ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

へぼプレー見ると悪影響・・③

2014-11-19 14:55:58 | 新聞を読んで
近所の年寄りを見て、年取るとこうなると予測して、

それが当たると自分もそうなる。

昨日か?そう書いたけど、これを又考えたい。

ディパック・チョプラさんの本で読んでこんなのがあったのを覚えている。

・・・周りの人が70代や80代で亡くなるのを見ていると、

人間はそのくらいの年で死ぬものだ、

というプログラムを知らぬ間に持ってしまい、

そしてその通りになる、というもの。

予測し、それが当たる。

予測するから当たる。予測しなかったら外れる、ということもない、ところの。

予測というものをしなかったら、

当たるのか当たらないのか、というそんなことは考えないしね。

当たるという思いも外れたという思いも、予測すればこそのこと。



けれど、人は見て予測・推測してしまう。

そして人の老いや死を見ていれば、

誰だっていづれこうなる、と思うものだ。

そしてだいたいの人がその通りに、老いたり死んだりするのを見たら、

俺の予測は当たってる、ってなるのも不思議じゃない。

そして自分もそのくらいの年に老い、死んでゆく。


周りの人が皆80才くらいで死んでゆくなか、

自分はそんな気がしない、100才は軽く生きそうと、

意識がなってる人が居たとして、

その人の意識はどうなっているか見ると・・・

人は80才くらいで死ぬという寿命観を持っていないのか、

持っていたとしても、

その寿命観を正しいとしていないのではないか・・


へぼプレーを見て、こうしたらこうなると予測しても、

そういう自分の予測が正しかったのか、正しくなかったのかわからないでいた人は、

予測能力も上がらなかったけど、下手にならなかった・・

という事実から学ぶことは・・・

正しさを持たないでいると、人に影響されることがない、

ということなんだろうか・・・


自分の見方は自分の見方としてあるけれども、

それを正しいとしないで、ひとはひとの見方があるというふうに心がなってると、

脳の動きもそれなりになる・・そうなんだろうか??

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へぼプレー見ると悪影響 ②

2014-11-17 14:37:51 | 新聞を読んで
昨日の書いた奴なんだけど、読みが浅かったかな~と書いてから思った。

この投げ方では矢は~あそこに当たるんじゃないか、~なるんじゃないか・・と予測して、

その予測が当たったか当たらなかったかがわかる・・と、

だんだん予測能力が高くなったわけだ。

そういう人たちは実験後の技量が下がってしまった(下手になった)けど、

同じようにへぼプレーを見て~なると予測しても、

自分の予測が当たったのか当たらなかったのか、知らされないでいると、

予測能力は上がらなかった。

そしてその人たちは実験後も技量が下がらなかった(下手にならなかった)という。


ようするに同じようにへぼプレーを見ていても、

自分の予想が当たったのか当たらなかったのか知らされないと、

技量は下がらない!へぼにならない!下手にならない!!


この謎を解きたいよ。

ただへぼプレーを見て予測してても、

予測が当たったのか知らされなければ、ダーツ能力は変わらないのが本当だとしたら、

下手を見ると下手になる、とは言えないんじゃないか。


下手なダーツをやる人の投げ方を見て、

これはあそこに当たりそう・・

あ、これはもう少し的に近いところに当たりそう・・

そしてそうした自分の予測が当たると、

やっぱりそうか、自分の予測能力は高い、凄いもんだ、とかになる・・?

予測、推測 が当たった、という自信を得たことの弊害なんだろうか??

~こう投げたら~こうなる、と予測してそれが当たると、

自分も~投げて~なってしまった・・・!?


反対に、自分より上級の人の投げ方を下手な人が見た場合、

何処に当たるかの予測の精度はかなり低いんだろうか・・

それとも上手くは投げられないけど、良い投げ方という知識は持っているから、

予測して、それが当たったか当たらなかったか、知ると、

予測能力も上がって、

実験後にはダーツ能力が向上するんだろうか???


上手な人を見て、その予測をしても、当たったか当たらなかったか知らされない人は、

上手なプレーを見ても、実験後に能力は上がらないんだろうか???


