12 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書 」
第1章
ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相
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1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
近衛文麿内閣は、緊張が募る日米関係を打開しようとして、4月に日米交渉を始めることを決定した。
日米交渉は、4月14日に、野村吉三郎駐米大使が、ハル国務長官をワシントン市内のウォードマン・パーク・ホテルのなかにある長官の私邸にたずねて、会議することによって始まった。
野村大使はつづく4月16日にも、ハル長官と会談した。5月だけでも合計9日、会議を重ねたが、見るべき進展がなかった。
日本本土奇襲爆撃計画は、陸海軍合同委員会によって、すでに作戦名が「JB-355」とつけられた。(JBは「合同委員会(ジョイント・ボード)」を省略したもの)は、偶然「ジャパン・ボムバードメント」(日本本土爆撃)の頭文字と一致している。
ルーズベルト(FDR)大統領は5月15日に、陸海軍に蒋介石政権に爆撃機を供与して、「JB-355」計画を具体化するように、公式に命じた。これは、機体に青天白日マークを塗って中国空軍機に偽装して、アメリカの「義勇兵」に操縦させ、中国の航空基地から発進し、東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃するという計画だった。
目的は、日本の「兵器および経済体制を維持するために必要な生産施設を根絶するために、日本の民需、軍需工場を破壊する」ことだった。
7月18日、日本本土奇襲爆撃計画書に陸海両長官が連署し、ルーズベルト(FDR)大統領はこの作戦案の提出をうけて5日後に承認した。
日本の機動部隊が真珠湾を攻撃する、五か月前のことだった。
この日、7月18日に、近衛首相が内閣総辞職して、第三次近衛内閣が発足した。
日独伊三国同盟を象徴する松岡洋右外相を更迭するための、内閣の組閣変更だった。近衛は、松岡がドイツの力を借りてアメリカに対抗しようとしたのが、日米交渉の障害となっていると、考えた。
松岡を追放して、アメリカに歩み寄ろうとしたことを意味した。アメリカに揉み手したものだった。
今日、ルーズベルト(FDR)大統領が7月23日に、日本本土爆撃作戦を承認した文書が、公開されている。(投稿者補足:写真に添付)
ルーズベルト(FDR)大統領が「FDR」と、イニシャルを用いて署名して、直筆によって「OK。 (重慶に駐在する)軍事使節団か、(重慶のアメリカ大使館付駐在)武官のどちらに指揮させればよいのか、検討せよ」と、書き込まれている。
日本は前年8月に、アメリカ、イギリスが仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)を通じて、蒋介石政権に大量の兵器を供給していた援蔣ルートを遮断するために、フランス政府の同意を得て、北部仏印に進駐していたが、この年の7月に仏印のフランス当局の承認を取り付けて、南部仏印に進駐した。
日本では多くの専門家によって、7月28日に南部仏印進駐を強行したことが、日米戦争の引き金を引いたと、信じられている。
だが、ルーズベルト(FDR)大統領は、その10日前に、日本本土爆撃作戦を承認していた。
中国の基地から発して、東京、横浜の産業地域と、神戸、京都、大阪の三角地帯に奇襲爆撃を加えることになった。、
この作戦案には、どの中国の航空基地から発進して、日本のどの目標を攻撃するのか、それぞれ地図が添えられていた。
ところが、日本本土を奇襲攻撃する「JB-355」作戦は、ヨーロッパ戦線が急迫し、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなければならなくなり、中国への供与が遅れることになった結果、実施されなかった。
だが、真珠湾攻撃の約五か月前にルーズベルト(FDR)大統領が、アメリカ陸海軍に対して日本本土攻撃計画を承認していたという事実には、変わりがない。これは、アメリカ国民を欺き、日本を騙し討ちにするものだった。
もし、日本側がこの計画を察知していたとすれば、真珠湾攻撃は自衛権の発動に基づいた反撃になるところだった。
開戦後の1941(昭和17)年4月18日、日本本土が空母「ホーネット」から発進した、16機のB25ノースアメリカン爆撃機による奇襲攻撃を被った。
アメリカ機は京浜地帯、名古屋、四日市、神戸、和歌山に投弾した。
空母「ホーネット」は、18日午前6時30分に、監視艇「日東丸」によって発見された。
しかし、軍は艦載機の航続距離が短いために、もっと本土に接近してから発進すると予想して、空襲が19日に行われるものと判断した。
18日の正午過ぎに東部軍司令部が、水戸北方10キロの監視哨から、敵機を発見したとの報告を受けた。それにもかかわらず、東部軍司令部は情報を確認しようとして手間取ったために、12時15分になって東京が攻撃されるまで、空襲情報を発令しなかった。
防空戦闘機は、まったく要撃することができなかった。敵機は日本本土を攻撃したあとに、全機が中国大陸へ飛び去った。
もし、日米開戦前に「JB-355」作戦が実施されていたとすれば、日本の防空体制はまったく不備だったから、完全な奇襲となって、京浜地帯、大阪、京都、神戸が、大きな被害を被ったにちがいない。
今でも、アメリカ国民の大部分が、真珠湾攻撃が日本による卑怯な騙し討ちだったと信じているが、これこそ卑劣な騙し討ちとなったはずだった。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長