外国人居留地を中心に発展しており、

小磯画伯は洋館が立ち並ぶ街で自然に「西洋的な空気」を吸って幼年期を

送りました。

クリスチャンの家庭で育ち、鉛筆と紙を与えておけば黙々と絵を描いて

飽きることがなかったと言われています。

兵庫県立第二神戸中学校(現 兵庫高校)に進学し、生涯の親友となった

竹中郁氏(のちに神戸を代表するモダニスト詩人)と出会い、竹中氏の影響も

あり小磯画伯の心の眼は、ヨーロッパに向けて開かれました。

大正10年、倉敷へ一緒に出かけ大原コレクションを公開した「現代フランス

名画家作品展覧会」に感動を覚え、画家への志しを強めます。

大正11年、東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科に入学し、大正14年の

第6回帝国美術院展覧会(帝展)に出品した『兄妹』で初入選し、翌年には

『T嬢の像』が特選に輝きます。

『T嬢の像』

当時、美術学校では出品を禁じていましたが

23歳の画学生が描いたとは思えない完成度の高さを誇るこの作品で画壇に

鮮烈なデビューを果たしました。

昭和2年、規定課題の『自画像』と竹中郁氏をモデルにした『彼の休息』の

2作品で98点という最高得点をとり首席で卒業。

『自画像』

『彼の休息』

卒業の翌年、小磯画伯はフランス留学に出発し、竹中氏とともに2年間

ヨーロッパを遊学しました。

美術館をめぐり、アングル、コロー、クールベ、マネ、ドガなどの巨匠達の

作品を鑑賞することに熱心でした。

ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼの『カナの婚礼』に衝撃を受け、

群像表現を極めることを生涯のテーマと決めました。

『カナの婚礼』

留学中には劇場で踊り子たちの舞う姿を楽しみクラシック音楽に耳を傾けた

ようです。

昭和13年から1年間、陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、

帰国後戦争画を製作。昭和16年に群像画の傑作『娘子関を征く』と『斉唱』

を相次いで発表。

『娘子関を征く』

『斉唱』

小磯画伯は群像を書くため精力的に戦争画に取り組みましたが、戦後は

画集に収録しませんでした。

戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛むと晩年に語って

います。

戦後も優れた素描力を十分に生かしながら、「欧州絵画の古典的な技法を

日本の洋画に根付かせる」ための研究を根気強く続け、独自の画境を開く

ことになります。

東京芸術大学教授を務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)

大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に

大きく貢献しました。

平成4年に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として

知られています。

平成4年11月に神戸市立小磯記念美術館が、緑豊かな六甲アイランド公園内

に開館されました。

『神戸市立小磯記念美術館』 

『小磯記念美術館内に移築された小磯画伯のアトリエ』



小磯画伯は親しみやすい女性像を中心としながら、西洋絵画の伝統の中に、

市民的でモダンな感覚と気品あふれる画風を完成した画家でした。

※小磯画伯の作品を鑑賞できる動画を作成しています。

 


素晴しい ! 「東西美人画展」

2015-12-06 | 絵画

~ ルノワール、キスリング、小磯良平から上村松園まで ~      

とタイトルした美術展を観覧しました。

 

       

巨匠達の本物の名画を観て感動せずにはいられなかったです。

やはり実物は画像や絵画を紹介している書籍で見るのと全く違います。

実に素晴しく感動しました。

それぞれの画家には、はっきりとした個性と主張がありました。

私は、数多く展示されている作品の中でも、特にエコール・ド・パリ

(パリ派)の画家、モイーズ・キスリング(モイズ・キスリング)が

1927年に描いた《休息する少女》に強いインパクトを受けました。

濃紺の暗い背景や衣服にくっきりとあざやかな白い肌の横顔がひときわ

浮き出ており、やや下の方に視線を向けている大きな目が強く印象に残りました。




ルノワール、マリー・ローランサン、モネの絵にも魅せられました。

          



