ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

悲しみの効用

2013-11-30 13:51:03 | 本を読んで
五木寛之さんの『悲しみの効用』という本を読んだ。

私にとっては久しぶりの五木さんものだ。

中の「おしゃべりの効用」という章に、

「・・・語っているうちに生まれてくる思想というものがある。

・・講演会が終わった後に、謝礼以外の何か大きなもの、

自分の新しいものの考え方とかが得られたり、

人を前にして語ったことで、共同作業をしたという感じを持てるのです。

・・・帰るときは自分の心の中のボストンバッグは、

持って来たときの荷物より重くなっているという感じがするのです。」

と、あった。

親鸞も『和讃』という庶民にもわかるものを書く中で

自分の思想を深めて行った、という。

話すという行為、書くという行為が、

他人のため、自分のためという区別がなくなると、

それは求道か伝道かという分け方はなくなってくるのではないかとも、

五木さんは云っている。

なるほどと思ったし、それは当然のことなんだろうなと思った。


それにしても、村上春樹さんも書かないと考えられないと云っていたし、

私もここで書くという行為をしてると、

書き始めたときとは全然違うところに着地してしまった、

というようなことはよくある。

どのようなカラクリでこういうことが起こるのか???

前もこのことは考えて書いたことあるけど、

どういう風に考え書いたか忘れた。

忘れるといいね、又考えられる。


書くということは、

実行者の何某が思っていることを言語化することによって、

実行者の中に居る観察者がそれを聴き、

聴いてもらった何某の考えが進む・・・

そんなふうなことを書いたか??

何故進むのか???

話すとか書くということは客観視するというふうに自動的になるんじゃないか。

客観的に観ることが出来るようになる。

しかししかし・・何故客観的に観られるようになるのか・??

それは実行者の中に観察者が存在する、という事実があるから・・

そう言えないか???

誰にでもそれは在る。他の人に聞いた事はないけど、

私にあって他の人に無い、なんてしろものじゃない。


けれど・・・上に書いたけど、何故客観視できると考えが進むのか???

客観とはただ在ると観ること

観察者が・・実行者にそういう思いが在る・・ふむふむ・・

観察者が・・実行者にこういう思いも在る・・ふむふむ・・と客観視する。

そういう思いが在る、となるだけで実行者の考えが進む・・とは・・?

観察者は考えの行き着く先を全部わかっているんじゃないか!

いま、そう思った!

観察者はわかっているけど、決して手を出さない。口を出さない。

ただ、実行者が成長するのを待っている。

観察者も勿論自分の一部なんだけど、

小さい自分じゃない、もっと大きな自分なんじゃないか・・!

今日はこういうところに着地した。

防空識別圏

2013-11-29 14:31:09 | テレビを見て
中国が防空識別圏なるものを勝手に引いた?とかで、

それがニュースになっている。

そういう圏があったのかと私なんかは初めて聞く言葉だ。

勝手に引くなというようなことを中国に言ったところ、

「日本は44年前から防空識別圏を設定しており、

もし、撤回しろというなら、

日本側が自らの防空識別圏を先に撤回すべきで、

そうしたら、中国も44年後に撤回する」

・・というようなことを国防省の報道官が言ったという。

コレを聞いて思わず笑ってしまったけど、なるほどとも思ったよ。

いや、中国のいうことが正しいとかそういうことをいってるんじゃないよ。

今の防空識別圏なるものは1945年第二次大戦が終わったときに、

GHQが設定したものだとネットではあったけど、

44年前といえば1969年で、GHQの設定を変えて、

日本が勝手にその年に設定したのだろうか?

