場面のある恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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恋ざめ頃の男女の応酬
男も女も交流が広がればどうしても疎遠になるところがあるのは当然である。しかしまた、ある男は次のような諧謔(かいぎゃく: こっけいみのある気のきいたしゃれや冗談)をもって女との間を回復しようとした。
あひ知りて侍りける人のもとより、ひさしくとはずして、
「いかにぞ、まだ生きたりや」と戯れて侍りければ
つらくともあらんとぞ思ふよそにても人や消(け)ぬると聞かまほしさに
「後撰集」恋二 よみ人しらず
(あなたの思いやりが薄かったとしても、私はずっと生き在(ながら)えていようと思います。疎遠になった遠くからでも、あなたがこの世から消えたということを聞きたいものですから)
これは、とても手きびしい返事。女はすっかり怒ってしまったのだ。戯れとはいっても、長い無沙汰のあとに「いかにぞ、まだ生きたりや」はひどい。男は「戯れ」のつもりでも、それまでの男の交際態度に、女は真実味を感じ取っていなかったのだろう。別れてしまって悔いのない男だったにちがいない。
これとは反対に、同じ「後撰集」の「恋二」には女が男の愛を逆説的に確かめようとする場合だってある。
言ひかはしける女のもとより「なおざりにいふにこそあんめれ」といへりければ
色ならば移るばかりも染めてまし思ふ心をえやは見せける
紀 貫之
(もし色にたとえていうなら、あなたにこの思いの色が移るまでそめてしまおうものを、あなたを思う心の色はおみせできずに残念です)
さすが貫之、物やわらかに、諭すように応じている。女は恋の場でいう世間一般の男の言葉と同じレベルで貫之の愛の言葉を捉え、「言ひかはしける」ことさえ軽く受け止めていたのであろう。「あれはその時の出まかせで仰ったお言葉でしょう」と言ってきたのである。
しかし、貫之の方はかなり捨てがたい魅力を感じていたのだろう。「色ならば」という比喩も「移るばかりも染めてまし」という情の表現も美しく巧みである。とはいえ、女のがわからは、男の戯れにはいつも用心深く、真情を疑う立場に立ってみる気持ちも大事である。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」