日本人画家では、藤田嗣治、小磯良平、上村松園、伊藤深水の美人画もひと目で

その画家だとわかる個性があり、この展示を観覧して本当に良かったと感慨深い

気持ちになりました。



この美術館は、大阪・難波の街にあるアンティークや絵画が随所に配され優美な

空間が広がりを見せるラグジュアリーなホテルモントレ グラスミア大阪の22階

に併設された静かで上質、瀟洒な美術館です。

年2回の企画展示は、すべてこの美術館が収蔵している絵画や陶器です。

明治~昭和にかけて活躍した、近代日本美術界を代表する巨匠、藤田嗣治、

佐伯祐三、横山大観、川合玉堂、板谷波山、河井寛次郎、萩須高徳、林 武、

梅原龍三郎、小林古径、杉山寧、岸田劉生、小磯良平、上村松園、伊藤深水

などとルノワールやクロード・モネ、マリー・ローランサンなどの素晴しい作

品を数多く収蔵しています。

街はクリスマスムードがいっぱいで、華やかで楽しい雰囲気が溢れていました。

久々に芸術にふれた有意義な一日を過ごせました。


山王美術館 「珠玉の日本画コレクション展」

2014-11-16 | 絵画

大阪にある山王美術館が開館して5周年の記念として、所蔵している素晴しい

日本画の数々と陶磁器の名品を展示しており観覧しました。

明治維新の文明開化以降の日本画の新たな創作を行った横山大観、川合玉堂、

古典に学び近代的な感覚を取り入れ新古典主義と呼ばれた小林古径、前田青邨、

橋本関雪、福田平八郎、東山魁夷、堂本印象など、明治から昭和にいたる近代

日本画を代表する巨匠の作品をこの美術館は多数収蔵しています。

今回の展覧会では、この美術館が所蔵するこれらの日本画を多数展示していました。

近代日本画の素晴しい作品の数々を観覧して感動しました。

            

展示作品は、

洋画展示室と日本画展示室において、

横山大観・・・「東海乃曙」他全15点

川合玉堂・・・「柳渓洗馬」他全4点

         

前田青頓・・・「山鳥」他全3点

加山又造・・・「牡丹」の1点

川端龍子・・・「花王図」の1点

福田平八郎・・ 「鯉」の1点

      

東山魁夷・・・「青峡」他全7点

             

堂本印象・・・「春水満澤」他全2点

橋本関雪・・・「田家夏夕図」他全3点

     

杉山 寧・・・「晞」他全3点

伝・狩野探幽・・・「雲中地蔵」の1点

村上華岳・・・「釈迦牟尼」の1点

小林古径・・・「琴」

         

 伊東深水・・・「物思う頃」他全3点

           

上村松篁・・・「明秋」の1点

上村松園・・・「美人納涼図」他全3点

                   

上村淳之・・・「鴫」他全2点

 

ギラリーという室内では、「堂本印象展」として、堂本印象の「さざなみ」他全8点

             

陶磁器展示室では、「陶磁器名品展」として、

千家十職の永楽家・楽家・飛来家の水指、茶碗をはじめとし、中国の宋と明の

時代の作品が展示してあり、そこに川端龍子、上村松園、横山大観、堂本印象

の掛け軸もありました。

 

山王美術館は、たいへん高級感あふれるホテル モントレ グラスミア大阪の22階

にあります。この美術館の正面には、ホテルが運営しているチャペルもあります。

ホテルのフロントがこの美術館に入館する通路にあり、格調高い絵画や調度品を

装飾していますので、それらを見るのも楽しみのひとつと言えます。

 


ホイッスラー展

2014-11-09 | 絵画

京都国立近代美術館で開催されているホイッスラー展を観てきました。

 

ホイッスラーについて、調べました。

                 

                                      
ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーは、アメリカで生まれ、

幼少時よりロシアで育ち、21歳の時にパリに移住し絵を学び、その後ロンドン

活躍した画家です。


パリで当時、革新的な画家であったギュスターヴ・クールベと出会い、レアリスム

(写実主義)に感銘を受け初期の油彩画やエッチングなどにはクールベの影響が

非常によく表れています。

その後、ロンドンに移住し、ラファエル前派の画家たちとも親交を深め、イギリス

画壇において重要な役割を果たしました。

また、日本美術(特に広重や北斎など)の浮世絵版画や中国の陶磁器などの東洋趣味

に強い興味を示し、自身の絵画のモティーフにもそれらを取り入れています。

構図や画面空間、色彩の調和などに関して、日本美術からインスピレーションを得て

独自のスタイルを確立したジャポニスムの画家としても世界的に知られています。

ホイッスラーの絵画は、色彩と形態の組み合わせによって調和のとれた画面を構成

することを重視していました。作品の題名に「シンフォニー」「ノクターン」

「アレンジメント」などの音楽用語を使用した事も、絵画は現実世界の再現では

なく、色彩と形態から成る芸術だとする彼の考えを表したものと言えます。

こんなホイッスラーの油彩・水彩・版画作品約130点が展示されていました。

あの《白のシンフォニー No.2:小さなホワイト・ガール》

         