よくわからないからいい加減なことは言わないけど、

中国の報道官のこのコメントに反発するだけじゃ、

よからぬサイクルから抜け出せないかなと思った。

中国がそういうことを言いたくなったわけというものがある。

そのわけをああそうかなるほどと聴けなかったら、

いつまでもいたちごっこだ。




後継ぎ ②

2013-11-29 13:27:40 | ひとの幸福
伝統若狭塗り箸の作り方を後継するということもある。

そういう目に見える(形)を後々に残すということもある。

(形)ではないものを残すということもある。

若狭塗り箸を一心に作っているその姿に表れている(こころ)を残すこともある。

(かたち)ではない(こころ)は残すというより、残るものかと思う。

残そうとして残るのではなく、後の人に自然に残ってしまうもの。

よいものも悪いものも残る。

「その人は死んでも行為は残る理」というような言葉が青い本にあったけど、

例えば塗り箸を作っている最中、失敗したとする。

そこで腹を立ててその箸を折る。

失敗する度に腹を立てて折る、という行為を

子供が常に見ていたとしたら、“失敗したら腹を立てるもんだ”と、

その子供の潜在意識にプログラムされる。

失敗しても失敗しても、腹も立てず、一心にまた作るという、

行為を常に見ていたら、

失敗しても、ただ、又やるというようなプログラムが

子供の意識に刻まれるのではないかと思う。

最近は聞かないけど、何か子供がよからぬことをすると、

「親の顔が見たい」ということがちょっと前まで言われた。

この「親の顔が見たい」というのも一理在るかなと思う。

子供がそうなったのはなるべくしてそうなったわけで、

周囲の者がそういう行為を数多くしていたのではないか・・と、

推察されるから。


行為が変わらなかったら世界は変わらない。

後継ぎ

2013-11-29 11:07:33 | テレビを見て
「おはようさん」というNHKの朝の連ドラをBSで見てるんだけど、

それの前に以前の連ドラの「ちりとてちん」というのを放映してる。

それも割りと見てて・・・

今朝のシーンで、主人公の祖父がこう言った。

・・・息子が若狭塗り箸の後継ぎをすると言ってくれたことが

こんなに嬉しいものだとは思わなかった。と。


私の今までの人生で「後継ぎ」なんてことが頭に浮かんだことがないもんで、

それがどういうことなのか考えたこともなかった。

自分がしている若狭塗り箸を作る仕事を

息子がやると言ったことが嬉しく感じるのは、

それまでの自分の人生を認めてもらえた、という嬉しさなのかと思った。

自分の人生が無駄じゃなかった、と思えるというような・・・

それがドラマでは息子は一度はそう思ったものの、

なんらかのわけで家を出てしまった。

そのことで息子を許せないと思ったようだ。

又息子がその仕事をやりたいと言ってきた時にも息子を許せなかった。

これはどういうことなのか・・

自分の人生を他者から認めてもらえたと思って喜び、

息子が後を継がないとなって、自分の人生を否定されたと苦しみ、

又息子が後を継ぐと言っても、それを拒絶するというのは

息子が自分の人生を振り回していると思うので、

もう振り回されたくないという気持ちがそういう行為をとらせるのかと思った。

他者が認めれば在り、認めなければ無い、というような、

そんな人生は嫌だという無意識のうちの思いがあるからこそだろうと思う。

他者の評価で自分の人生の価値を上げ下げしてる自分が許せない、

そういうことだろうと思った。

ひとを許せないというのは自分を許せないことなのだ。

あなたまかせの人生はとても不安定だ。

自分で自分の人生を認めていれば、

どう思われようと・・ひとがどう評価しようと・・・

後を継ごうと継がなかろうと・・

それに振り回されることは無いのだろうと思った。

祈る

2013-11-27 14:39:06 | テレビを見て
さっきNHKの新日本紀行を見た。

どこだっけなぁ、離島だった。長崎だったか・・・

流されてその島にたどり着いた仏像を大事に祭ってあるとか、

部屋に置いて在るとかの話があった。

毎日そこへ参りに来るおばあさんがいる。

個人的な願いを神社で祈ったことはないけれど、

(小学生の時はある)

