2-1.元良親王 宇多院の御息所褒子(ほうし)との密通
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版
色好みの源流:元良親王 一夜めぐりの源流
宇多院の御息所褒子は菅原道真を失脚に追いやった左大臣藤原時平の女(むすめ)である。たいへんな美貌であったらしい。
法皇となった宇多院は息子である醍醐天皇の女御になるべく定められていた褒子にいたく関心を寄せておられた。
いよいよ入内の日となって、宮中から女御をお迎えする牛車も到着し、着飾ったお供の女房たちが車にいまや乗り込もうという時、にわかに法皇が左大臣邸に御幸になった。人々は何事かと驚きあわてて入内のための行列の次第や威儀は大混乱に陥ってしまった。
この話はなぜか『俊頼髄脳(源俊頼)』などの歌論書の中の逸話として語られている。褒子の父時平も狼狽をかくせずにいると、法皇は「入内を一刻も早くと促しにきたのだ」と言って、女御の控えの間に強引に入ってゆかれた。
法皇のされることを阻止するわけにもゆかず、父時平をはじめ一同困却の極に達した時、折よく宮中から時刻も移るのに何の遅延かと、本当の催促がきたので、ここぞと法皇にこのよしを申し上げたが御返事もない。
しばらくすると、法皇は褒子の部屋の内から、「これは老法師たまはりぬ(この女御は私がいただきましょう)」と言い出されたので、一同あきれながらもどうすることもできず入内の行列も解散になってしまった。
『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』によれば、その後褒子は宇多法皇の皇子を三人(雅明親王・載明親王・行明親王)まで儲け、京極御息所と呼ばれることになる。
褒子は美貌に因する逸話が多い女性で、俊頼はこの宇多院の花嫁強奪事件につづけて、より若い日の褒子が志賀寺(崇福寺。今も遺跡がある)に参詣した時の逸話を載せている。牛車の窓からあたりの景色を眺めていた褒子は、ふと粗末な草庵の中からじっと自信をみつめている老法師に気づき、急いで窓の奥に引き籠った。
つづく