 《白のシンフォニー No.3》を観る事が出来て感動しました。



その他にも、エッチング作品が多数展示されていて繊細で細かな線描にも驚き

ました。

全体的にホイッスラーの用いる色彩は、モノトーンに近い作品が多く、印象派の

作風とは異なるのがよくわかりました。

          《ノクターン:青と金色-オールド・バターシー・ブリッジ》           

      
                               

            ~ ♪ ★ ☆彡 ♪ ~  ~ ♪ ★ ☆彡 ♪ ~

下欄の動画は、私が作ったものです。ホイッスラーの絵画作品を年代順にスライドで

楽しめるようにしました。BGMは、ショパンのノクターン 第1番 変ロ短調 Op.9-1

(Nocturne In B Flat Minor - Chopin) です。


デュフィ展

2014-10-01 | 絵画

先日、デュフィ展を観覧しました。 

たくさんの素晴しい作品を観て感動したので、彼の作品画像を

集め動画を作成致しました。 絵画に興味がある人に、ぜひご覧頂きたいです。

この展覧会は、彼の絵画のほかに、木版画やファッション・デザイナーの

ポール・ポワレとの出会いにより、テキスタイル・デザインという洋服の

織柄やプリント生地に彼がデザインした布地なども展示されていましたし、

又、植物を植えることができる陶器や、屏風や椅子など多彩な室内装飾品

も展示してありました。

                           

   

                                   

            

                        

デッサンと水彩画も40点ほど展示されていて、花をモティーフにした

1940年代の作品は、素晴らしいものでした。彼はこれらの水彩画を制作

する時には、水に浸してぬれた紙に水彩絵具で描くことで、色彩の透明感

を引き出したと解説されていました。

絵画作品で私が思ったのは彼のスタイルが確立されていない初期の作品は

少なかったのですがこれらは、全体的に色調が暗く感じました。            

               

でも、彼が独自のスタイルを確立している後期の作品には人物や景色といった

モティーフに動きやリズムが感じられ、色彩がとても明るくて見ていて楽しく

なる絵が多く惹き込まれました。

                

   

特に輪郭線の中にきっちり描く事をせず、色をはみだしたりして線と色を互いに

強調しており、線から自由になった色彩は、光のように美しい調和を生み出して

いると感じました。

やはり、後世に名を残す画家は、独自のスタイルや画法を持っていますね。 

今年も、あと三ヶ月になりましたがまだまだ、たくさんの美術展が

ありますので、忙しいです (*^_^*)


黒田清輝展

2014-07-16 | 絵画

今年は、あの芦ノ湖のほとりで涼む女性を描いた《湖畔》
で有名な黒田清輝画伯の没後90年にあたります。

外光派と呼ばれる印象派に影響を受けた戸外制作での
明瞭な光の表現を探求した表現手法を国内で確立し、同
時代随一の画派として画壇に君臨した黒田清輝画伯の
代表作が160点も展示されている「黒田清輝展」を先日、
観覧しました。

デッサンやスケッチなども数多く展示してありました。
又、黒田画伯がアトリエで使っていたパレットやイーゼル、
椅子などの遺品も展示されていました。

今月の21日まで京都文化博物館で展覧されています。

私は、展示作品の多さに驚きましたが、1897年の作品
《湖畔》は、素晴らしい絵で初めて実物を見たので感動
しました。

《湖畔》は重要文化財に指定されています。
モデルは黒田画伯の奥様、照子夫人です。

箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの婦人
の像は現在では《湖畔》の題名でひろく知られていますが、
明治30年の第2回白馬会展では《避暑》の題で出品され、
1900年のパリ万国博に《智・感・情》などとともに出品され
ました。

