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朧月夜の「草の原」 (源氏物語)

朧月夜の「草の原」 (源氏物語)

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  「源氏物語」の「花宴」を藤原俊成は「殊に艶なる物也」と讃えている。源氏に一夜拉致され密会した朧月夜の歌をみてみよう。

  朧月夜と呼ばれている女性は、左大臣家の婿の源氏にとっては政敵ともいえる右大臣家の六の君で、桐壺帝の一の女御である弘徽殿の末の妹(絵参照)である。それは宮中で花の宴が催された夜更けのことであった。源氏は藤壺(と呼ばれる建物)のあたりを徘徊しつつ、もしやと思う好機を考えていたが、さすが藤壺の戸締りはしっかりしたものであった。源氏は物足りぬ思いから、ふと弘徽殿の細殿に立ち寄ってみると、北から三番目の戸口が開いたままになっていた。女御はお召しがあって上の御局に上られたので、人少なである。入ってみると不用心にも奥の枢戸(くるるど:ドアのように開閉する戸)まで開いている。人はみな寝静まって物音もしない。

  そんな時に何と「朧月夜に似るものぞなき」と古歌を口遊(くちずさ)みながらこちらに歩いて来る女人があった。源氏はふいの出会いにうれしくなって、分別も忘れ女人の袖を捉えた。女は怖ろしいと思う様子であったが、源氏は「おぼろげならぬちぎりとぞおもふ」などとうたいかけながら、ゆっくりと抱きおろして、戸を閉めてしまった。一夜は早く明けて、源氏は女が誰であるかを知りたいと思ったが、女は名乗らずに歌を詠んだ。

   うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

  「ふいにあなたと契りを交わした憂き身の私が、このままもし死んでしまいましたら、あなたは名も知らぬ女として、草葉の茂る墓原まではお探しになることはないでしょう」といっている。薄情な浮気男として源氏をなじっているのだが、その姿は「えん(艶)になまめきたり」と書かれている。

  この女性こそ、その後の源氏の運命を一時窮迫させる原因となる朧月夜の君であった。少しく奔放な情熱に身を委ねることができた朧月夜の君との恋に、源氏は夢中になり、夏の雷鳴とどろく中で愛し合っている現場を右大臣に見つけられてしまう。そして、東宮妃にもと予定していた姫を奪われたことで一家の激しい恨みを買うことになる。左大臣の致仕(ちじ:辞職)、源氏の須磨引退はここからはじまったのである。

  もう一つ、この歌がのちのちまで有名になったのは、建久四年(1193)藤原良経の主催する「六百番歌合」の中で、判者藤原俊成が下した判詞によるものだ。
  「冬上」の場で、題は「枯野」。良経と隆信の歌の勝負である。(左方と右方に分かれて勝負の)左方良経の歌は、「見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに」であった。この時右方から非難が出て、「草の原」は墓場のようで、この歌にはふさわしくないといわれた。この時俊成は「何に残さん草の原といへる。艶にこそ侍るめれ。・・・其の上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と述べて、左方に勝判を与えたのである。以後、「源氏見ざる歌詠み」という不評を買わないための努力は、「源氏物語」に歌の根本にある人間理解や、情緒の醸成に作用する言葉の働きなどを学ぶようになり、人生のテキストとして尊重を深めるようになってゆく。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」
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