私も神社に行けば手を合わせる。

寺に行っても手を合わせる。

教会に行っても手を合わせる。

仏像という木で出来たものに神や仏を観る人は、

その物をそういうものとして扱っている、捉えている、ということかと思う。

人間が作った木で出来てる仏像側としては、

多くの人にそのように観測されることで、

そのようになる、ということはあるかと思う。

それに、その人にとってそういうものなら、

その人にとってはそういうものなのだ。

人がとやかく言うことじゃない。

それにそう思えるというのは素敵なことだと思う。

人生が深くなる。

若い頃の私みたいに、そんなもん、ただの木だ、

なんて偉そうに思っているよりずっと。


神社で人の思うことを神さまがいちいち聞いていて、

叶えてくれるなんてことがあるはずが無い・・

私はずっとそういうふうに思ってきた。

まぁ、今でも神さまが私の願いを聞いてそれを叶えてくれるとは、思ってない。

でも、神というものをどういうものと捉えているのかは

人によって違うだろうけど、

神と言ってもいいようなものが在る、とは思っている。

人智を超えているようなもの・・

そして、神性といってもいいようなものが、人間にはある。

神性という言葉があるということは、

その元の神もあるということになる。

神なんかいない、と言い切る人がいる。

私もどんな根拠があってか昔はそう思っていた。

けれど、そういう人の中にも「神」のようなものはある。

神というなんらかのものがその人の中にはある。

神という言葉を何故か人間は持っている。

ひとは何かが心配な時、思わず祈ってしまう。

どうか無事でいますように・・とか。

祈らずには居られない、という心境になってしまう。

神社や寺という場所でもないのに、

何故そう“なって”しまうのか・・

ひとの心の中に祈る対象があるからなんじゃないかな・・・

日本人の数的思考力・読解力 

2013-11-25 16:04:06 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞の「くらしナビ」欄に

日米欧などの先進国でつくる経済協力開発機構(OECD)が

24カ国・地域の成人(16~65歳)を対象に、

読解力、数的思考力などの調査をして、その結果、

イタリア人の学力が最低で、その背景について書かれてあった。

そしてその2分野とも1位が日本だった。

数的思考力とはどういう思考力なのか・・・

計算力ではなく、思考力というからには・・??

数学的思考だとして、だとしたらそれは読解力と繋がるものがあると思った。

数学的思考力とは(無い)が在ると、わかっている思考力かと思う。

「生きることは素晴らしい」という言葉を多く世に見るということは、

暗黙のうちに「死ぬのは素晴らしくない」と言っているようなもんだ・・

というような思考が数学的思考と言われるもののようだから。

言わないことで言っている、というもの。

それが無いことで他に在るものがあるといっている、といってもいい。

その言葉の奥にあるものを見る思考力なのかもしれない。

読解力というのは言葉を理解する、読む力だと思うけど、

表れた言葉の奥に在るものを読み取る力もそのうちに入るのかと思う。

空気を読むというのも入るかもしれないと思った。

行間を読むという表現もそれに入るかもしれない。

その認識が表現されてないことで、見えない認識が在ることを示している。

そのような思考力が日本人に高いのは、

日本語という言葉を使っていることでそうなるのではないだろうか・・・

という仮説を持っているんだけどなぁ。







ごちそうさんの覚悟

2013-11-25 14:10:17 | テレビを見て
何故だか、パソコンの調子が悪くて、ネットが繋がらず、

これは何日か前に書いたものです。

今、繋がったので。

NHKの朝の連ドラ「ごちそうさん」を「あまちゃん」に引き続いて見ている。

主人公の家では夫の継母と姉がいつも喧嘩状態で、

夫の妹に結婚話が来て、

妹はこの家に居るのが嫌だから結婚したいと思う気持ちもあり、

この家の状態を見ていると結婚するのが怖いという気持ちもある。

主人公は妹が前向きに結婚するというふうになるまで、

結婚を延ばす方がいいと妹に言うんだけど、

彼女はこの家が仲良い家になる可能性はないと、

諦めの気持ちが出てきて、主人公も妹がいま、結婚してもいいかと諦めムードになる。

自分に幸せにすることなど出来ないと思う。

それを師匠と思ってる人(これを書いた後、この人は夫の父親だということだった)に話すと、

師匠は、それでいいんか、あんた、幸せにするって言うたやんか、

出来る出来ないということちゃう!

やるねん!

