場面のある恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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(三分割の一) 恋は身勝手のいろいろ (場面のある恋の歌)
愛の仲だちはやはり言葉なのである。ちょうどの折を捉えてちょうどの言葉を贈るわざはやはり人生経験が豊かで人間関係が深い人でないとなかなか成功しない。次のような場合もある。
朝顔の朝臣、年頃消息通はしける女のもとより、「用な
し、今は思ひ忘れぬ」とばかり申して、久しうなりにけ
れば、異女(ことおんな. 妻以外の情人である女)に言ひつきて(言い寄って親しい間柄になり)、消息もせずになりにければ
忘れねと言ひしにかなふ君なれどとはぬはつらきものにぞありける
「後撰集」恋五 本院(上皇や法皇が二人以上いるとき、第一の人)のくら
(私のことはわすれてください。もうああたはいらないから、と言ってやったあなただけど、全く手紙もよこさないというのは、あんまりです。さびしいわ)
これは何ともあからさまな男女関係だ。むしろ、よほど仲がよかったのかと想像したくなる。熱烈な恋愛ではないが、ほどほどに長続きしてきた関係。それが、女の方に新しい恋人が出来て、朝頼(あさより:藤原北家勧修寺流、官位は従四位上・勘解由長官)とのマンネリの恋がつづくのが面倒になって、つい馴れ馴れしい甘えから、「用なし、今は思ひ忘れね」などと凄まじいことを言ってやった女、それが本院のくらだ。本院というので左大臣時平家の女房であろうと考えられている。
朝頼は定方の次男。こんなことを言われては当然女から遠ざかる。ほかにも女は沢山いる。といわんばかりの遠ざかり方で、こちらも新しい女性との交際を楽しんでいるところに、この歌が届いた。はたして昔の契りは戻っただろうか。恋は本当にわがままで客観性がなくなってしまうものなのだろう。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」