明治30年夏、黒田画伯は照子夫人を伴って箱根に避暑
のため滞在、そのときに描かれたものです。

のちに、照子夫人はその時のことを回想して「私の二十三歳
の時で、黒田画伯が湖畔で制作しているのを見に行きましたら
そこの石に腰かけてみてくれと申しますので、そう致しますと、
よし明日からそれを勉強するぞと申しました。雨や霧の日が
あって、結局一ヶ月ぐらいかかりました」と語っておられます。

日本の夏の高地のくすんだ風景、湿潤な大気を淡い色調
と平滑な筆致により、スナップショット的な構図のなかに
見事に描きだしている作品ですね。切手にもなっています。

 

黒田画伯の経歴

1866年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士黒田清兼の子として
生まれ、その後、伯父の子爵黒田清綱の養子となる。

1872年上京、1881年に共立学校(現在の開成高校)を卒業後、                                                                                    1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを
目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、
美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを
決意。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて同国で活躍した外光派
のフランス人画家、ラファエル・コランに師事。以後、師の下で
外光派様式の絵画を学びながらサロン(官展)に出品するなど
精力的に活動。

1893年、10年ぶりに帰国、美術教育者として活躍。

1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に
洋画研究所天真道場を開設し「稽古は塑像臨写活人臨写
に限る事」と規定をもうけ、指導方針とした。
印象派の影響を取り入れた外光派様式を国内で提唱。

1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足。
また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して
教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。

西洋美術の伝統に基づき、人体を描くことを重視し、裸体
デッサンを絵画制作の基礎として定着させ、解剖学と実際
の裸体モデルを使った人体デッサンを大学の教育課程に
組み入れたなどの美術界への功績も大きい。

1909年には洋画家として最初の帝室技芸員に選出、また
帝国美術院院長などを歴任。1920年、貴族院議員に就任。

後半生は美術教育者・美術行政官としての活動が中心と
なり、多大な影響を美術界に与えた。

1924年、狭心症により東京で死去。享年58歳。


                                               婦人図(厨房) 1891年

                         

                  

                                                   赤髪の少女 1892年

                 

 

黒田清輝画伯の作品をスライドでみれる動画を作成しました。

 


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (象徴主義)

2014-04-14 | 絵画

ロートレックの絵画を楽しめる動画を作成しました。

BGMは、エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグの

組曲『ペール・ギュント』より『朝』です。

 

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (Henri de Toulouse-Lautrec)

は、19世紀末のフランスを代表する象徴主義の画家。人物の内面や

社会的内情を見出す観察力にすぐれ、それを独特の感覚で退廃的

空気に覆われたモンマルトルなどパリの歓楽街で生活する人々を

見事に描いています。

 

        

 

                

 

サーカスやムーラン・ルージュなどのダンスホール、カフェ、ダンサー

などを描いた作品が有名ですが、肖像画や裸婦作品でもロートレックの

すぐれた個性が発揮されています。また多色刷り石版画制作の技術の

進歩により、大量生産が可能となったポスターの原画を数多く手がけ、

大衆的・実用性の高い作品の芸術性の発展・社会的地位の向上に

多大な貢献をしました。

 

       

 

 

 

当時、最も新しい絵画様式であった印象派の画家、特にエドガー・ドガの

斬新な構図、都会的な光の表現、明確な線描に大きな影響を受けながら

自身の様式を確立するほか、『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』や

『ディヴァン・ジャポネ』、『ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリル』

などロートレックが手がけた石版多色刷りポスターは数多くあります。

又、ロートレックの絵画には、日本の浮世絵の影響を強く感じます。 

 

           

 

               【ロートレックの経歴】

1864年、フランス南西の都市アルビで伯爵家の子供として生を受ける。

(父、母共にフランスでも有数の貴族であった) 

幼少期から学習帳などにスケッチや風刺漫画を描くものの、1878年に

左足大腿骨を、翌1879年には右足大腿骨を骨折し、この大怪我が原因で

足の成長が止まる。この間、復調するまで療養の暇を紛らわす為に精力的

に素描や油彩画を制作する。

 

1881年、画家になることを決意。また同年、パリで大学入学資格試験を

受験するが失敗、4ヵ月後再びトゥールーズで大学入学資格試験を受験し

合格する。

 