大事なことはその覚悟や・・・というようなことを言う。

その後のシーンで、主人公は妹に、

ひょんなことから、「1年ここに居て私のやること全部見てなさい」

と言い切る。

失敗も成功も。それに失敗だって無駄にならない。

どうやったら楽しい家になるか、どうやったらならないか、

その目でちゃんと見て、考えてから嫁に行きなさい。

そう言った。

なかなか言えることじゃない。

有言実行になるか???

でも、それをやるってところに立ったんだろうと思う。

この家が楽しい幸せな家に“なるための行為行動”をする、って、

ところに立った。

そこに立ってやってみて、初めて、

あー、これはなったな、ならなかったな、と観察できる。

楽しい幸せな家になるかならないか、やってみなければわからない。

あくの強い夫の継母や姉と共にやる作業だ。

この前書いた、「家族や共鳴しないものまでも巻き添え的犠牲者にしては不可です。」

を思い出した、今。

あくの強い姉も継母もこの家を楽しい幸せな家にしたい、

なんて希望は持っていないのだろうと思うし、

そのことは“共鳴しないものまでも”ということに当てはまる。

主人公のそういう願いの元での行為行動がキッカケで継母や姉までも、

思わず幸せな家族への道を歩んでしまう・・

・・・ということになるのではなかろうか・・・

さてさて・・



虐待のサイクル ②

2013-11-21 16:24:40 | テレビを見て
今世の中で幼児虐待が問題になっている。

さっき書いたような解決方法は、

そのサイクルがいいサイクルに変わるということだ。

どうしたら虐待がなくなるか、といろいろ考えられているんだろうけど、

あの番組を見た人はどう思ったのかなぁ。

こういうことに鈍感な人が多いのかと思う。

本当の、無理のない、努力の要らない、

最終、最善、最真的な解決方法だと思うけど、

そういうことにアンテナを張っている人が少ない現状なのかと思うな。

ウズベキスタンの超常現象

2013-11-21 16:19:03 | テレビを見て
やはりこれも数日前のテレビでやってたもの。

超常現象なんて言ってテレビでやっているのは

結構眉唾物が多い気がして、期待してなかったんだけど、

これはびっくりした。

ウズベキスタンという国の或る坂道の道路では

怪奇現象が起こって、恐ろしいから人が行かないという。

車の運転席から人が降りて、エンジンがかかってないのに、

その道路ではそのカラ車が坂道を登る。

試しに水をそこへ落とすと水は坂道を上って行く。

えええええっー!!!???じゃない人もこの世にはいるんだろうか??

