ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

義父との暮らし

2014-06-28 10:35:14 | 日々の暮らし・思い出
この前、思った。義父との暮らしで私にもたらされたものは・・・

それは義父に対して意識的に行為することを毎日毎日始終無意識的にやれること。

わたしのやりたいこと、意識的に過ごすことを自然にやれること、がここで出来る。

まぁ、これは誰でも家族以外である職場の人や地域の人と接するときには

自然に意識的になることが多いと思う。

配偶者や子供や親だと傍若無人みたいな感じで、

自分が反応したまんま振る舞ってしまうことが多い。

過去に得た「これはこういうこと」という意識プログラム・判断の下、

すぐに判断反応してしまう。

ベンジャミン・リベットの実験の、自発的自由意思の働く0、何秒なんか吹っ飛ばしてしまう。


「親しきなかにも礼儀あり」という言葉も、

配偶者、親、子供に対しても、意識的で在るように・・

というニュアンスなのかと今、思ったわ。


始終意識的に行為できるのは、やっぱり

老い先短いこの人には快適で居てほしい、穏やかな心で居てほしい、

という私の意思が崩れないからかな・・・

配偶者や子供は明日も明後日も何年か後もずっと居る、と思い込んでいるせいなのか、

扱いが乱暴になりがち・・・

いや、私は80過ぎた実母にも乱暴だったから、そうとばかり言えないか・・

・・なので・・(老い先短い)は消して・・・

義父に穏やかな心で居てほしい それが義父にとって幸せだし、

私も穏やか、私も幸せ。

・・・そう在りたいという意思が崩れないからかな。


配偶者にそれが出来ない場合を振り返ると・・

やっぱり、これ・・自我。私が私が・・という執着。

くだらないプライド。

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又やった!

2014-06-28 09:07:40 | 日々の暮らし・思い出
今朝、うちに車で来た人に駐車場を案内した夫がこう言った。

「あんた、車を何処かに置いてきた?」

(いつも軽トラを置いている所にそれがなかった・・からだろう・・今なら書けるこの文)

それを聞いて・・・う?・・・うんっ?・・アッ!

昨日の朝、郵便局に宅配便を持って軽トラで行き、

そこに軽トラは置いたまま、又もや歩いて帰って来たのだった!

