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C1 和泉式部の恋と歌 紫式部の厳しい評価を挽回

―参考図書のまえがき抜粋ー
    ハードルの高い本です
  和泉式部の恋の歌の魅力は、心から心に伝えようとする言葉の力であろう。恋の歌もしだいに歌合の場で競われる題詠の歌が多くなり、人々の鑑賞に堪える言葉の芸術になってゆく。その頂点に立つのが『新古今集』の恋の歌だが、ここには表現そのものがもつ新鮮なおどろきがあって、それが文学的感動を生んでいる。
  しかし、すみやかな時代の流れの中で、中世の人々は、恋という人間的欲求のかないがたさこそ真実だと思いはじめる。そして「忍ぶる恋」に恋の高貴さを、「失われた恋」に世の無常を思う歌の世界がひらかれる。さらには、南北朝の内乱期になると、恋の表情はいっそう悲傷の色を加え、もはや和泉式部が歌ったような、黒髪の乱れを直してくれる温かな男の手はなくなって、黒髪はただ涙にぬれるばかりである。
  しかし、そうした中にも、愛を挑発する心があり、応じる心がある。人が人を愛することのよろこびとかなしみは、永遠のものなのである。
―――まえがき終わり―――

  心から心へ
  勅撰集としては四番目に当る『後拾遺集』は稀有な撰集で、女性への歌への熱い注目が一つの特色をなしている。『拾遺集』の成立後、八十年程の空白があったため、多くの秀歌が集積していたはずであるが、男性歌人の収録歌のトップが能因の三十一首であるのに比べると、赤染衛門(あかぞめえもん)が三十一首、相模三十九首、和泉式部にいたっては六十八首という大量の入集をはたしている。
  『後拾遺集』は、成立をみた1086年、白河天皇は譲位し、上皇として自ら院庁で政務をみるという、いわゆる院政時代のはじまりに当っており、すでに摂関政治は衰退期に入っていた。こうした新しい時代の胎動がはじまっているような時期に、和泉式部の歌や一条朝の女歌がクローズアップされてくるのはなぜだろう。和泉式部の六十八首という入集歌中、半数は恋の歌であり、和泉式部はまさに恋の歌で知られた歌人なのだ。
  歌人たちは表現の巧緻による称賛を求める反面では、心から心に伝わる言葉の秘策がどこにあるかを、和泉式部の歌にみていたにちがいない。

   夜ごとに来むといひて夜がれし侍りける男のもとにつかはしける
― こよひさへあらばかくこそ思ほえめけふ暮れぬまのいのちともがな ―
   [現代語訳
   今宵という今宵もまた、あなたのことを思って待ち過ごすなら、どんなにつらく、苦しく堪えがたいでしょう。いっそ、夕暮れが来ぬまに、この命、消えてしまいたいものです]

  毎夜必ず通ってくると言った男の言葉を信じて待っていたのに、男は約束を守らなくなってしまった。その不実な男に向けて、「けふ暮れぬまのいのちともがな」と言い送っている。

  「いのちともがな」は、当時すでに恋の情熱をうたう時の常套句であったかもしれないが、それならなお、この一句をうたい据えることにはかなりの自負と言葉のちからが必要である。

参考 馬場あき子著 日本の恋の歌~恋する黒髪~
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