実際それは起こっているんだから、

何らかのわけがあるはずなんで・・

水が坂道を上るわけは・・・

番組で学者先生が云うには、

重力がここでは他と違うのではないか・・というようなことだった。

たった50メートルの間だけらしい。

知識がないから、そういうことがあるんですか、で終わったんだけど。

私がわからないだけで、

わかる人にはそのわけがわかるんだろう。

虐待のサイクル

2013-11-21 11:15:40 | テレビを見て
数日前、小さな子供を叩いてしまっていたという女の人が、

そのことから卒業して、その経験から、

同じように虐待してしまうことに苦しんでいる若い母親たちと

一緒にセミナーみたいなのをやっているというテレビ放送を見た。

その人は1才半の我が子が思い通りにならないときに

すぐ叩いてしまう自分に苦しんでいた。

自分も3才くらいから小学6年生くらいまで母親から虐待されていたという。

そういう話を弟にしたことがキッカケで、

育った家族の中で自分の苦しみを話せ、その時母親は泣いて謝ったという。

その経験で、彼女は母親を許すことが出来た。

母を許せたことから、自分を許せるようになった。

それ以来子供を叩くことがなくなったという。

叩かないようにしようという努力ではなく。

なるほどと思った。

自分に虐待した母親を許せたことが、自分を許せたことに直通する。

母が自分を叩いたことを許せたということは、

母のその行為を認められた、ということだろう。

そして自分の同じ行為も認められた。

その行為をしてしまったことを在るがままに

善悪の判断無しに受け容れられた。

受け容れられた途端、虐待しなくなる・・まるで魔法のようだけど、

私もひとの乱暴さを受け容れられた途端、

その乱暴な行為に対する咎める気持ちが

それ以来一切出て来なくなった経験があるからすごくよくわかる。

そうなると・・・

乱暴な行為をしていた人のその行為が変わってきたと感じられる。

自分が変われば世界が変わる、だね。

自他を受容できずに苦しむことから解放されると、

人生は確実に変わるのは誰しもだ。

青い空と銀色の海 ②

2013-11-20 11:11:47 | 日々の暮らし・思い出
今日は夫と一緒に歩いた。

隣の集落の浜の一番奥まで一緒に歩いて、

そこから半島の山のてっぺんにある神社まで私は歩くつもりだったので、

夫にそこまで歩くから先に行っていて(家に)、と声かけた。

夫は少し膝の具合が悪いので長くは歩かない。

そう声かけてから私は歩き出した。少し高台に上ってから見たら、

夫はそこで背伸び運動をしていた。

何故だか、夫が歩き出してから私も歩こうと思った。

しばらく夫の後姿を見ていた。

夫が歩き出したのを後ろの高いところから見てるとき、

さっき言った(先に行ってて)という自分の言葉が帰ってきて、

(先に逝ってて、私はもう少し生きるから・・)

・・みたいな感じで思いを馳せる展開になってしまった。

へたくそな表現なんだけど。

神社に上がる階段を歩いて後ろを振り返ると、

木々の隙間から浜を歩く夫が小さく見えた。

そこで「ヤッホー!」と大きな声で叫んだ。

小さな黒い点のような夫の動きが止まって、上の方が揺れた。

手を振っているのかと思った。

もう一度大きな声で叫んだら、また上の方が揺れた。

しばらく見てると、そのうち黒い点は動き出した。

山のてっぺんまで行って、すぐに降り始め、

また下の浜が見えるところまで来て、

浜をずーっと見ても、黒い点はもう見えなかった。

その時の、見えない後姿を捜している気持ち、

それは寂しい、という気持ちに似ていた。


今頃はもう家の近くかもしれないと思った。

浜まで降りて、歩いていて、国道に出る少し前、

夫の姿が目に入った。

まだそこに居たのだった。居ないと思っていたからか、

なんだか凄く嬉しかった。

待っていてくれたのか聞いたら、いや、違う・・という返事だった。

その後で上に書いた、登っている時そんな気持ちがあったんだよ、と話したら、

半分くらいは待つ気持ちがあった・・とぼそぼそ言った。

ちょっと嬉しかった。





青い空と銀色の海

2013-11-20 10:43:40 | 日々の暮らし・思い出
昨日は朝九時頃から歩きに出かけた。

歩きとスロージョギングと、ラジオ体操と、

他の体操ちょっととスキップとを道中で行なう。

バイパスが出来て車も通らなくなった海沿いの国道の歩道を

一人で独占。

家から急な坂道を上がってすぐに国道。下を見て歩いていて、

ぱっと向こうを見てみると、きらきら光る銀色の海と青い空が広がっている。

聴こえるのは潮騒と、山の木の葉っぱが風で擦れ合う音と、

アスファルトの道路に枯葉が落ちる時の音と、

鳶とカラスの鳴き声。

それ以外の音がしない。

銀色の海の眺望を見て、思わず叫ぶ。「最高!」って。

それでもこの感動を表しきれないのか、胸がどきどきしてきた。

涙が出てきた。

毎日のように見る景色なのにどうしたんだろう???