一日近くそこに軽トラは一人さびしく居たんだろ。

昨夜着替える時にズボンからチャリっと軽トラのキーが落ちた。

あれ!?こんな所に入ってた・・・とそのとき思った。

いつも軽トラのキーは降りたその時に玄関の籠に入れているからだ。

ポケットからキーが出て来たことにあれ?っと思ったけど、それ以上何にも思わなかった。

今になって思えば、歩いて帰って来たのだから、車のキーを籠に入れようとはならないはずだ。


こういう私の顛末に夫は淡々としている。

「車を何処かに置いてきた?」と聞いてきたときも、

平静モードだし、

私が車を取りに行って来るねと言った時も、

帰って来て「在ったわ」と言った時も、

あ~ と言っただけ。

内心でどう思ってるか知らないけど、多分内心も(あ~)だけだろう。

綾小路きみまろの漫談に、

元々ぼけている人はアルツハイマーにならない。

何故なら医者が判断できないのです・・・というのがあったけど、

それに望みを託そう。









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アダム君

2014-06-27 16:27:58 | 日々の暮らし・思い出
9月には2才になるアダムに会った。

小さな男の子と接する機会が今まであまりなかった。

可愛く面白い。

何故かアダム男の子は戦闘モードになる。

「くっ!」と言って、そういうポーズをとり、楽しんでいる。

テレビの仮面ライダーみたいなのを今回一緒に見たけど、

そういうのを興味深く見ていた。

イブはそういう番組に関心は示さない。

イブも喧嘩みたいなことはよくしたし、するけど、

戦闘ポーズなどはとらない。

アダムは戦闘ポーズはしたがるけど、そういうときは実際の喧嘩じゃない。

遊びだ。

女の子はあまりそういうことを遊び心でしないように見える。

いや、そうでもないか・・

でも、男の子と女の子は異なる。

異なるからこそいいんだろうな。

同じようだったら雌雄がある意味がないものね~







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大事な機会

2014-06-27 16:10:17 | 実例体験観察
彼女の言動に引っかかり、そのとき、もうしばらく会う機会は避けよう、と思った。

こういうことを思う時って気分は暗い。

こんな目に遭わないようにこの人には会わないようにしよう、

とかになる気分は暗い。

こんな目に遭うのは相手のせいだ、になっているし、

この人にもう会わないなんていう発想は

今の暗い気分の自分が未来にも必ず続く、となっているということだ。

こうして書くということをすると、

自分のその時の意識がナンセンスだとすぐにわかる。


こういう気分、ひとのせいにする自分になりやすいのがこの彼女の前にいるときだ。

こういう人と私はせっせと付き合うべきだ。

べきだなんて言い方をほとんどしない私だけど、わざとそう表現した。

ちょうどいい湯加減の温泉みたいな人とばかり居てはいけない、と

自分に言う。

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友人来訪

2014-06-11 15:33:33 | 日々の暮らし・思い出
朋あり遠方より来る、また楽しからずや・・・で、

まぁ、それほど遠いわけじゃないけど、

昨日は友人夫婦が梅もぎツァーを兼ねて来てくれた。

楽しいね~♪

気の置けない者同士、どの言葉も心の底から出て来てる。

そう感じる。

梅も結構採った後なのにまた9キロも採れた。

梅の実は葉っぱと同じように丸くて緑でわかりにくいからね。

長い竹の竿で枝をたたいたりして落ちるのを取る。

イチゴ狩りとかリンゴ狩りとかぶどう狩りというのがあるけど、

それより難易で面白い。

うちの梅の木は亡くなった義母がここへお嫁に来てから植えたもので、

相当古く、大きい。高い枝もたくさんある。

それゆえ、首が痛くなる。

でも面白い、楽しい。

若くはない4人が本当に楽しんだ。

話して楽し、飲んで楽し、飲まずにも楽し、遊んで楽し。

彼らが帰った後のこの静けさ。

また、これもよし。



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畑仕事

2014-06-09 11:04:36 | 日々の暮らし・思い出
昨日は梅雨の晴れ間で、午前 梅の実採り、

午後はジャガイモ掘り、夕方から梅酒や梅干しの仕込み・・・

こういう日はなんだか、よくやったぁ!という気分になる。

畑で私のやることは収穫とちょっとの草取り、ちょっとの植木の剪定をするくらいで、

耕したり苗を作ったり移植したりは全部夫がやっている。

私は行きたいときに行くという感じだったんだけど、

最近ちょっと私も野良仕事がしたくなってきた。

このブログも以前ほど書いてない。

前は考えたいことがいっぱいで畑どころじゃなかったんだけど、

そういう時間を経て、変わって来た。

畑作業は面白い。お金を得る、得ないに関係なく、

まぁ、どんな仕事も仕事は面白いもんだと思う。

若い頃から仕事がいやだとか思ったことはなかった。

こんなにいい暇つぶしはない、と思っていたよ。

だから暇な仕事は苦痛だった。

若い頃、人生は暇つぶしだと思ってた。

人生という多量の暇を如何にして面白く、つぶせるか、だ、と思っていた。

会社勤めは自分で面白い作業を探さなくても、

ひとが用意してくれるので楽だなと思った。

子供のいない専業主婦なんて特に、

毎日毎日朝から晩までの暇つぶしを全部自分で用意しなきゃならない・・

私にはそんな才覚はなかった。

今は私も子供のいない専業主婦で、

そういう才覚が発達したのかと思われる・・・!?


なんで作業・仕事が面白いのか?

