五木寛之さんの『悲しみの効用』という本を読んだ。
私にとっては久しぶりの五木さんものだ。
中の「おしゃべりの効用」という章に、
「・・・語っているうちに生まれてくる思想というものがある。
・・講演会が終わった後に、謝礼以外の何か大きなもの、
自分の新しいものの考え方とかが得られたり、
人を前にして語ったことで、共同作業をしたという感じを持てるのです。
・・・帰るときは自分の心の中のボストンバッグは、
持って来たときの荷物より重くなっているという感じがするのです。」
と、あった。
親鸞も『和讃』という庶民にもわかるものを書く中で
自分の思想を深めて行った、という。
話すという行為、書くという行為が、
他人のため、自分のためという区別がなくなると、
それは求道か伝道かという分け方はなくなってくるのではないかとも、
五木さんは云っている。
なるほどと思ったし、それは当然のことなんだろうなと思った。
それにしても、村上春樹さんも書かないと考えられないと云っていたし、
私もここで書くという行為をしてると、
書き始めたときとは全然違うところに着地してしまった、
というようなことはよくある。
どのようなカラクリでこういうことが起こるのか???
前もこのことは考えて書いたことあるけど、
どういう風に考え書いたか忘れた。
忘れるといいね、又考えられる。
書くということは、
実行者の何某が思っていることを言語化することによって、
実行者の中に居る観察者がそれを聴き、
聴いてもらった何某の考えが進む・・・
そんなふうなことを書いたか??
何故進むのか???
話すとか書くということは客観視するというふうに自動的になるんじゃないか。
客観的に観ることが出来るようになる。
しかししかし・・何故客観的に観られるようになるのか・??
それは実行者の中に観察者が存在する、という事実があるから・・
そう言えないか???
誰にでもそれは在る。他の人に聞いた事はないけど、
私にあって他の人に無い、なんてしろものじゃない。
けれど・・・上に書いたけど、何故客観視できると考えが進むのか???
客観とはただ在ると観ること
観察者が・・実行者にそういう思いが在る・・ふむふむ・・
観察者が・・実行者にこういう思いも在る・・ふむふむ・・と客観視する。
そういう思いが在る、となるだけで実行者の考えが進む・・とは・・?
観察者は考えの行き着く先を全部わかっているんじゃないか!
いま、そう思った!
観察者はわかっているけど、決して手を出さない。口を出さない。
ただ、実行者が成長するのを待っている。
観察者も勿論自分の一部なんだけど、
小さい自分じゃない、もっと大きな自分なんじゃないか・・!
今日はこういうところに着地した。
私にとっては久しぶりの五木さんものだ。
中の「おしゃべりの効用」という章に、
「・・・語っているうちに生まれてくる思想というものがある。
・・講演会が終わった後に、謝礼以外の何か大きなもの、
自分の新しいものの考え方とかが得られたり、
人を前にして語ったことで、共同作業をしたという感じを持てるのです。
・・・帰るときは自分の心の中のボストンバッグは、
持って来たときの荷物より重くなっているという感じがするのです。」
と、あった。
親鸞も『和讃』という庶民にもわかるものを書く中で
自分の思想を深めて行った、という。
話すという行為、書くという行為が、
他人のため、自分のためという区別がなくなると、
それは求道か伝道かという分け方はなくなってくるのではないかとも、
五木さんは云っている。
なるほどと思ったし、それは当然のことなんだろうなと思った。
それにしても、村上春樹さんも書かないと考えられないと云っていたし、
私もここで書くという行為をしてると、
書き始めたときとは全然違うところに着地してしまった、
というようなことはよくある。
どのようなカラクリでこういうことが起こるのか???
前もこのことは考えて書いたことあるけど、
どういう風に考え書いたか忘れた。
忘れるといいね、又考えられる。
書くということは、
実行者の何某が思っていることを言語化することによって、
実行者の中に居る観察者がそれを聴き、
聴いてもらった何某の考えが進む・・・
そんなふうなことを書いたか??
何故進むのか???
話すとか書くということは客観視するというふうに自動的になるんじゃないか。
客観的に観ることが出来るようになる。
しかししかし・・何故客観的に観られるようになるのか・??
それは実行者の中に観察者が存在する、という事実があるから・・
そう言えないか???
誰にでもそれは在る。他の人に聞いた事はないけど、
私にあって他の人に無い、なんてしろものじゃない。
けれど・・・上に書いたけど、何故客観視できると考えが進むのか???
客観とはただ在ると観ること
観察者が・・実行者にそういう思いが在る・・ふむふむ・・
観察者が・・実行者にこういう思いも在る・・ふむふむ・・と客観視する。
そういう思いが在る、となるだけで実行者の考えが進む・・とは・・?
観察者は考えの行き着く先を全部わかっているんじゃないか!
いま、そう思った!
観察者はわかっているけど、決して手を出さない。口を出さない。
ただ、実行者が成長するのを待っている。
観察者も勿論自分の一部なんだけど、
小さい自分じゃない、もっと大きな自分なんじゃないか・・!
今日はこういうところに着地した。