ネットでその記事を詳しく見たらこんなのが載っていた。


・・・脳がどのように他者の動作を理解し、結果を予測するかについては

ほとんど解明されていない。今回の実験で、

他者の動作の結果を予測する能力が学習によって変化すると、

無関係に見える自分自身の動作にも影響が及ぶと分かった。

【ポイント】
■ 他者の動作を予測する場合と自分が同じ動作を行う場合に

共通した脳内プロセスが関与していることを解明

■ 他者の動作の結果を予測できるように学習すると、

共通した脳内プロセスが変化し、自分の動作にも影響が及ぶ

■ 他者の動作を予測する能力と自分の運動能力の向上を導く

リハビリやトレーニング方法の開発に応用可能

 池上研究員は「『下手な選手の動きは見ない方がいい』と言う一流選手がいるが、

その理由が科学的に実証された。

・・・とあった。


ううん・・・そうなのか・・・よくわからない・・・

けど、下手な・・は見ない方がいい とはやっぱりそうなんじゃないかなと思う。

実験例の数も千とか万とかになったら、また違うのかもしれないし・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

へぼプレー見ると悪影響・・・

2014-11-16 14:11:48 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の社会面の小さな記事、

「へぼプレー見ると悪影響 ダーツで実証 命中予測させると上級者が下手に」

どういうことかというと、

ダーツの上級者が下手な人のダーツを見て、何処に当たるか予測し、

その予測が当たったかどうかの答え合わせをしてると、

段々その予測の精度が上がるという。

けれどけれど、その実験の後にその上級者がダーツをすると

技量が下がったという結果が出た、というもの。

この実験で何がわかったかというと、

他者の動作の結果を予測する能力が学習によって変化すると、

無関係に見える自分の動作に影響が及ぶということのよう。

なんでこうなるかというと、他者の動作を予測する時と、

自分が動作する時の脳内の情報処理に共通する部分があるため、と、あった。

運動してる人の姿を見てるだけで、見てる人の脳は

運動してる人と同じところが同じように動くということを聞いたことがある。

そういうことと関係あるんだろうか。

美しいもの、正しいもの 真実のもの、じゃないものばかり見てると、

見てるだけで自分の見方も曇って来るんだろうか・・・

そりゃそうだろう・・!?

面白い。ほんとに面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「理不尽な進化」 養老先生の書評で・・

2014-11-09 10:46:12 | 新聞を読んで
『理不尽な進化』―遺伝子と運のあいだ(間)ー

今日の毎日新聞書評欄、私の大好きな養老先生が書評したもの。

私が印象的だったのはここ・・・

「・・・現代進化論を支える大きな柱は二本あって、

一つは自然淘汰(これは適者生存ともいう)だが、

もう一つは系統樹すなわち歴史なのである・というもの。

こんなのがあった。

ある患者が尿が出なくなって入院したら、原因は頸椎にあって、

それを矯正したら尿が出るようになったという。

その人は養老先生とその病気の話しをしてしばらくした時にあっと思い出した。

それは昔、特攻隊員で、特攻にでることが決まってたのだけど、

終戦になったことで機会を失って、

戦後二回首を吊って死のうとしたのだけど失敗した、

その時の頸椎の傷が原因で尿が出なくなっていたという話。

これを読んで今西錦司さんの進化論だという“なるようになる進化”というのを思い出した。

首つり失敗によるおしっこ出ない例によって、

人間の身体が次の世代に繋がるわけじゃないし、進化でもないのは勿論だけど、

どんなこともそれがそうなるには歴史があった、ということを云っているのかと思った。


「絶滅も歴史のうち『自然淘汰』超える哲学」というのがこの書評のサブタイトル。


過去と関係ない現在はないし、今に関係ない未来もない。

時間的にも空間的にもすべては繋がっている。

過去も未来も全部 今 にある。

まぁ、こう考えると、今という時を大事に生きる・・

なんていう簡単な表現になってしまうんだけど、

過去も未来も憂えず明るくやっていきたいと思った今日この頃です。

こんなのがこの書評の最後にあったよ・・・

「・・人文社会学の分野には近年良い著作が出る。

個人的にそう感じる。

経済だけではなく、日本社会は変わりつつあるのではないか。」

養老先生はそう感じたんだなぁ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐治博士の『へぇ~ そうなんだ』

