
色好みの代名詞 平中
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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後半 再び伊勢と平中
それでも男は期待して出掛けて行くと、簀子(すのこ)縁に上がることが許された。ところが女の姉妹たちが簾(すだれ)のもとに寄ってきて、男をためそうといろいろ趣ある話題をなげかける。それはそれとして楽しくないこともなかったが、目的は目指す女とのしみじみとした対座だったはず。
そこでこの魅力的な女を口説き落とそうと考えていたもくろみはすっかり外れてしまった。これは女が賢かったのか、男が女の本心を見きわめ切れなかったのか。男は薄情な女に恨みの歌を贈った。
うちかはし誓はぬそでを雨雲と降りし時期は月に見えけむ
(夜の袖を打ち交わして愛を誓うこともなく帰ってゆくとき、袖に雨雲を洩れる時雨のように降り注いだ私の涙、あなたはそれを、月光の下ではっきりごらんになったはずですよ)
平中はまたしても、伊勢という女の憎いもてなしに翻弄されたことになる。しかし、もう一面からみれば、平中と伊勢は同じ中流階級の男女として、近似の生活習慣にある親近性をもちあっていたであろうし、互いにその和歌の才には一方ならぬ関心を寄せていたにちがいない。
伊勢は権門藤原北家(ほっけ)の時平・仲平兄弟に恋を競わせたほどの才色をもっていたが、そうした上層階級の人々との交際とは全く別の交際を、平中のような同じ階級の男たちとの間では気楽に歌でやり取りしている。こうした場面を通して、男女の間の情の動きや、応答のテクニックにも慣れることが、女にとっては世を知ることでもあったのだ。
色好みの高雅な精神は、本来の世間的命運への反逆の志を含んでいたにもかかわらず、しだいに世俗的な退廃を加えてゆくのはいたし方ないなりゆきだったのであろう。「平中物語」で「いちはやきみやび」と嗟嘆(さたん: 感じいってほめること)されたような鮮やかな場面もなく、日常化した「恋」の少し下世話な葛藤に、人間の滑稽さが笑いを誘う場面もある。
しかし男女の情がなつかしい美しい物語ももちろんある。その中から好きな物語を一つ紹介したい。
次回 色好みの恋とその終焉 につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」
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