リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

誰もが専門家じゃないから「信じたいものを信じる」のは仕方ない?

2018-08-22 | 一般
「ポスト真実」の時代だと言われ,人は真実が何かを問わずに自分が信じたいものだけを信じるという.だがそうした態度は何も今に始まったことではないという指摘もある.かくいう私も身に覚えがあるので,最近のネット言論と比べて果たして自分がましと言えるかどうか,検討してみたい.

たとえば尖閣諸島(とりあえず日本人の間では異論が少ないと思われるトピックを選んでおく).私は日本領だと思っているが,理論的な根拠を知っているわけではない.中国人が歴史的に中国領であったことを示す「証拠」なるものを持ち出したとしても反論はできない.だがそれでも「尖閣諸島は日本領」という意見は変えないだろう.専門家ならきっと中国側の証拠の不備を突いたり,あるいはもっと強い日本側の証拠を示せるだろうと思うからだ.だがこれも結局は「信じたいことだけを信じている」ということではないだろうか.

そんなわけで私も真実を顧みないネット言論を批判できないのではないかと思ってしまうのだが,やはり自分は「ポスト真実」の陥穽にははまらず,冷静に真実を追求する心持があるつもりだ.
そんなことを思ったのは,「信じたいものだけを信じる」人たちと日々対話している人の経験談を読んだからだ(朝日新聞2018-8-21).香山リカさんがSNSで罵倒や誹謗も含めた批判を寄せる人たちと対話を続けている経験を紹介しているので,それをもとに考えてみたい.

・「沖縄での抗議行動に参加する人の大半は国外・県外の活動家」と主張する人が,それを示す写真のみを信じて,参加者の多くが沖縄県民である資料を示しても認めようとしないという件.互いの証拠を突き合わせて検証しようとせず,自分の証拠のみを信じるのはやはり健全な議論はできない.だがこれは上記の例でいう私が「中国側の証拠を信じない」というのと同じではないか.だが私は少なくとも,自分が論拠を示せないのであれば,自分の意見を相手に押し付けようとはしないし,ましてや罵倒・誹謗はしないつもりだ.

・資料を示して反論すると,「人の意見に頼ろうとしている」と否定的に取られるそうだ.そういう態度が多いというのは私には信じられない.そういう人々は,人が何を言おうとおかまいなしに自分の意見だけを言うことが正しいと思っているのだろうか.人の「意見」に頼るのを批判するのはわからないでもないが,記事の例では客観的な「資料」を出したのに対してそういう反応が返ってくるという.その「資料」が人の書いた論文だったりすると,結局「その学者の意見でしょ」ということになってしまうらしい.そこで,学界での議論の積み重ねの重み,という次の点になる.

・権威ある学者の論文を示しても「そんな人は知らない」「どうせサヨクの仲間だろう」と切り捨てられ,歴史家による共通見解も「でっち上げ」で片付けられてしまう.私も学者がそんなに偉いのか,とか学界だって誤ったパラダイムに支配されることはあるのではないか,という懐疑心は頭の片隅にあるが,それにしても,主張に反論するのではなく,単に切って捨てて取り合わないというのは建設的でない.こうした態度は,不幸なことに,安倍政権が,国会で野党の主張・批判に反論を示すこともなく,単に取り合わないという姿勢を取り続けたこととも共通している.

・「北海道にはアイヌ民族より先に和人が居住」「太平洋戦争はアジア解放の戦い」といった暴論が,何万回と語られることで信憑性を帯びてしまう傾向.あちこちで同じようなことが語られていると,特に予備知識のないトピックの場合はそうなのかと思ってしまうことも多い.だが少人数の大量投稿で「炎上」が起きることがわかっており(過去ブログ),さらには右派(だけではないかもしれないが)がボットによる自動拡散もしている(過去ブログ).これは受け側の問題というよりは,言論空間の構造上の問題だろう.少人数によって歪められる「ネット世論」にどう対処すべきかは「ポスト真実」を助長する構造ではあるが,また別の問題として考える必要がある.

追記:
「「論争は専門家に任せるべき」は自分で考えることの放棄なのか」に続く.


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