そんなこと考えたことなかったけど・・・

旅行することや映画を見ることも楽しいけど、

作業をしてるときみたいな面白さとは違う。

もちろん作業もその時の自分の能力を超えているものは面白く感じないだろう。

やらなくちゃモードになってしまうからね。

作業が面白いのはやっぱりやりたくてやるからかな。

その状態は心が遊んでいる状態なのかもしれない。

例えば、パソコンに向かっている動作という目に見える現象も、

その場所が会社なら仕事で、家なら遊び、という分類もあるかもしれないけど、

会社でそれをすることを面白がってやってたら、

心は遊んでいる、といえるかもしれない。

遊びをせんとや生まれけむ、というようなのがあるけど、

そういうことだね、きっと。

同じ作業・動作でもやらなくちゃモードだと、苦役作業ということになるかもしれぬ。

映画を見る面白さ、友人と語らう面白さ、と

作業・仕事をする面白さの違いは・・・と考えると・・・

身体を使うことでの面白さ?・・けど座っている事務仕事も面白かった。

全身を使う調理仕事はもっと面白かった。頭もすごく使うし。

頭と体が連動してる感じが面白かったのかなぁ。

やりたくてやる→その結果がひとの役に立っている・・・これなんだろうかなぁ・・

作業・仕事の面白さは。

ホントに、そういうことなんだろうか???


手芸してるけどすごく面白い。

それを捨てようと思って作業してない、からか・・・

誰が使うかどうか、もしかして一生箪笥の引出しに入ったままになるものもあるかもしれないけど、

捨てるためには作業してない。

けど、やってる最中に誰かの為とか思ってなくても面白い。

作業自体の面白さか、それは。

自分の能力に見合う作業で出来上がりを描いて、いつかは完成するもの・・そういう、

頭や身体を使って何かをする、しようとしている、そのプロセスを楽しむように人間は出来ている・・・

うん、そういう感じがしてきたぞ。

・・こう書いてきて、そういうのを遣り甲斐とか生き甲斐というのか・・

人生自体に値打ちがあるからこそ、その言葉があるのか・・・

遣り甲斐の意味・・するだけの値打ち。

生き甲斐の意味・・生きるはりあい。生きていてよかったと思えるようなこと。

・・・こう書いてきて・・・

目的 という言葉が浮かんだ。

目的が自分にはっきりしてれば瞬間瞬間の人生は面白い、ということか・・・・・

人生自体に目的がある。人生に目的は仕組まれてある・・・

それが面白いか、面白くないかの分かれ道か・・・

行為・行動がたくさん集まったのが人生なんだから、当たり前のことなんだぁ。

書いてきて・・・こういうことになった。

書くのはやっぱり面白い。



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無為自然と委し合い

2014-06-07 10:00:59 | ひとの幸福
「無為自然」て、老荘思想の言葉だと思うけど・・・

いま、ネットで調べたら老子の思想だった。

前もこの言葉を使って考えたことあったけど、

今朝がた、夢かうつつか・・の時、

「無為自然」と山岸さんが言った?「委し合い」とは同じことなんじゃないか・・・

が浮かんだ。

「無為自然」は「なんら作為をせず在るがままの状態」とNHKテキスト(ネット)にあった。

昨日ここでそんなこと書いたから、今朝、上に書いたようなことが起こったんだろうな。

そのテキストに・・・こういうのがあった。

道(みち)は常(つね)に無為にして、而(しか)も為(な)さざる無し。

訳は・・

(道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。)

「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、どういう状態か。

天地を例にして考えてみると、

天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、

無為でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたっています。

季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、

大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。

つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している・・・・

・・・引用以上。


天や地は意思を持たないから・・とあるけれど、

人間の顕在意志みたいな意思は持ってないけれど、

天地という存在自体に元々そうなる意志が備わっているのかと思う。

自然の一部である私たち人間も作為を持たず在るがままで居たら、

なんの問題も起りえないのかと思う。

今現在世界に問題と思われるようなことはたくさんあるけれど、

それは全部今までのやり方の副作用が出ている現象なのかと思う。


花はただ在るがままで在るだけで、蜂や蝶々もただ在るがままで在るだけで、

花は実を付け、蜂は子を産む。

委ね合いだ。


委し合い という言葉が云っているのも、

互いが相手に対し作為を持たずに居る、という状態かと思う。

そのような状態に互いになるには、

先にそれに気づいた一方がそうなることだろうと思う。


いや、北朝鮮やシリアやロシア云々・・はそんなまどろっこしいことしてたんじゃダメだ!