「体を緩めて視点を変える」より

2013-11-19 10:33:57 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞日曜版の海原純子さんの『新・心のサプリ』

仕事で何かについてずっと集中して考えている状態の後に

水泳をしている時とか、歌ったり、散歩したりしている時に、

ふとその何かの事でアイディアが浮かんだり、

何かに気づくことがある、というもの。

それを体を緩めることで視点が変わると彼女は言っている。

「普段使ってない脳や体を活性化すると

困難をのり切る新たな視点が生まれる」とも表現している。

何故そういうことになるのか明確にはわかってないんだと思うけど、

自分でもそういう経験は結構ある。

アイディアが浮かぶにはその前に、

とことん集中して考えるということを経ないと、

そうはならない、ということを実感してる。

緩みっぱなしではならない。

考えるということは理性がやることだけど、

ひらめきとかアイディアが生まれるのは

理性が意識にいっぱい状態だったのが、

急にその理性がなくなって・・いわば、意識が理性から解放された状態になって・・

でも、考えるということをしないでは、それは起こらない。

それは電波みたいなもので、

集中して考えた後の意識の状態の何かが、

外から来るものと共鳴現象を起こす・・

それがアイディアとかひらめき・・・こういう仮説はどんなもんでしょうか???


中学1年の時、クラスで好きな男の子が居て、

その子も私が好きだったみたいで、

からかわれたりしたことがあった。

その時私は赤ちゃんが生まれるようになったらどうしよう??

と真面目に心配したのだった。

初潮も迎えていず、セックスなんて何にも知らなかった時だ。

その前年、小学6年生の時、夏の臨海学校がある前に、

女の子だけ教室に残され、性教育みたいなのを

担任の若い男の教師から受けた。

先生は黒板に精子と卵子とか書き、

それがくっつくと赤ちゃんが生まれる・・

男と女が愛し合うとそうなるというようなことを言ったように記憶してる。

先生のその話を私はこんなふうに解釈したのだった。

・・・空気中にその男の子が私を好きな気持ちがぷかぷか浮いていて、

私がその子を好きな気持ちもぷかぷか浮いていて、

それが相思相愛だと空中でくっついて女のお腹に赤ちゃんが発生するって。

空中にはたくさんの気持ちがぷかぷか浮いている。

精子とか卵子という名前から何故かタンポポの種を連想し、

気持ちがひも付き風船みたいにぷかぷか。でも凄く小さいから人には見えない。

そんなふうに本気で思っていた。

だから本気で心配した。

でも勿論妊娠しなかった。

今考えると、気持ちぷかぷか説はあながち荒唐無稽でもないようにも思う。

気風とか雰囲気とか空気とかね。

・・・ずいぶん長い脱線だった。

心理的解決について考えようとしたら・・こんなことになった。

2013-11-17 13:28:16 | ひとの幸福
形ある物は壊れる。変化する。

じゃあ、形の無いものは壊れないのか?という?が浮かんで来る。

「形あるものは壊れる」という言葉がわざわざ存在するということで考えると・・・


(形の無いもの)は私たちからはそのものが見えないものと言っていいと思う。

空気とか風とか酸素とか匂いとか雰囲気とか気風とか・・・

ひとの意識も。

或る意識が在ることによってそれが形となって現れる、ということはあるけど、

意識自体は形が無い。

かといって、壊れない・変化しないわけじゃない。

壊れるし、変化する意識はたくさんある。

心ころころで、空腹だと美味しく感じ、

満腹だと美味しく感じないなど、

そういった感想のような意識は壊れるし?変化する。

可愛い我が子でも可愛いと思うこともあれば、

憎たらしいと思うこともある。

そういうのは形の無いものでも変化するといえる。


(形あるものは壊れる・変化する)という“思い・認識・意識”は壊れない。

(形あるものは壊れる・変化する)このことが例外なくそうである、

のが事実だから、

事実に則した認識は壊れない、といえるんじゃないか。

書いてて今、ここで思った。

変化するということ自体が変化しない、

ということが不安定の安定ということなのか??

この前書いたのと同じことか???そうかもしれない。

・・脱線です。

それ以外にどんな意識が、壊れないか・・・?

「ひとは元来、幸福という存在である」という認識が、

これがそうなのではないか・・・???

