場面のある恋の歌
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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(三分割の三) 恋は身勝手のいろいろ (場面のある恋の歌)
男のまで(訪で)来て、すき事をのみしければ、人やいかが見る
らんとて
くることは常ならずとも玉葛(たまかづら)たのみは絶えじと思ふ心あり
「後撰集」恋六 よみ人しらず(女)
返し
玉鬘(たまかづら)たのめくる日の数はあれどたえだえにてはかひなかりけり
男
詞書をみると、男が「まで(訪で)来て」何か色っぽく言い寄る。それがしょっちゅうとなると、同僚がどうみるか、きっと自分を好きものの女と思われるにちがいない、心配だと思っている。
男がたやすく訪問できて、同僚の女たちがいるのだから、どこかの邸に女房として出仕している女かもしれない、馴れ馴れしく色好みっぽく、言い寄って甘い言葉をささやくのであろう。そういう無遠慮な男の接し方を女の方は好いてはいない。
しかし、累々と邸を訪れるということは、この邸の関係者かもしれない。とすれば、女も適切な対応をしておかなければならないだろう。そこでこの歌「あなたが御訪問くださるのは、そんなに頻繁でなくても、草の蔓(つる)を繰るように、長く変わらぬお心が絶えませんようにと思っておりますわ」と言ってやった。
女の真意は「常ならずとも(頻繁でなくとも)」にあるのだが、男は女の歌を色よい返事とみていっそう熱くなってしまい、私の情熱のほどをお見せしましょうとばかりの返歌を送ってきた。「あなたとの絆を頼みとして蔓草を手繰(たぐ)るようにやってくるのですが、絶え絶えはいけませんね。毎日、できるかぎりあなたに手繰り寄るようにまいりますよ」という。困ったものである。やはり恋は状況判断ができなくなるものか。こんな時、女はどうしたらいいのだろう。
もう一つ凄まじい場面を紹介しよう。ある男、愛人がどうも他の男と深い仲になっているらしいのを恨んで、「あなたは今、新しい恋人がいるんでしょう。それでは私はもう行けそうもないね」と言ってやると、ちょうど女のもとに来ていた新しい男が、女に代わって詠んでよこした歌だ。
思はむとたのめし事もあるものをなき名を立てでただに忘れね
「後撰集」恋二 よみ人しらず
(愛は変わらないと私を頼みに思わせた時もありましたね。けれど今はもうおしまいです。私のことを浮気な女などといわず、今はただ忘れてください)
女を占有した男が、女に代わって前の男にあいそづかしの歌を詠む。恋とはまことに凄い世界である。
現代短歌の中の「恋」と比べてみると、昔の方がずっと激しい情と涙に彩られた現場に富んでいて、そこに歌があるということがまさに劇的である。しかも、その一首の歌、あるいは歌の贈答によって、その人生の途次の劇的な場に一つのとじめがつく。歌の力とはそういうものだったのである。
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」