場面のある恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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恋の邪魔ものたち 「源氏物語」の夕霧に似た場面 (場面のある恋の歌)
さて、恋には波瀾(はらん)がつきものである。じつにさまざまな場面を体験しつつ、むずかしい場面も深刻にならず興(きょう)がって歌にしている。
春宮に鳴門といふ戸のもとに、女と物言いけるに、親の
戸を鎖(さ)して立てて率(ゐ)て入りにければ、又の朝(あした)
につかはしける
鳴門よりさしわたされし舟よりも我ぞよるべもなき心地せし
藤原滋幹
(鳴門の激しい潮流に押し流されて漂い出てきた舟のあやうさよりも、急にあなたと隔てられた私は寄るべもない当てどなさにやりきれぬ思いです)
「鳴門」は開閉の音が耳に立つ戸だったのか。しかし、歌枕にちなんだ興趣のある名がつけられている。その戸口で女を口説いている滋幹、せっかくの出会いの場に、向こうからやって来た親。
女親だろうか、「こんなところにいてはいけませんよ」などとさりげなく言って娘を連れ去る。去りぎわに、「鳴門」をギイとばかりに閉めて、若い男との間をつれなく隔ててしまった。次の朝に贈った滋幹の歌に返歌はない。それも余興といえようか。
異女(ことをんな:妻など定まった女以外の女)の文を、妻の「見む」と言いけるに見せざりけれ
ば、怨みけるに、その文の裏に書きつけてつかしはける(つかはしけるの誤植?)
これはかく怨みどころもなきものをうしろめたくは思はざらなむ
よみ人しらず
この歌は詞書にあるように、よその女から用向きの手紙がきたのを、妻が艶書かと疑って、「見たい」と言ったが、別にたいしたこともないので見せなかったところ、たいそう怨んで言うので、来た手紙の裏にこの歌を書きつけ、妻のもとにもっていかせた。という場面である。
歌は妻が見たいと望んだ手紙の「うら」に書かれていたので、現物ともども届けたのだ。「どうぞごらんなさい、あやしい手紙ではありませんよ」といっているのだからつよい。「恨みどころ」と「裏見どころ」が掛けられているくらいの技巧だけだが、妻への洒落た答えとしてみごとである。
「源氏物語」にも似た場面が取り入れられているのを記憶する人も多いだろう。「夕霧」の巻で、落葉宮(光源氏の女三の宮に子を産ませ、光源氏の脅迫で病気になり死亡した柏木の妻)の母君から来た手紙を夕霧の妻の雲井雁(くもいのかり)があやしんで奪い取る場面がある。
絵巻にも描かれており、女性にとっては興味深い場面であったといえよう。雲井雁もこの場合は納得して一件は落着したが、男女ともに手紙が届く場面はつねにスリリングで、何事かの劇がはじまる予感に満ちているものだ。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」
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