だからこそ、相対性の世界の中で、そうなっていないと感じると

それを求めるものなのだろうと思う。

人間はそう云う者で在る。そういうものとして存在している。

そのことは、その事実は、変化しないものではないか。

ひとや場合によっては、そんなふうに思えないことがあるかもしれないけど、

例えば実際は男なのに女にしか見えないということがあるように。

ひとというものがそういう元々幸福な“存在である”

・・・コレは変化しないんじゃないか。

さっきのと同じで、事実に則しているところの認識は壊れない。

・・・そうではないか。

そういう軸さえ持っていれば、そういう動かぬ認識があれば、

そこから考えられるし、

人間のいろいろな不幸を呼ぶ言動が起こることも納得できる。


青い本の彼が、

「人生は快適で当たり前」という私共の人生観から言っているもので・・

・・とかなんとか云ってる文章も、そのことを云っているのだろう。

その人生観は変化しない本物。事実に則してるから。












「おとなの背中」の書評から・・・

2013-11-17 10:14:35 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞の書評欄に鷲田清一さんのこの本が載っていた。

その人の本は一冊読んだことがある。

ちょっと関心を持って読み始めんだけど、

私には難し過ぎた本だったなぁ。

本のタイトルも憶えてない。

難しい本を読むと、もっと頭がよかったらなぁと思わずに居られない。

内容を知りたいのに読めないということがよくある。

まぁ、これは余談であります。

以下この書評からの抜粋です・・・

「・・・かつては場数を踏み、痛い目に遭う経験を通して

生きていくのに不可欠な『見極め』がつく大人になった。

今は失敗する可能性があらかじめ排除され・・・。

思い通りにならない現実への耐性が必要・・・」


本当にそうだなぁと思う。

痛い目に遭う前に、それを物理的に解決してしまうこともそういうことかと。

子供に親がすぐ手を出すとか口を出すとかもそうだ。

便利な世の中と云うのも、

便利は不便よりいい、というだけで、突っ走って来たのかなと思う。

そうすることで、ひとはどうなるか、という深い推察をしよう、

という頭がない人が多かったということだろうと思う。

だからこうなってきたのだろうから、

それはなるべくしてなったという当たり前の現象なので、

済んだことは仕方がない。

これからどうするかだけが大事かと思う。

不便とか、大変とか、嫌だとかの出来事を通してしか、

人間は成長することが出来ない。

そう言い切ったら無謀だろうか・・・

大変な思いをすることを通して、ひとは成長する。

痛い目に遭うことでしか人は成長しない。

地球人類全員が物理的にも心理的にも何の悩みも苦しみも無く、

希望に満ちて生きられるようになるまでは、

大変だ、嫌だ、イライラする、と思うことを物理的だけでなく、

心理的にも解決する術を体得しなければならないと思う。

大変な目、痛い目に遭うことが必要不可欠。

どんなことも分かり合える家族の中だけで過ごしてハッピーでも、

外に出たら7人の敵がいて、その場ではその幸福感が消えてしまうようなら、

7人の敵はあり難い存在ということで。

(いつでも何処でも誰とでも仲良し)という絵空事みたいと思われる、

超難しいことを実現したいと思うエネルギーがどれだけ在るか・・・

それを自分に問われるのかなぁと思うよ。

(いつでも何処でも誰とでも仲良し)が

可能だと思ってなければ出来ないことだけれども。

そんなの無理と思っていたらそれは無理なことになる。

大層なこと書いてるみたいだけど、

洗濯ハンガーの洗濯バサミがこんがらがってイライラする、

たったそんなことでも、その材料になる。

自分が経験できることしか材料は無いからね。

けど、その小さなイライラが心理的に解決されることは、

他のイライラも解決することに繋がる。

イライラする仕組みやそれが解決する仕組みは一緒だからね。


物理的解決ばかりを急ぐと、そのせいで心理面の解決が遅れる、

という状況が今の状況なのかと思う。

痛い目に遭わずに事柄が滞りなく済んでしまう、というのは

心理的解決を経験出来るチャンスを失うことだもんね。

物理的解決を一生懸命やる人が居て勿論いいけど、

物理的に解決していても、今回のフィリピンの台風とか、

東北の大地震とかのなかでは、質的に高い物理的状況など吹っ飛んでしまう。

そういうことも人にとっては心理面の解決に思いが行って、

いいこともあるのかもしれない。