6-4 浮舟をめぐる匂宮と薫 宇治十帖 (源氏物語)
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集
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6-3 のつづき
浮舟は二人の恋人の間に立って、死を選ぶほかないと思いはじめる。浮舟に逢えなくなった匂宮はいよいよ焦燥のあまり、無理をして浮舟に近づこうとした。
なげきわび身をば棄つともなきかげにうき名流さむことをこそ思へ 浮舟
(いくつもの歎きが重なり、判断もしかねるわが身ながら、もし身を捨てたとしても、その後に浮き名が噂されるであろうことを思うと、それが何ともつらいことだ)
このような思いのなかで、浮舟が最後に返信を書いたのは匂宮に宛ててであった。薫にも死へ向って歩む自分の恋のはての思いを知らせたくは思ったが、匂宮と薫は親友以上の間柄だから、必ず後々互いに聞き合せて、二人に宛てた文面を見せあったりすることもあろうと思い、それは避けてほしいと思ったとき、匂宮だけに返信する結果になったのだ。
匂宮に届けた最後の歌は、「からをだにうき世の中にとどめずばいづこをはかと君もうらみむ」という、死をほのめかせた一首であった。「なきがらさえこの世にのこすことをしなかったなら」という上句には、すでに尋常の死を選ばない方向性は見えているが、そうした想像が働かなかった匂宮の心には、ただの比喩としか映らなかったのであろうか。「お墓さえもどこにあるかわからないなんて、とあなたは怨むことでしょう」と下句でうたっている。
そしてこの歌のとおり、浮舟は失踪し、宇治川に投身自殺したと側近の人々は考えた。その直前、浮舟がまだ身の終り方を考えていた時、誦経の鐘の音が風に乗って聞えてきた。浮舟はその鐘の音に聞き入りながらしみじみと横たわっていた。その時まるで辞世のように詠んだ歌がある。心にしみる歌だ。
鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君に伝えよ 浮舟
(読経とともに打ち鳴らす鐘の音のゆりびき(音の高低・強弱が揺れるひびきのようなものか?)に、さらに私の泣く音を添えて、私の人生もついに終ってしまったと伝えてください)
ここに対象とされた「君」は直接には母君だが、浮舟の全生命を悩ませた二人の貴公子の面影が含まれていないとはいえないだろう。
「浮舟」の巻は「源氏物語」の中で唯一、処理不能となった苦しい恋の物語である。二人の男から熱烈に思われて不幸になった物語は「万葉集」の中にもいくつかの物語が伝承されうたわれていたが、物語の愛好が広まった平安時代に創出された「浮舟」の物語は、きわめて近代的な恋愛の悩みに近く、愛をめぐる男女の心の奥深くに錘鉛(すいえん:測深器のおもりとする鉛(なまり)でつくった器具。 比喩的に、物事をはかるときに、標準となるその人の判断力)をおろしつつ描いた斬新なものであった。
当時の読書たちの観念にあった、いわゆる色好みの常識をはずれた、真摯な苦悩が、三者それぞれにみられる。
6-5 浮舟をめぐる匂宮と薫 宇治十帖 (源氏物語)につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」