場面のある恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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一条摂政(一条天皇の摂政)の恋の虚実 (場面のある恋の歌)
「後撰集」の編纂に和歌所の長官として参画したのは一条摂政伊尹(これまさ・これただ)である。その家集は「一条摂政御集」というが、自身を大蔵史生倉橋豊蔭(おおくらししょうくらはしとよかげ)という無位の下級官吏に擬しさまざまの女との恋の場を物語風に演じている。「後撰集」には二首しか採られていないが後世の選集には合わせて二十二首の入集がみられる。
女のもとに衣を脱ぎ置きて、取りにつかはすとて
鈴鹿山伊勢を海人の捨て衣しほなれたてと人や見るらん
藤原伊尹
(鈴鹿山の彼方の伊勢の浜辺に住む海女が脱ぎ捨てておく衣を、どうにも潮じみた情けないものとごらんなさるでしょうね)
今日からみると女の部屋に衣を脱いだまま帰るという場面が独特だが、この時代にはよくある詞書である。
どうしてこんなことが起こるのかふしぎに思えるが、寝すごして、明け白む頃に急いで人目を逃れようとしてのことだろうか。いずれにしても失敗をカバーする歌だが、それもまた色好みの笑いふくみの風流とされたのであろう。
伊尹の歌は「新古今集」や「新勅選集」などに多く採られているがすべて恋の歌で、「百人一首」には次の歌が選ばれている。
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
「拾遺集」恋五 謙徳公
(もし私が、あなたに思いを残したまま焦がれ死にをしたとしても、「あはれ」と身にしみて悲しんでくれる人があるとはとても思えないので、この身は何の価値もないままに、徒らな死者となるほかないのですよねえ)
謙徳公という名は伊尹の人徳への贈り名である。この歌は「一条摂政御集」の巻頭歌で、「年月を経て返りごとをせざりければ、まけじと思ひていひける」と、例によって返事を寄こさない女への怨みの挑発だが、伊尹が好んだ恋のスタイルはあくまで弱者の立場からの訴えめいている。
伊尹は藤原氏の氏の長者となるべき家の祖、右大臣師輔(もろすけ)の長男である。「大鏡」は「帝(円融)の御をぢ、東宮(花山)のおほぢにて、摂政せさせたまへば、世の中は我が御心にかなはぬことなく、過差ことのほかに好ませたまひてーー」と記している。
そういう派手な人が、なぜ卑官の大蔵史生(ししょう)などに身をやつして恋の歌ばかり作ったのかを考えるのは魅力的だ。
「恋」とはたぶん伊尹が考えていたとおり、相手の心を請うものであり、身分の高さや立場などがあっては面白味がないはずのものなのだ。伊尹は惜しくも四十九歳で亡くなったが、「大鏡」は、政治的手腕はもとより、あまりに才能がありすぎたのだと言っている。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」