2014-10-31 11:18:23 | 新聞を読んで
佐治博士の『へぇ~ そうなんだ』

サブタイトルは『相互循環的な環境が大切』

・・・今朝の毎日新聞に「奇跡のりんご」の著者である木村さんと対談してのこの話が載っていた。

以下がそれの一部です。

キツネと野ウサギの生態系でいえば、

キツネが野ウサギをたくさん食べて野ウサギが減ると、

キツネは食糧不足に陥って生息数が減少し、

その事によって野ウサギの捕獲数が減りますから、

野ウサギの生息数が増え、

今度はキツネが元気を取り戻し・・・というように、

二つの生息数はシーソーゲームのように変動しながらバランスを取っています。


りんご作りも雑草やムシの気持ちになって

彼らがもたらす実害が目立たないような相互循環的な環境を

造ることが木村農法のようです。


現代は国内外の情勢から国家間の問題まで

きわめて危機的な状況にあります。

もしこの自然農法と同じよう主張すべきは主張し、

譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら

多角的な論理のまなざしで見通すことができれば

これほどひどい状況を招かなくて済んだのではないかと思います。


私たち人間はしょせん自然の産物です。

ですから、かつて古代人がしてきたように、

科学によって知り得た自然の根源的性質に

準じるような生き方を模索すべきでしょう。

自然農法で育てられたリンゴの清楚で素直な味わいが

そう語りかけてくるかのようでした。

・・・以上引用。


さーっと読むと本当にその通りだなぁと思うのだけど、

さて、木村さんのリンゴから語りかけられた私たちは

生き方の何をどう模索して行ったらいいのか・・・


「主張すべきは主張し、

譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら

多角的な論理のまなざしで見通すことができれば・・・」


・・・何を主張すべきで、何を譲るべきなのか・・

福岡伸一ハカセの『動的平衡』を思い出す。

小さな一つの細胞は何を主張し何を譲っているのか・・

何も主張しないし何も譲らない、んじゃないか。

ただ在るだけで。その在り方を人間もすればいい・・のか・・

細胞は自然の根源的性質で在るだけのこと。


それが多角的な論理のまなざしで見通した結果の行為行動をする、ということか・・

細胞はそうしている。そうとしか出来ない。

身体の何処かにガンが出来ようが、血管が詰まろうが、

何をやってるんだ!なんて非難しないしね。

全部丸ごと「あ、そうなの」って感じで受け容れて、

それならそれでと、すぐに全体がよくなるように対処してしまう。

そういう多くの細胞で私たちも出来てはいるんだけど、

精神のある私たちにはそれが出来ない場合が多いのが現状。

多角的な論理のまなざし・・

多角的とは多方面にわたるさま。多面的。

ようするに自分の論理に固執しないで、

相手の論理もあ~そうかと受け容れる、

自分の考えも他者の考えも鳥瞰的に観られるまなざしを持たなければ、

「その両者の均衡を保ちあいながら」なんて出来ないんじゃないか・・


受け容れることとその考えに賛成することは違う。

受け容れて初めて、相手の論理で行くと

周りのあれこれも含め、こうなるんじゃないか・・・

自分の論理で行くとこうなるんじゃないか・・・

と双方の考えやその結果である形を鳥瞰的に推察できるようになるんじゃないか。

賛成も反対もなく。


全体がどうなったらいいかを双方が一緒に考える、

今この場合どうしたらいいのか一緒に考えよう・・って同じ位置に立ってするのが大事。


こう考えると結局のところ、佐治博士が言った、

科学によって知り得た自然の根源的性質に準じるような生き方に

なるには、そういう心のひとになること、に尽きるようだ。

たくさんの失敗をして、人はそうなって行くのだと思いたい。

けど、やってみて失敗しても、

失敗だったという自覚がないと、

失敗してないのと同じことだから、

進まない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人をつくる管理職―――笑顔の成果生む対話を」

2014-07-21 09:21:51 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞の時代の風欄、

