13-前半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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父の浮沈
父は安和(あんな)元(968)年、播磨権少掾(はりまのごんのしょうじょう)となった(「類聚符宣抄」八)。私の生まれる前のことだ。また貞元二(977)年には、東宮の御読書始めの儀という華々しい場で「尚復(しょうふく:(「尚」はつかさどる意) 宮廷での講書の際に講師を補佐する)」なる役を与えられた(「日本記略」同年三月二十八日)。
この儀式で東宮に講義を御授けする役は「学士」と呼ばれ、門閥の学者が務める。この時は菅原輔正様だった。父はその補佐の役を得たのだ。時に十歳だったこの東宮、師貞様が後の花山天皇だ。
おそらく、この大役には理由があったのだろう。師貞様は冷泉天皇の第一王子で、母は藤原伊尹(これまさ)様の娘、懐子(かいし)様だ。だが既に伊尹様も懐子様もこの世に泣く、師貞様の味方といえば亡母懐子様の弟である義懐(よしちか)様お一人だった。ところがその義懐様の奥様が、亡くなった私の母と従姉妹同士なのだ(図の系図6)。
東宮師貞親王の近習(きんじゅ)の中で、父は多くの人物の知遇を得た。例えば藤原惟成(これしげ)。永観二(984)年、親王が即位するや、彼は唯一の外戚である義懐様の片腕として、天皇の側近職、蔵人となった。やがてついたあだ名は「五位の摂政」。位は五位だが、天皇にすべてを任されているといってよいほど実務を取り仕切っているという意味だ。
父も六位蔵人となり、式部省の三等官式部丞を兼ねた。天皇の側近という立場に加え漢学も活かせるという、願い続けた官職を得たのだ。
ようやっと巡り来た春に、父はこう詠んだ。
遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな
[たとえ遅咲きでも、咲くべき花は咲くのだなあ。私は我が身をもうこれまでと見限っていたけれど、この私もついに花が咲いたよ。]
(「後拾遺和歌集」春下147番)
蔵人所の上司である藤原道兼様の邸で、名残の桜を惜しむ宴が催された時の歌だ。
つづく
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