なんていう考えは多いんだろうな・・・

本当の本当の本当の、そういう境地(NHKテキストにはスタンス、立ち位置、ありようとあった)で、

相手に接することが出来たら、

それはまどろっこしい事ではなく、簡単な事になるんじゃないかと思う。


立ち位置、ありよう、だから、無為自然に“なれば”、

相手を変えようなんて発想はしなく“なる”


無為自然がいい、という立ち位置、ありよう で居ると、

無為自然でない相手をよかれと思って、変えようと“する”ことに“なる”。


何をするより、まず自分の立ち位置、在りように目を向けることなんだろうと思う。










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しようとしない

2014-06-06 13:25:30 | ひとの幸福
今日も新聞の書籍広告欄に小池龍之介さんの「しない生活」が載っていた。

この本を読んでないから直接関係ないけど、

「しない生活」という言葉を見て、

思い出したことがあった。

青い本の山岸さんは人や社会が後戻りしない幸福に変わって行くようになるには・・

と、編み出した自分の考えやその実践方法を頭に持っていたけど、

それを他者に伝えようとはせずにいたらしい。

でも、どうして自分の胸にしまっておこうと思ったんだろう・・・

言葉でひとをどうこう出来るというのが皆無だった、んだろうか・・

ひとをなんとかしよう(良くも悪くも)という発想が意識的にも無意識的にもなかった、からなのか・・

一人でやる、ということに理がないと思ったのか・・・

彼は熱い願いはあったけれど何かをしようとはせずに、ただ心の在るがままでいたら、

田んぼの稲に現れた。

(他の田の稲は台風で倒れたのに、彼の田圃の稲は倒れなかった)