元世界銀行副総裁 西水美恵子さんという人が書いたもの。

この人のはだいたい読む。


「・・この旅で、世銀融資の成果は、発展途上国の子供たちの笑顔にあると学んだ。

プロジェクト件数や融資総額などのアウトプットは、

むろん無視できない。しかし、次世代の笑顔なしには、

世銀の未来さえ危うくなりかねない」



これは金融企業出身の新しい総裁が就任してまもなく

ブラジルとインドの貧民街を視察した感想を取締役会に

報告した時の開口一番の言葉だったそう。

その後に彼女のこういう文章が続いている。



『それまで「ソフトな成果思考」を侮っていた取締役会の空気が、

まるで頬を殴る突風のように動いたのを憶えている。

世銀の融資は長い。今日の融資を返済し終えるのは、

社会人となった子供たちなのだ。

「笑顔」の成果が、取締役会全員の腑にストンと落ちた。

総裁は続けた。

「笑顔の成果を追う仕事は、同じ笑顔の職員しにかできない」。

途上国の国づくりは、人づくり。

その国づくりを支援する世銀の組織づくりも、人づくり。

「笑顔」の成果を追及するなら、

人を大切に育てる組織でなければならないとまた腑に落ちた。

停滞していた評価制度改革に拍車がかかったのは言うまでもない。

組織の人づくりに本気になると・・・・大切なのは職員と上司の対話だと学んだ。

・・・私にできる人づくりは、

自己研鑚への動機づくりくらいしかない。

だから、部下が抱く夢を聴くことから始めた。


仕事と無関係の夢でも、いつか叶えたい夢を

10年先の自分自身のビジョンにつなげてもらう。

そしてそのビジョンに行き着くまでの道を開く成果を、一緒に考える。

その上で過去一年を振り返り、足りない成果を話し合う。

研修や実務訓練など改善に必要な計画を練って、

最後に翌年までに成し遂げたい具体的な成果に合意する。


現実につながる夢は不思議な力を持つと知った。

例えば、「夢はジャズ演奏家」と苦笑した部下。

長年胸に秘めていたその夢を真に受けた対話は、二日間つづいた。

結論は「今、この夢に挑まなければ、死ぬときに後悔する。

仕事に身が入らない訳がやっとわかった」

惜しい人材だったが、去る者は追わず。

新しい門出を心から祝って送り出した。

その人のCDを聞くたびに、あれでよかったと心底思い、

「管理職などごめんこうむる!」と公言していた昔の自分を笑う。」



殆ど引用してしまったよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「しない生活」・・小池龍之介さんの新しい本

2014-04-12 15:38:19 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞、新刊の広告欄にこういうのが載ってた。