1882年、モンマルトルのアカデミー画家レオン・ボナのアトリエに入門

するも、同氏のエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授就任に

よりアトリエが閉鎖、同地のサロン画家フェルナン・コルモンのアトリエ

に移る。

 

1884年、コルモンのアトリエで若きエミール・ベルナールと出会う。

 

1886年、同アトリエへ入ってきたフィンセント・ファン・ゴッホと知り合い

親交を結ぶが、ロートレック自身は翌1887年にコルモンのアトリエを去る。

その後、「二十人会展」や「アンデパンダン展」、「印象派と象徴派の画家たち展」

などに作品を出品するほか、1891年に初の石版画『ムーラン・ルージュの

ラ・グーリュ』を印刷。以後、夜の世界を謳歌する人々や、そこで働く女性達

を描いた作品を中心に絵画・素描・ポスターを制作するが、1899年、重度の

依存症となっていたアルコール中毒の発作を起こして3ヵ月間入院。退院後も

飲酒を止められず1901年には片足が麻痺、さらに同年脳出血を起こしてマルロメ

で死去。

 

なお、ロートレックの作品に表れる夜の世界を生きる踊り子などへの共感や愛情は、

ロートレック自身が身体的障害によって差別を受けていると思っていたことや、劣等感

を持っていたことが大きな要因となっている。

(但し、ロートレックは周囲から「小さな怪物」「偉大なる芸術家」などと呼ばれ尊敬されていた)

 

         


藤田嗣治画伯 (Leonard Tsugouharu Foujita)

2014-01-18 | 絵画

                         ※2013年12月以前の記事は、http://blog.goo.ne.jp/mgmjoni にあります。

今朝、NHK教育テレビの番組「日曜美術館」で日本人画家、藤田嗣治の特集をしていました。 

私は、2006年7月に京都国立近代美術館で開催された藤田嗣治生誕120年記念の展覧会を

観覧し、その個性的な作風に感動した事があります。

戦後長らく、日本では、正しく評価されていなかった藤田画伯について、調べました。

 

            

 

藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)は、東京美術学校を卒業後、フランスに渡り、

モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍した。

とりわけ、裸婦に代表される「乳白色の肌」の優美な美しさは、多くの人々の心をとらえた。

その後中南米を旅行して日本に帰国し、二科展で活躍するとともに、第二次世界大戦中は

従軍画家として戦争画も命令され描いている。

戦争が終わるとフランスに戻り、フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けて

レオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となった。

あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、再び日本の土を踏むことはなかった。

 

※藤田嗣治画伯(以下、「藤田」と書きます)が残した言葉

私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。

私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。

私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人

として日本に生きることにもなるだろうと思う。

 

1886年:東京に生まれる。父親は、陸軍軍医。早くに母親を失くす。

1910年:東京美術学校西洋画科を卒業

当時の師であった印象派の流れをくむ『紫派』の黒田清輝には、藤田の暗く

クラシックな趣の画風はまったく評価されなかった。藤田自身もいわゆる印象派

や光にあふれた写実主義がもてはやされた、表面的な技法ばかりの授業に失望していた。

1913年:フランスに渡り、ピカソ、モディリアニ、スーチンらと知り合う。

1917年:パリのシェロン画廊で初めての個展を開催する。

1919年:サロン・ドートンヌに初入選し、会員に推挙される。

その後、サロンに出品を続ける一方、パリのほかブリュッセル、アントワープ等で個展を開催する。

1931-33年:パリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由して

アメリカに入る。

1933年:日本に帰国。

1934年:二科会会員となる。戦時中は従軍画家として活躍。

1949年:ニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれる。

1950年:パリに移住。

1955年:フランス国籍を取得。

1959年:カトリックの洗礼を受ける。

1966年:洗礼親ルネ・ラルーの依頼に応じ、ランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の

設計とステンド・グラス,フレスコ壁画を制作。ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂はフジタ礼拝堂

(CHAPELLE FUJITA )と呼ばれている。

1968年:チューリッヒの州立病院で死去、81歳。 

 

藤田の独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品は、パリで実に高い評価を得た。

トレードマークのロイド眼鏡とおかっぱ頭は、散髪するお金もなく自分で切り揃えていた時代の

努力を忘れぬようにと、成功してからのちもずっと変えることはなかった。

(ただし戦争画を描いた時期には剃髪をしている)

