仏教の基本教説に「四諦(したい)」というのがあり、それは
「この世は苦しみであり、苦しみには原因があり、苦しみは滅することができ、
滅する方法がある」という四つの真理を言う、とあった。
心が苦しいとき、何故苦しむのか?という問いを自らに問うことがある。
考えてみれば、
何故苦しむのかという問いを持つこと自体、
苦しむことが当たり前じゃないからだろう。
人間の深い深い深い本質は『楽』だからこそ、
『楽』の反対の『苦』が生じること自体ヘンなのだ。おかしいのだ。
ヘンだからこそ、問いが浮かぶのだ。
『楽』が当たり前だから、
何故楽しいのか、なんて問いは浮かばない。
なので、苦しみは錯覚だ。
苦しんでいるのにその問いを持つことが出来ない、これはそのとき、
苦しんでいるのに、それを観てる自分が消えてるから。
で、その問いを問えないことも多い。
著者の南さんは錯覚・解毒・再建のサイクルは生きている限り続く、と書いている。
本当にそうだなぁと思う。
そして苦しいという錯覚に気付いて解毒されても、
又別の錯覚に陥る。
この世とセットの自分だから、錯覚は免れない。
錯覚に気付いて解毒し、再建し、又錯覚し・・・
でも宇宙もサイクルだろうし、気楽にそれをやろう。
坐禅という方法の解毒は私には出来ないけど、
上に書いた自分への問いは出来るし、有効だよ。
釈迦と気が合うと言った山岸さんは
人間社会が幸福になるために三つ巴の機構を設けることを考えた。
学校と試験場と釈迦のいう無所有が顕されている実際の社会の三つ。
・・・このあと、何を書くというのか・・・わたし。
「この世は苦しみであり、苦しみには原因があり、苦しみは滅することができ、
滅する方法がある」という四つの真理を言う、とあった。
心が苦しいとき、何故苦しむのか?という問いを自らに問うことがある。
考えてみれば、
何故苦しむのかという問いを持つこと自体、
苦しむことが当たり前じゃないからだろう。
人間の深い深い深い本質は『楽』だからこそ、
『楽』の反対の『苦』が生じること自体ヘンなのだ。おかしいのだ。
ヘンだからこそ、問いが浮かぶのだ。
『楽』が当たり前だから、
何故楽しいのか、なんて問いは浮かばない。
なので、苦しみは錯覚だ。
苦しんでいるのにその問いを持つことが出来ない、これはそのとき、
苦しんでいるのに、それを観てる自分が消えてるから。
で、その問いを問えないことも多い。
著者の南さんは錯覚・解毒・再建のサイクルは生きている限り続く、と書いている。
本当にそうだなぁと思う。
そして苦しいという錯覚に気付いて解毒されても、
又別の錯覚に陥る。
この世とセットの自分だから、錯覚は免れない。
錯覚に気付いて解毒し、再建し、又錯覚し・・・
でも宇宙もサイクルだろうし、気楽にそれをやろう。
坐禅という方法の解毒は私には出来ないけど、
上に書いた自分への問いは出来るし、有効だよ。
釈迦と気が合うと言った山岸さんは
人間社会が幸福になるために三つ巴の機構を設けることを考えた。
学校と試験場と釈迦のいう無所有が顕されている実際の社会の三つ。
・・・このあと、何を書くというのか・・・わたし。