見出し画像

gooブログのテーマ探し!

42- 平安人の心 「夕霧 後半:一条御息所の死 夕霧と落葉の宮の動きと雲居雁の逆上」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  一条御息所の文は、夕霧がそれを読む寸前に、夫の背信を疑う雲居雁によって奪い取られてしまう。夕霧がその文を読んだのは翌日で、時すでに遅かった。夕霧の態度に絶望を募らせ、御息所は帰らぬ人なっていた。落葉の宮は衝撃から、母の後を追いたいとまで思う。
  母の死の原因を作った夕霧がまるで夫のような顔をして葬儀の采配を振るうのも疎ましい。だがこの頃には、落葉の宮に仕える女房たちが心を合わせ、宮と夕霧の結婚を望むようになっていた。それが自分たちの暮らしの拠り所となるからである。

  夕霧はその後も小野に通い詰める。二人の噂が流れるが、光源氏も口出しはできない。不本意な結婚にからめ捕られてゆく落葉の宮を目の当たりにし、紫の上は、女性というものの生き難さに思いを致した。そんな周囲をよそに夕霧は着々と結婚計画を進め、落葉の宮を小野から一条に引っ越させ、自らは主人のように一条宮で待ち、落葉の宮を迎え取った。
  落葉の宮は塗籠(ぬりごめ:邸内部の物置)に立てこもって夕霧を拒むが、女房が夕霧に加担して夕霧を塗籠に入れたため、ついに押し切られ、契りを結んでしまう。

  いっぽう夕霧の本妻の雲居雁は、夫の浮気に腹を立て、姫君たちと幼子を連れて実家に帰る。ことの面倒さに、「誰が恋など風流がるのか」と夕霧は懲り懲りの気分である。このように、まめ人・夕霧が豹変しての恋愛劇はごたごたの様相を呈するのであった。
**********

  結婚できない内親王

  私たちに親しみ深い結婚された内親王といえば、紀宮清子さまだろう。動物がお好きで、盲導犬に関わるご公務に勤しまれた爽やかなお姿は、まだ記憶に新しい。紀宮さまは、平成の天皇・皇后両陛下の「いつかは結婚するように」との方針のもとで育てられたと聞く。そして結婚されて黒田清子さんとなり、幸せにお暮しのことと拝察する。だがその幸せは、平安時代の内親王たちには難しかった。当時、内親王とは基本的に結婚しない存在だったからだ。

  律令のひとつ「継嗣令(けいしりょう)」は、内親王はじめ四世皇女までの結婚を、天皇や皇族を夫とする以外、認めていない。皇女たちが他氏の男と結婚すれば、彼女たちを介して天皇家の血が他氏に流れてしまう。それを阻んで天皇家の権威を守ろうというのが、法の主旨だ。
  だが摂関期、天皇には藤原氏の娘が続々と入内するようになった。皇女たちは圧倒され、いきおい独身で生涯を過ごすことが多くなった。今井源衛氏によれば、平安時代が始まった桓武天皇(737~806年)から「源氏物語」直前の花山天皇(968~1008年)の時代までの間に、皇女の数は百六十余人。うち結婚したのは、わずかに二十五人と、六人に一人に満たない。彼女たちがいかに結婚に縁遠い存在だったかがわかるだろう。
  ところが「源氏物語」には、そんなまれな結婚を一人で二度もした内親王がいる。朱雀院の次女・落葉の宮だ。最初は柏木と結婚し、その死後は夕霧と再婚している。

  実は、実態としての皇女の結婚は、法の通りではなかった。天皇や皇族以外の、臣下と結婚した皇女たちもいたのだ。今井久代氏は、そこに二つのパターンを指摘する。
  ひとつは、皇室と藤原氏とが手を結ぶための政略結婚。実は、柏木と落葉の宮の結婚にはこの要素があった。柏木は、藤原氏の筆頭・太政大臣(元の頭中将)の長男である。かつて女三の宮との結婚を願い出た時には、朱雀院は「まだ若いし、身分も低い」とはねつけた。だが落葉の宮との縁談の時にはもう中納言。今上帝からも信頼される、評判の人物だった。柏木と縁組をする利益が、朱雀院やその子の今上帝にも十分にあったと考えてよい。
  そしてもうひとつのパターンは、「私通」だ。臣下の男が、父帝、または父院の目を盗んで内親王を我がものとする、スキャンダラスな結婚である。寡婦となった落葉の宮に夕霧が言い寄り、ついには陥落させたのは、このケースといえよう。だからこそ、落葉の宮の母・一条御息所の心痛を招き、落葉の宮自身、塗籠にこもってまでも抵抗したのである。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「平安人の心で読む源氏物語簡略版」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事