「超訳ブッダの言葉」の小池龍之介さんの本。

サブタイトルが「煩悩を静める108のお稽古」

そこに・・・・

メールの返信がないと「嫌われているのでは」と不安になる。

友だちが褒められると「自分が低く評価されたのでは」と不快になる。

…自分で自分を苦しめる、

この「妄想」こそが、仏道の説く「煩悩」です。

煩悩を静めるのに役立つのは、

もがいて何か「する」のでなく、

ただ内面を丁寧に見つめる「しない」生活。

ブッダの教えにその作法を学びましょう。

(大きな活字で)「つながりすぎない。イライラしない。

言い訳しない。せかさない。比べない。」

・・・以上広告からの引用です。

朝日新聞の人気連載「心を保つお稽古」待望の書籍化、とあった。

へぇ、朝日に連載されてるんだ。

イライラした時にはっと気づき、イライラしない・・・

言い訳しようとした時にはっと気づき、言い訳しない・・・

せかせる自分にはっと気づき、せかさない・・・

こうなれたら本当に素晴らしい。


メールの返信がないと「嫌われてるのでは」という不安になったときなどに

すぐにその不安を消そうと何かをしようとすることは“しない”、

ということなんかも「しない生活」に入るのかと思う。

湧き上がる不安をなんとかしようとしない。

そんなふうな、しない生活が出来るには、

自分の気持ちが落ち着かないときに、

その心を行動によって解消しようとする自分の心に気が付かなければならない。

そういう意味でも、「内面を丁寧にみつめる」なんだろうなぁ。

「超訳ブッダの言葉」の章には「自分を知る」というのがあり、

その章にもそういうことがたくさん載っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白鵬関のつぶやき

2014-03-23 14:20:16 | 新聞を読んで
昨日相撲の横綱白鵬関が大関の鶴竜関に負けた。

今日のスポーツ欄には小さなこんな記事があった。

白鵬関・・「かみ合わなかった。(相手を)見てしまった。

鶴竜はいつもと違う感じがした。」

おおっ!と思った。

白鵬関、自分を観察してるなと思った。

そんなこと当たり前か。

「相手を見てしまった」・・この台詞をどう受け取るか・・・

相手をよく見るのは勝負してたら当たり前のことだろうけど、

そういう“見る”とは違う“見る”をしてしまったんだろう。

見てしまった、んだから。

見なけりゃよかったのに見てしまった・・・

自分のやることだけにかまけていればよかったのに、

ひとのこと見てるとろくなことはない、

ということかなと思ったよ。

まぁ、それも勝負のうちなんだろうな。

「鶴竜はいつもと違う」・・・

いつもと違う“気”というものがびんびん伝わったのかもしれない。

相撲はとてもシンプルな勝負だから、

スポーツのいろんなルールのわからない私にもわかりやすい。

体力や技が左右する勝負ではあるけれど、

気というものが大きく作用することが

凄くわかりやすい気がして面白く見てる。

まぁ、どんな勝負でもそうなんだろうけど。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹 と 襟裳岬

2014-02-06 09:03:47 | 新聞を読んで
作家の村上春樹さんが書いた短編小説の中で、

主人公の感想としてこういう言葉を言ったという部分があるそうで、

それがコレ。

「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていること(タバコのポイ捨て)なのだろう」。

ここのところで当の北海道中頓別(なかとんべつ)町では

たばこのポイ捨てが「普通のこと」と表現したのは事実に反するとして、

同町議らが文芸春秋に真意を尋ねる質問状を近く送ることを決めた。

町議は「町にとって屈辱的な内容。見過ごせない」と話しているらしい。


なんだか・・・恥ずかしい感じ。

作家も大変だ。村上春樹さんはこれについてなんも言わないと思うけど。

前、歌手の森進一が歌ってヒットした襟裳岬という歌の歌詞に

「襟裳の春は何もない春です」というのがあって、

それを襟裳町ではこれと同じように怒ったらしい。

何もないとはなんぞや!って。

その後襟裳町ではその歌の影響で観光客が増えて、

お金がたくさん入ってその態度をひっくり返したらしい。

面白い。今度のこの事はどういう展開になるんだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万能細胞が作られた

2014-01-30 21:09:11 | 新聞を読んで
本当に驚く。

何年も何十年もずっと研究してる学者を差し置いて、

常識にトラワレナイ晴子さんは万能細胞を作り出した。

コペルニクス的転回が作用した例かもしれない。

快哉を叫びたいような気持ちになる。

本当のことはシンプル。そんなことも思う。

一事が万事。そんなことも思う。

身体も心も仕組みは同じ。そんなことも思う。

ミクロとマクロは相似関係にある。そんなことも思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細胞の初期化。

2014-01-30 20:55:28 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞一面「新万能細胞 作製」「早く簡単 がん化せず」

三面にも詳しく載っていた。

とても興味深く読んだ。

リンパ球などの細胞を弱酸性溶液に浸すことによって、

受精卵のような万能細胞が簡単に出来るそう。

それはSTAP細胞と名づけられたそう。

極端に言えば小中学校の実験でもSTAP細胞を作れるかもしれない、

というような、簡単な方法のようだ。

これを主導したのは30歳の小保方晴子さんという女性で、

これまで何回も一流科学誌に論文で投稿しても、

誰にも思いつかない意外な成果に「信じられない」と却下され続けたらしい。

なかには「あなたは細胞生物学の歴史を愚弄している」とまで言われたらしい。

それくらい簡単な方法なんだねぇ。

細胞に思いつく限りのストレス(刺激)を与えたことによって、

体細胞から万能細胞が得られた!!

わくわくした。凄い!

何にわくわくしたかというと、その簡単さというものと、

人の意識との共通なものを感じたからだ。

細胞で起こることは人の意識でも起こる、って私は思ってる。

その作用が似てる。

『細胞の初期化=意識・境地の初期化』

細胞の初期化とはどういうことかというと、

体細胞の時計の針を巻き戻し、

受精卵に近いどんな細胞にもなれる“能力を呼び戻すこと”らしい。


可能なことならどんなことでもやろうと思える・・

制約するものがなくなる、自由な発想ができる・・・

・・ニュートラルな状態(無垢自由な境地)になる・・

それは人間の最初の資質、本質が持つ能力。

そういう能力を呼び戻せるようになるには、

多大なストレスを受けることによってではないか。

(それだけが方法ではないにしても。)

そういう経験が何度もある私はそう思う。

辛い経験が続いて、とことん絶望的になった瞬間、

もうどうなってもいい、という、驚くほどの明るく自由な境地になる。

どうなってもいいという心境は、

どうなるかわからない結果に、とらわれないで居られる心境ともいえる。

そうなると、可能の世界がいきなり広がる。

何でも出来得るという、境地だ。

ニュートラルな状態になる、ともいえるかと思う。

何でも出来得る・・どんな臓器にでもなりうる万能細胞、と似てる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私 怒ってます」 ③

