ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

スピノザの言葉から・・・

2014-01-31 10:41:09 | ひとの幸福
ストレスを多大に受けると細胞が初期化するという話は、

チラッと読んだことがあるスピノザの言葉を思い出す。

「絶望のきわみにあるとき、愛が姿をあらわす。

幸せを願望するのを止めることこそが

幸せを生きるただ一つの仕方なのです。

絶望=諦めている=何も望まない=何も欠けていない=すべて持っている

賢者が恐れと無縁であるということは

賢者が願望とも無縁であるということ。

それは絶望している者でもある。」

・・・以上。

何も望まないというのは

既に望みは全てかなっているという状態と同じだからねぇ。

いや、それが言いたかったんじゃなくて・・

なんにでもなれる細胞になる・・ということは

可能性しかない状態だ。

360度視野が広がっている感じ。

制約するものが何もない感じ。

それでいて、自分ひとりの個で何かになるんじゃない。

全体、周りの中での自分が他と関わり合いながら、

その時々で一番相応しい何かになる。

それを制約とも不自由とも感じないものが本物の万能細胞なのかと思う。

幸福細胞だ。
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ひとつの細胞と一人の人間

2014-01-31 10:27:29 | ひとの幸福
生命はデザイナーを持たないけど、

最初の方の細胞は隣近所と

あなたがそうなら私はこうする・・みたいななり方で

それぞれの臓器になったりして、

全身という身体になるらしい。

福岡伸一ハカセの「動的平衡」にあった。

そして各細胞は周りの細胞と連絡を取り合って、仲良くしている。

その臓器になった細胞は遠くの細胞のことは知らないんだと思う。

遠くにある細胞で作られた臓器があることなんかも知らないんだろう。

そしてそのもの、その臓器としては変わらないけど、

脱皮するみたいにいつも新陳代謝してる。

新しいものと入れ替わっている。

そうして細胞の集まり・全身という身体は

全体が調和しながら始終動いているんだと思う。


人間で云えばこういうことになるんじゃないかな・・・・

各人が家族や隣近所、職場の人、友人知人と仲良くできることで

世界が平和な幸福なものになる。

遠くのひとのことなんて気にしなくていい。

誰もが自分が接する周りのひとたちと本当に仲良くやれたら、

世界中が幸福になる。

誰もが自分の事だけやればいい。

世界平和なんて考えなくていい。

そんなデザイナーは要らない。

自分が幸福になることが全部の幸福。

各細胞がやってるのと同じ作用で。

細胞が新陳代謝してることも真似しなければならないね、

脱皮しながら成長すること。

『一つの細胞=一人の人間』で、

『全身=世界・宇宙』。

ねぇ、そんな気がしないかな。

細胞が自然に行なう作用を人間も出来たら、

世界も人間の身体のように調和したものになる。

けど、実際今の世界もそれなりに調和している。

わたしたちの身体もそれなりに調和している。

でも不自然な調和だ。

戦争や紛争があったりする世界だし、

脳梗塞や心筋梗塞や糖尿病や心不全やガンなんかに冒されたりしてる身体だ。

でもそれも調和の姿といえるもんだと思うんだ。

そうなって来た条件のうち一つでも欠けていたら、

そういう姿になってはいないという意味での調和。

でもそれも本当に美しい調和に至る道筋にあるんだと思う。
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万能細胞が作られた

2014-01-30 21:09:11 | 新聞を読んで
本当に驚く。

何年も何十年もずっと研究してる学者を差し置いて、

常識にトラワレナイ晴子さんは万能細胞を作り出した。

コペルニクス的転回が作用した例かもしれない。

快哉を叫びたいような気持ちになる。

本当のことはシンプル。そんなことも思う。

一事が万事。そんなことも思う。

身体も心も仕組みは同じ。そんなことも思う。

ミクロとマクロは相似関係にある。そんなことも思う。
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細胞の初期化。

2014-01-30 20:55:28 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞一面「新万能細胞 作製」「早く簡単 がん化せず」

三面にも詳しく載っていた。

とても興味深く読んだ。

リンパ球などの細胞を弱酸性溶液に浸すことによって、

受精卵のような万能細胞が簡単に出来るそう。

それはSTAP細胞と名づけられたそう。

極端に言えば小中学校の実験でもSTAP細胞を作れるかもしれない、

というような、簡単な方法のようだ。

これを主導したのは30歳の小保方晴子さんという女性で、

これまで何回も一流科学誌に論文で投稿しても、

誰にも思いつかない意外な成果に「信じられない」と却下され続けたらしい。

なかには「あなたは細胞生物学の歴史を愚弄している」とまで言われたらしい。

それくらい簡単な方法なんだねぇ。

細胞に思いつく限りのストレス(刺激)を与えたことによって、

体細胞から万能細胞が得られた!!

わくわくした。凄い!