それに関心を持つ人が現れた。

それぞれがただ在るがままでいただけでそういう展開になった・・・

なんの無理も作為もなかった・・・

それが無為自然の成り行きといえるのかもしれない。

そういう方法が副作用のない成就への近道だと彼は思っていたんだろうか・・・

ひとの心が、境地が、変化すること、進むことで、

目に見える世界は自然と変化していく・・・

いろんな人が、いろんな本が、そういうことを言っている世の中になったと思う。

言葉を聞くだけじゃ、なかなかだと思うけど、

キッカケにはなりうる。

小池さんの本のCMにもあった、この文章。

・・もがいて何か「する」のでなく、

ただ内面を丁寧に見つめる「しない」生活。

けど、それが一人ではなかなかできないのが現実だ。

ましてや瞑想なんかは私はできなかった。

サイエンズスクール鈴鹿でやってるセミナーは

そんな私にとって最高のキッカケのひとつだった。

ま、どんなことでも人それぞれだし、その時その時だけれど。

参加したのはもう何年も前だし、

今はもっともっと進歩変化してるのか、

知らないのだけど。
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岩手で・・

2014-06-05 10:41:09 | 日々の暮らし・思い出
去年は石垣島で会ったし、その前も我が家には何度も来てくれてたけど、

夫の娘や孫たちが住んでいる岩手に行ったのは何年振りだろう。

今回、去年には居なかった赤ちゃんも堂々と登場。

可愛い可愛い。食べてしまいたい、という表現をしてもいいくらい、

4か月の赤ちゃんの可愛さったらないね~


小学3年生も中学2年生も高校2年生もみんな可愛かった。

高校2年生と中学2年生には都合で長いこと会ってなかったから、

その成長振りにびっくり。

高校2年生は私たちが住んでいた東京に来たことも覚えていて、

私の事も憶えていてくれた。

それも嬉しかったけど、弟の方は私たちに会った記憶がないようで、

そのことを残念がっていたことにとても驚いた。

そして、嬉しかった。

その彼に最初に会った瞬間は深々とお辞儀をされただけだったけど、

別れの時は「じゃあ、また」と言ってくれた。

それも本当に嬉しかった。


小学3年生はやっぱり今回は 花は咲く♪は歌わず、

♪あいうえお高いつゆやけど~ かきくけ後悔させしまへん~

さしすせ創味のつゆとたれ~♪というCMソングを何度も歌ってくれた。

私も一緒に歌ったけど、何度も間違え、注意されたよ。

いいねぇ~ 子供は。

その3年生とトランプ。花札。

トランプは7ブリッジと“戦争”と“スピード”。

何回したろう!? そのくらいよくやった。

手加減など勿論せず、勝ったり負けたりいい勝負でありました。

でもスピードは負けてばかり。私は一回勝っただけでありました。


小学3年生から6年生までの4回、夏休みに一人で岩手から来ていた中学2年生は、

すっかりお嬢さんになってしまって、

小学3年とトランプをしてる時に一回、「やる」と一言言って入ってきて一緒に楽しんだ位で、

あまり話もすることもなかったけど、

帰る間際にぽつんと、「行く(我が家に)」言った。

それが嬉しくてにっこりしちゃったよ。


夜は毎晩、娘夫婦たちと宴。

いろんな話を聞き、話し、飲み、食べ、あっという間に時間が過ぎた。

本当に楽しい時間だった。

どちらも仲良しの、いいカップルだった。

それが本当に嬉しかった。


義父も孫娘に囲まれた時、ほんわかいい顔をしていた。

可愛くてたまらなかった孫たちが幸せそうにしてるのを見るのは嬉しかったろうなぁ。


岩手に行くのも嬉し、

我が家に帰ってもまた嬉し。

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船旅

2014-06-05 09:41:57 | 日々の暮らし・思い出
岩手への旅は往きも帰りも船。

往きに友達になった夫婦がこんなに風がない穏やかなのは初めてだ、と言っていた。

確かに波も高くなく穏やかだったと思う・・・

でも、昼寝で横になったとき全身で振えを感じて少し気分が悪くなったよ。

立ったり座ったりしてるときは大丈夫だった。

帰りの船はもっと波が静かだったけど、

やっぱり夜も何度か目が覚めた。

同室の義父の寝息が聞こえるからなのか、

揺れのせいなのか、わからないけど。

太平洋フェリーという会社のいしかり号・きそ号という船。

777人乗り。時速40キロくらいで進む。

大きな船は小さな船より揺れないので、義父は実際より速度を低く観てたようで、

へぇ!これでナンタラノットも出てるのか、とか言ってた。

さすが海の男だ。

夫も海の男だったので、船の装備のいろいろや、

海上の設備の物?なんかを説明してくれた。

何にも知らない私はそうした彼らを尊敬のまなざしで見たよ。

港に近くなると陸地が見えたり、周りに船がたくさん現れるけど、

航海中だいたいは周りは海だけ。全く当たり前だけど、

船乗りは毎日毎日ずっとこんなふうに海しか見ないのか~・・・

と思った。

いろんな色がある陸地が恋しくなるんじゃないかと思ったけど、

夫に聞くと乗った当初はそう思っても、すぐに慣れると言っていた。

そう聞くと、そんなもんなんだろうなぁとも思ったよ。

60年以上海の男だった義父の今の在りように

こういう海での暮らしは大きな影響を与えているのだろうと今更ながら思った。


この船はタイタニックほど豪華じゃないのは勿論だけど、

らせん状の階段が船の中心くらいに在り、

その周りにはグランドピアノが在ったり、カフェがあったり、

テーブルやソファがたくさんあって、くつろげた。

持って行った本も少し読んだ。

そこで昼間ビールも飲んだ。

大きなお風呂にも入った。

ちょっと残念だったのは夕食のバイキング料理だった。

義父曰く、「ここは雰囲気はいいけど、味はたいしたことないなぁ」と、

続けて二度も言っていた。

私もまったく同感だった。

まぁ、普段獲れたての魚やうちの畑の野菜を食べているから余計そう思うのかもしれないけど。

それにしてもがっかりした。

冷凍材料をかなり利用されているのではないかと思いましたわ。

パンフレットの料理長の丈の長い帽子を被っている写真なんて見ると、

どれだけ美味しいだろう~~!(^^)と勝手に期待に胸を膨らませてしまいましたわ。

ちょっと残念だった、とさっき書いたけど、こう書いていると、

ちょっとどこじゃないね~ アハハハハ! 


往きの船では同じ年の頃の夫婦と知り合って、結構おしゃべりしたり、

一緒にお茶を飲んだりした。

二時間くらい一緒にいるといろんな話になって、

かなり心のうちなんかも話してくれてしみじみしたり・・・

やっぱりこういうことがある方が旅は楽しいね~ 



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