2014-01-14 14:49:59 | 新聞を読んで
「私がやらなくちゃいけない」という思い込み。

コレ、なんでそう思い込むようになったのか・・

自分ひとりでそうなったわけじゃない。

かなり前にこういうことずっと書いてたなぁ。

また、書いてる。

まだ分別もつかない小さな頃から、

周りから、何か言われたことをしないでいたら、

怒られたり叱られたりして来たからね~

怒気が含まれた声で注意されてきたからね~

失敗して怒られた。

ちょっとした不注意で何かをこぼしても怒られた。

悪意などこれっぽちもないのに悪意で怒られた。

冷たい顔をされた。

怖い顔をされた。

そして、誰だって怒られるのはイヤだから、

(ちゃんとしなきゃいけない)ってなってきた。

こんなふうになるべくしてなってきた。

この新聞の匿名さんもきっとそうなんじゃないかな。

怒られたから怒るようになる。

子供は皆、大人を観察してその通り真似をするようになるものだから。

本当に循環だ。

その循環を変えるキッカケは自分の心を深く観察することから。

周りがみんな腹が立たない人になることから。

これも循環だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私 怒っています」 ②

2014-01-14 14:32:39 | 新聞を読んで
昨日書いた奴、さっきちょっと書き足したりした。

わかりにくかったかなと思って。

昨日の匿名さん、息子や娘に会えるのは楽しみであるとも思うけど、

楽しみに苦しみがセットで付いてるわけだ。

こういうことって世の中にたくさんあるんだろうと思う。

嫁姑の問題なんかもそういったことが多いんじゃないだろうか。

こういう些細な?ことが解決すると、

世界はかなり風通しがよくなる。

「怒ってます」・・・誰に怒っているのかといえば、

この人はマスコミ、社会の風潮、なんだろうか・・

息子や娘に対してではないのか・・?

こんなに大変なのに、息子は娘は嫁は、わからないなんて・・・

自分のことしか考えてないんだから・・・

少しはこっちの身にもなってよ・・・

・・自分の気持ちを出せずに居るとこんなふうに相手を恨むようになる。

何故自分の大変だという気持ちを出せないのか。

昨日も(とても言えない)と、なってると書いた。

とても言えない、となってることに気づいてないんだ。

それがネック。

なんでそうなのか???

孫や息子たちの世話を(やらなくちゃいけない)と

当の自分が思い込んでいることに気づいてない。

けれど、(自分がやらなくちゃいけない)となっていることに

深いところの自分は知っているからこそ、

大変だ、なんて言い出せないわけだ。

(自分がやらなくちゃいけない)と思い込んでいるのだから、

ひとに手伝ってなんて言える筋合いはない、となってる。

その仕事・・息子や娘たちへの接待、孫の世話などを、

当の自分が誰にも命令も依頼もされてないのに、

(やらなくちゃいけない)となっていることに気づかなければ、

いつまで経っても、変わらない。

気の回らない?息子や娘や嫁に腹が立って、

その上社会にまで腹を立て続けることになる。

相手に対しての腹立ちは、

自分を知らないことから始まるのだなぁとつくづく思う。

経験あるからよくわかる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私、怒ってます」

2014-01-13 16:36:19 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の「女の気持ち」欄の見出しが「私、怒ってます」