何にわくわくしたかというと、その簡単さというものと、

人の意識との共通なものを感じたからだ。

細胞で起こることは人の意識でも起こる、って私は思ってる。

その作用が似てる。

『細胞の初期化=意識・境地の初期化』

細胞の初期化とはどういうことかというと、

体細胞の時計の針を巻き戻し、

受精卵に近いどんな細胞にもなれる“能力を呼び戻すこと”らしい。


可能なことならどんなことでもやろうと思える・・

制約するものがなくなる、自由な発想ができる・・・

・・ニュートラルな状態(無垢自由な境地)になる・・

それは人間の最初の資質、本質が持つ能力。

そういう能力を呼び戻せるようになるには、

多大なストレスを受けることによってではないか。

(それだけが方法ではないにしても。)

そういう経験が何度もある私はそう思う。

辛い経験が続いて、とことん絶望的になった瞬間、

もうどうなってもいい、という、驚くほどの明るく自由な境地になる。

どうなってもいいという心境は、

どうなるかわからない結果に、とらわれないで居られる心境ともいえる。

そうなると、可能の世界がいきなり広がる。

何でも出来得るという、境地だ。

ニュートラルな状態になる、ともいえるかと思う。

何でも出来得る・・どんな臓器にでもなりうる万能細胞、と似てる。

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1974年時の中国人の子供が・・

2014-01-29 10:50:43 | テレビを見て
いま、NHKのBS、ドキュメンタリー「一時帰国」を見た。

1974年の収録、放映だったと思う。

中国の残留孤児の話だった。

彼らが中国に帰る船に乗る前、NHKの取材してる人が、

残留孤児の息子で中学生くらいの少年に問いかけをした。

大人になったら何をしたいか、というような。

そうしたらその少年は「工場で働きたい」と言い、

取材者は「どんな工場で?」と尋ねた。

少年は、どんな工場かわからない、自分に与えられた仕事をしたい、

と返事をした。

それを見て、なんか凄くいいなぁと思った。

変だろうか?

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夢見た

2014-01-29 10:40:26 | 日々の暮らし・思い出
昨夜夢を見た。夢の中で腹が立った。

これは夢の中身なんだけど・・・

私が自宅に残り、夫と義父が出かけることになった。

私が台所で何かしている時に、

夫が玄関の外に出た気配がしたんだけど、義父はまだ部屋に居た。

そこで、まだ玄関の近くに居るかもしれない夫に大きな声で

義父を置いて行かないでというようなことを言った。

ちゃんとお父さんのこと見なきゃだめでしょ!

みたいなニュアンスが自分にあった。

そうしたら夫が部屋に入ってきて、

怒って冷蔵庫に何かをぶつけた。

(現実の夫はそんなことをしたことは一度もないよ。念のため(^^))

夫のその怒りを感じて、また腹が立ったんだけど、

すぐに自分も同じだ、と思った。

夫が義父をみていなかったように、

自分も義父をちゃんと見ていなかった。

義父が夫と一緒に外へ出るように、看ていなかった。

一緒に出かける夫が義父をちゃんと見ているべきだ、

みたいなのがあったことに気づいた。

・・・こんな夢だった。

こういう夢は全く初めてだ。

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口内炎と鼻歌

2014-01-28 16:21:10 | ひとの幸福
夫はここ何週間かずっと口内炎を患っている。

今回のは大きくて罹患日数も長い。

本当に気の毒だ。

さっきそれを見せてくれた。少し回復の兆しがあると言って。

昨日彼は車に乗った時に歌のCDを聴いたそう。

そしたら自然とその歌に合わせて一緒に口ずさんでいたそう。

口内炎が酷いと話すのも痛いし、歌うなんてのもとんでもないと言う。

それが知らぬ間に歌っていた・・・

口内炎がよくなってきたことを身体の他の部分は知っている。

「よくなったから歌おうかな」なんて意識が働いたわけじゃない。

全く自然に気づいたら歌っていた・・・

身体はホントウに完璧な存在だ。

身体の一部の出来事を他の部分は逐一知っていて、

いつもそれと共にある。

どこかが痛かったら、それを全体で正常にしようと

脳の電気信号がせっせと働き、脳内物資もせっせと出たり出なかったりして動き、

各細胞もやれることならなんでもやる・・

限りなく度素人だからいい加減な勝手な表現してるよ。

そして、痛みが少なくなったことで心軽やかになり、

そのことで自然と歌いたくなると同時に身体はそう動く。

そのことが凄いと感じる。

身体は完璧だって感じる。そのままで完璧。

身体の“仕組み”はこの人間というものが出来た時から、

最初から、完成されている・・と思う。

そしてこれ以上進化することはないと思う。

だって完璧なんだから。

身体はなんて凄いんだろう!!!