藤田は、数々の奇行が知られているが、実際には酒がまったく飲めず、必ず絵を描いてから出かける

ように徹底していた。その切り替えが可能だったのは、絵のためならどんな努力も惜しまぬという強く

純粋な意志と、筆の早さという業を持っていたからにほかならない。

数々の勲章を受章し画家としての成功が揺ぎ無いものになった1929年、17年ぶりに帰国。

結婚を繰り返すことで派手に思われた女性関係と、目立つ奇異なパフォーマンスは、嫉妬混じりに

日本美術界での評判をよろしくないものにしていた。「国辱」とも言われた自身への評価を、作品を

通して覆したいという思いがあったであろう。展覧会での評判は上々だった。しかし美術界の反応は

思った以上に冷淡なままで、嗣治をあらためて落胆させた。

 

※エコール・ド・パリ時代

藤田がフランスへと渡った1910-20年代、パリのモンパルナスには、各国からの芸術家たちが

ひしめき合っていた。モディリアニやスーチン、パスキン、マン・レイ、すでに有名になっていた

ピカソやマティスなど、多くの異邦人の芸術家たちがパリに集まっていました。

彼らはいつしか「エコール・ド・パリ(パリ派)」という名称で呼ばれるようになった。

藤田はこの時期、これらエコール・ド・パリの画家たちと交流しながら、独自の画風を作り上げて

いった。とりわけ藤田のトレードマークともなった、細く優美な線とやわらかな「乳白色の肌」を持つ

裸婦像は高く評価され、藤田は一躍パリの寵児となった。

 

 

   

                  

                                    

※中南米そして日本

1930年代に入ると、藤田は、それまでの繊細な線描の作品から、より写実的な作品へと移行。

こうした傾向は、パリを離れ、中南米をまわって日本に帰国したあたりからより明らかになった。

色彩は強くなり、また人やものの描写は重量感を増した。こうした表現は、二科会での活動を経て、

戦時中に描いた戦争画で頂点に達したように見える。

 

   

             

       

           

※ふたたびパリへ

終戦と同時に、最も多く戦争画を描いた藤田を日本美術界は、他の画家の保身のため、藤田ひとりに

責任があるかのように振舞った。日本人であることを何よりも誇りに思い、ようやく自らの芸術が戦争画

を通じて祖国に評価されたことを、いちばん喜んでいた藤田だったが、敗戦の日本においてその嬉々と

した態度は誤解を招き、さらに美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQに賛同して協力したこと

もあって、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになった。そして多くを反論することなく、美術界

のすべての戦争責任をひとりで背負うようにして、日本を去り、再びパリに戻った。

「藤田は逃げた」という論調で伝えられるも、実際は日本から追われたようなものだった。あくまで画家は

画業で尽くすことが使命、というスタンスを貫こうとする藤田の純粋な考えは、まだ近代に開かれていない

日本社会において居場所がなかったのであろう。ここまでされて、敬愛する父も他界した今、すでに日本に

拘る意味はなかった。

この時期の作品には、写実的な表現に、復活した藤田特有の線描の美しさが溶け合っているのが見られる。

子どもたちを描いたユーモラスな作品や、カトリック改宗後に数多く描いた宗教画などに、藤田晩年の個性的

な作風を見て取ることができる。

 

  

 

   

   

   

   



日本美術界にとって触れたくない存在となった藤田は、展覧会が開催されることもなく、長く封じられた

ままであった。

「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた藤田夫人からの協力が

ようやく得られ、2006年、藤田の展覧会が開催された。

 

~藤田画伯の「乳白色の肌」色の秘密~

藤田画伯は『乳白色の肌』の画法については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が

明らかにされた。藤田画伯は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で

混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとごく薄いベージュ色になる。さらに絵画からはタルク

が検出されており、その正体はシッカロール(ベビーパウダー)だったことが2011年に発表された。

また、穂先が極細い筆である面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていたことも修復により判明した。 

 

           画像では、美しい乳白色と細部の輪郭が消えてしまっていますが、

           実物の乳白色は大変綺麗であり、極細の描線も素晴らしいです。

 

レオナール・フジタの晩年