書いた人は匿名希望。

元日から息子や娘や孫が来て、その接待・対応に疲れ果て、

怒っているらしい。

・・・世の中のニュースなんかでは、

実家に帰る人の「何もせずのんびりしたい」

という若い人の声だけ報道されて、

受け入れ側の女性の苦労ももう少し知って欲しい、

マスコミにも大いに責任がある、

とあり、

年に2度の盆と暮れの過ごし方は、もうちょっと改めるべきだと思います、

と締めくくってあった。

普段と違って大変だという気持ちはすごくよくわかるけれど、

なんでそれを新聞に出すのか?と思った。

改めるべき、に自分が全然入ってないね~

この、改めるべき、というのは

文句を言わずに接待すべし、なんてことじゃないよ。

一人でやったら身体が疲れるという、当たり前な自分と、

息子や娘と直接話してベターな解決策を見出すのが一番かと思うよ。

まぁ、それが心理的に出来ないから、

匿名希望になるんだろうし、相手がマスコミにまでなるんだろう。

自分が自分の気持ちを発せられないでいるから、

外堀から攻めようという策だな、これは。

まず世論をそういうものにすれば、

息子や娘とのやりとりという大切な機会を経験せずに済む、というわけだ。


いやいや、こういうことを言っていても、

私もそこらへんが出来ずに苦しんだことがあるから、

こういう記事につい反応してしまうんだ。

お盆でたくさんの人が何晩も寝泊りしたときに、

自分がやりたくてやっているのに、疲れてくると、

なんで自分ばかりがこんな大変な目に遭わないといけないのか・・

こんな気持ちに襲われた。

大変だから手伝って、一緒にやってほしい、の一言が言えずにいた過去の自分。

いや、言えずにいたんだけど、

そもそも言おうという発想が浮かばなかった。

その時の暮らしを共に作っていこうという気がなかった。

自分ひとりで頑張ってた。

そんなふうに自分の中を本当に調べられた出来事だった。

そういう機会で、自分の思いを放す事がやっと出来たんだった。

(疲れてる、一人で大変だ・・そんなこと、とても言えない)・・・

この匿名の人もそうなんだろう。

この人の論調は私憤を公憤に変えてしまおうという魂胆が見える。

そういうことにちょっとアレ?と思うけど、

匿名さんは息子や娘に、(とても言えない)という思いを持っていることに

まだ気づいてないのかもしれない。

それで公憤にまで先走って行ってしまったんじゃないだろうか。

自分がやること(自分の気持ちを口に出して伝えること、手伝って欲しいとか、疲れたから替わってほしい、とか)

をやらないで・・ということはあるだろうけど、

その時はそれに気づいてないから、

しょうがないんだね~

これを書いたことでこの人は何か変化があったろうか・・

あったらいいけどなぁ・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再現性

2013-12-27 15:10:52 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞「中村克樹のDo you 脳?」欄。

大きな見出しが」医学生物学こそ『再現性』重視」と。

再現性というのは実験して出た結果が安定してること、らしい。

「この再現性こそ科学的考え方の基本になるのです。・・・

ところが、そういう科学研究の信頼を揺るがす事態が起こっています」とある。

最近英国のネイチャー誌に『生物学は科学か?』という記事が載っていて、

それは物理学や化学のように信頼できる学問ではないのではないか、

という内容。

ネイチャーには『医学生物学の論文の70%以上が再現できない!』

という記事もあった、という。

あるドイツの製薬会社の内部調査では、

行なわれた研究の3分の2で結果の確認ができなかった、という。

アメリカの製薬会社でも

論文53本中89%の内容が再現できなかったと報告したという。

アメリカのがんセンターでのアンケートでは、

発表論文のデータを再現しようとして

失敗した経験のある研究者は半分を超えたそう。

最後の方で、中村さんは

細胞という未知なものは完璧な再現実験はできないと言って後、

生命に直接関係する研究をしている医学生物学の世界こそ、

再現性を重視する真摯な態度が大切だと感じています、と言っている。

それもとても大切なことと思うけれど、

細胞や意識の状態の再現性というのは本当に難しい。


再現性こそ科学的な考え方の基本といえるのは、

物理学で云えば古典論で、

量子力学が登場して古典論がひっくり返ったんだと思うけど、

前のほうを読むと物理学は再現性が高いとしてる。

それはマクロレベルのことに限るんじゃないかな。

人間の細胞や意識はマクロじゃなくてミクロレベルのことだから、

量子力学の観測者効果、動的平衡という生命の姿、

とつなぎ合わせて考える方が確かなんじゃないか・・・

薬なんかはプラシーボ効果ノーシーボ効果はかなりなもんだろうと思う。

プラシーボ効果というとすぐに小麦粉を丸めたもので

実験云々というのがあるけど、

ちゃんと薬の成分が入っている薬でも、

その日の気分で、こんな薬飲んでもなぁ・・

とマイナーな気分で飲むこともあるだろうし、

じゃあといって、治ると思って飲んでくださいと言われても、

はい、そうします、にはならない場合も多いと思う。

体調も日々瞬間瞬間、違う。

そんなふうに再現性が高くないのも当たり前という気もするし、

多くの薬を飲む人も多いらしいので、

薬と薬と薬と身体の細胞とがその時々でなんらかの相互作用をすることも

多いんじゃないかと素人ながら思う。

再現性が高くない、そのこと自体を

もっと研究している人も居るんだろうけど・・・












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする