『ゴジラVSデストロイア』予告編 1995
昨夜アマプラで『ゴジラVSデストロイア』を鑑賞して、改めて「着ぐるみミニチュア特撮は良い、大好き!」と思ってしまった。
CGも良いですよ。シンゴジもマイゴジも、ギャレゴジもレジェゴジもゴジコンも好きですよ。
でもねえ、やっぱり
ゴジラは着ぐるみ、着ぐるみと言って悪ければ、モンスタースーツ。
スーツとミニチュアを使った特撮でなければ出せない、独特のリアリティ。
そう、そこには確実に、特撮ならではの「リアリティ」が確実にある。
リアルということの意味を、本物そっくりという意味にしか解釈していない人々が多すぎるんだな。映画における「リアル」というのは、必ずしも「本物そっくり」という意味ではない。そこにあるものは、我々の住む世界とは違う、でもその映画の中では確実に存在する、「現実」なのだ。
まあ、これは理解するというものではなく、「感じる」ものだといって良く、つまりは
「センス」の問題なんだな。
だからこれは、わからない人には一生わからないもの、なのだろう。
たぶんね。
さて、特撮は大変素晴らしい作品ですが、私には昔から納得できない点がこの作品にはある。
それは、世界線の「捻じれ」というべきもの。
平成VSシリーズにおけるゴジラは、『ゴジラVSキングギドラ』の中で、23世紀から現代にやってきた未来人によって、南洋の孤島からベーリング海の海の底にワープさせられているんです。つまり
昭和29年時のアメリカによる核実験の影響は受けていないことになる。ということはつまり
怪獣ゴジラは誕生しておらず、日本に上陸することもなかった。ということはつまり、つまり
芹沢博士による謎の兵器「オキシジェン・デストロイヤー」の使用はなかったことになるわけです。そうですよね。
間違いないですよね?ところが
この作品では、使われていないはずのオキシジェン・デストロイヤーが、いなかったはずのゴジラを斃すために使われたことになっており、その影響により
東京湾の海底に眠っていた古代生物が異常進化を遂げてしまい、デストロイアという怪獣になってしまう。
ねっ、おかしいでしょ?世界線が完全にずれている。
脚本を書いたのは、VSキングギドラもVSデストロイアも、どちらも大森一樹氏。大森氏は『ヒポクラテスたち』などの作品でも有名な映画監督であり、『ゴジラVSビオランテ』の監督もしておられる。
私が思うに、この方はSFというものをまったく理解していない、というか、ある意味SFを舐めているんじゃないかな。
自分で作った世界線を自分で壊しているんだから、世話ねーよ!
面白ければ良いというのは、基本はその通りで、この作品もまあまあ良く出来た、それなりに面白い作品ではあると思う。しかしやっていい事には限度というものがあるだろうに。
こんな風に、シリーズ全体の世界線を簡単にぶち壊すようなやり方は
私は認められない。
平成VSシリーズにて、国連ゴジラ対策センターの軍事部門「G-フォース」の麻生司令官を演じた、中尾彬さんが亡くなられました。
麻生司令官の存在は、映画に一定の重厚さとリアリティを与えてくれた。好きな役でした。
ゴジラ作品に多大な貢献をしてくれた、麻生司令官に
敬礼!
俳優、中尾彬さんに、感謝と哀悼を込めて
合掌。