最近この人の本を読んだ。
この中の一つの章。「『誰々の』を忘れるハピネス」
「この考えは僕のオリジナルさ」
「これはあの人の発案だ。負けたなぁ」
「これはあいつの意見だ。けなしてやろう」
これら「誰々の」という狭い見方をすると、
君の心はガタピシ(我他彼此)と苦しくなる。
「自分の」。「他人の」。
このふたつを君が忘れ去ったなら、
仮に何も持っていなくても、
しあわせな心でいられるだろう。
・・・・・以上。
全くその通りで、他の章もみなその通りだなと思うものばかりなんだけど、
どうしたらこういう境地になれるかは書かれていない。
他の小池さんの本には、瞑想をする、ということが書かれてあった。
自分の意識観察。
それと先人が得た智慧を学ぶことだと思う。
瞑想という方法もあるんだろうし、
ブッダもそうしてなれたのだろうと思う。
他の多くの僧もそういう経験をして、
このような境地があることを知り、
それを実感したのが瞑想という経験だったのかと思う。
それが山の頂上だとすると、
そこへの行き方はたくさんあるのかと思う。
山岸さんが考えたものかと思うけど、
鶴見俊輔さんも受けたあのセミナーは瞑想をするわけでもなく、
教えられたわけでもなく、
哲学的命題をただただ自らに問う、というもので、
私にはとてもいいキッカケでいい方法だった。
どんな方法で頂上に行き着いたとしても、そこにずっと居られるとは限らない。
この世で暮らしているといろんなことがあって、
いろんなこと思って、
山の頂上から滑り落ちることなど簡単だ。
あっという間に一合目まで滑り落ちるなんてこともあるだろうと思う。
だからこそ、常に自らに問うということが要るのかなと思う。
そうしたければ、だけど。
この中の一つの章。「『誰々の』を忘れるハピネス」
「この考えは僕のオリジナルさ」
「これはあの人の発案だ。負けたなぁ」
「これはあいつの意見だ。けなしてやろう」
これら「誰々の」という狭い見方をすると、
君の心はガタピシ(我他彼此)と苦しくなる。
「自分の」。「他人の」。
このふたつを君が忘れ去ったなら、
仮に何も持っていなくても、
しあわせな心でいられるだろう。
・・・・・以上。
全くその通りで、他の章もみなその通りだなと思うものばかりなんだけど、
どうしたらこういう境地になれるかは書かれていない。
他の小池さんの本には、瞑想をする、ということが書かれてあった。
自分の意識観察。
それと先人が得た智慧を学ぶことだと思う。
瞑想という方法もあるんだろうし、
ブッダもそうしてなれたのだろうと思う。
他の多くの僧もそういう経験をして、
このような境地があることを知り、
それを実感したのが瞑想という経験だったのかと思う。
それが山の頂上だとすると、
そこへの行き方はたくさんあるのかと思う。
山岸さんが考えたものかと思うけど、
鶴見俊輔さんも受けたあのセミナーは瞑想をするわけでもなく、
教えられたわけでもなく、
哲学的命題をただただ自らに問う、というもので、
私にはとてもいいキッカケでいい方法だった。
どんな方法で頂上に行き着いたとしても、そこにずっと居られるとは限らない。
この世で暮らしているといろんなことがあって、
いろんなこと思って、
山の頂上から滑り落ちることなど簡単だ。
あっという間に一合目まで滑り落ちるなんてこともあるだろうと思う。
だからこそ、常に自らに問うということが要るのかなと思う。
そうしたければ、だけど。