身体という形あるものじゃない、形のない心の方の“仕組み”も

多分最初から身体と共に完成されているんじゃないだろうか。

これ以上進化することはないんじゃないか。

でもそれを人は知らない・・・

知らないから、その仕組みを幸福になることに活用できない。

仕組み通りに心は動いているんだけど、それを知らない。

その結果がこの世界だということも知らない・・・

・・と、なった。(考えが)
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心配性

2014-01-27 10:47:58 | ひとの幸福
東京の友達がこのブログを読んでくれていて、

5,6日更新がないと具合が悪いんだろうか、

風邪を引いているんだろうか、と心配してしまう、

最近こういったことが多いとメールをくれた。

そうそう、私もそういったことはよくある。

高校生の頃からよくあった。

憶えているエピソードもあるくらい。

ちょっとした言動、様子に、あ~じゃないか、こ~じゃないか、と

悪いことになるんじゃないかみたいなマイナーな心配をしてしまう。

親しい人、関心のある人に対してそうなる。

そうなってしまう心理のカラクリはある。

心配してもいいことない。それはわかっている。

いいことあるから心配してるわけじゃないから、

心配してもいいことないから心配するな、という論法は

ちょっと見当違いだ。

確かに心配という心持は楽しいもんじゃない。

でも、悪いというわけじゃない。

生きてる人間の当たり前の感情かなと思う

その人のことを思っている、というのがなかったら浮かばない思いだもの。

昨日の毎日新聞の本の広告欄に

「心配事の9割は起こらない」という本が載っていた。

見たら、曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんという人が著者。

「心配事の先取りをせず、いま、ここだけに集中する」

「禅僧にして大学教授、庭園デザイナーとしても

活躍する著者がやさしく教える心の整理術。

生き方をシンプルにするヒント」

・・というコピーもあった。

読んでないけど、この人の伝えたいこともわかるように思う。

このブログでも結構そんなこと考えて書いてきた。


・・・・・そして、今、

心配してもいいじゃないか・・・

こんなふうになってきた。

もちろん、根拠のない心配や不安に駆られることが一瞬もなければ、

ハッピーだし、そうなりたいもんだけれど、

たった今、不安に駆られている自分になってるな、

でも、心配事の9割は起こらないっていうし、

実際自分の経験でもそういう感触はある・・・

これは妄想なんだね・・って、自覚できれば、

(その思いにトラワレないで済むのかな)

わたし、その人のこと好きなだけだし・・・

そういう自分でいいよ、在りのままでいいよ、

・・・みたいなこんな感じになってるのかと思ってる。

いつの時も完璧にそうなってはいないけど、

自覚があれば、心配という心配りだけで終えて、

妄想による行為の暴走をしないで済む。


いま、思いついたけど、

心配心が芽生えたら、

それが実際はどうなるか、どうなったか、よく観察して、

心配通りになったか、ならなかったか、の

データをとる、というのをやってみようかな・・・うん。

9割じゃないかもしれない、もっと上を行くかもしれないよ。

どうだろうねぇ・・・
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新聞記事・・③

2014-01-27 10:24:52 | 本を読んで
何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる、

そういう原始人的な驚きから考えるという精神と、

自分のことが出ている新聞記事なら、嘘と思うのに、

人の事が記事になっているとすぐに信じ込む、

ということと、どう関係があるんだろう???

・・・?が浮かんだ。

何かに率直に驚くというのは例えば、

リンゴが下に落ちるという現象に対して、

何故下に落ちるんだろう???というような驚きのことだろう。

それが例えば書物に「リンゴは下に落ちる」と書かれてあったとする。

リンゴが下に落ちることを何度も見た人がその文章を見て、

当たり前じゃんと思う・・という例と、

その書物の「リンゴは下に落ちる」と書かれてあるのを読んで、

本当だ、どうしてなんだろう????と思うという例とがあると思う。

書物であっても、読んで、考えずに鵜呑みにする人と、

問いを持ってしまう人とがいると思う。


書物を読んで知識を得て、

本を読むことが学問だと思ってしまう人(鵜呑みタイプ)と、

書物を読んで知識を得ても、

それが知恵になるまで考え実行する人との2種類があると思う。

近代人が知識を西洋の書物から得て、

それを習得することが学問だと勘違いしたのは、

近代人の全体的な弱さか、なんていうのもあったけど、

そういうことでもないんじゃないかと思った。

近代になって書物が増えて知識人というものが出来たんだろうけど、

そういう書物・言葉に接してどう在るかは、

時代に関係なく、人それぞれなのかなぁ・・と思った。

どうなんだろう???
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新聞記事・・②

2014-01-26 16:02:52 | 本を読んで
さっき書いた、三木清のこの発言の前には、

彼はこういうことを話している。

・・・何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる、

そういう原始人的な驚きから考えるという精神が

近代の文化人から失われている・・というような話。そのなかで、

上に引用した新聞記事の話を三木清がする。

小林秀雄はそれに対し、どういうところからそういう論を立てるかね、

と聞き、

それに対し三木清は、

西洋から文明が入ってきたがために、

近代日本人は本を読むことが学問だというような観念がぬけきらない。

知識は主として読書から得られるので、

事実にぶつかってそこから出てくるものでなくなっている、

というようなことを言う。

これは近代になって、当時文明の進んだ西洋の書物で知識を得、

行った事もない西洋のことを

西洋の本を読むだけで論じるような傾向が近代になって現れたということで、

近代人の欠陥と言っているみたいだ。

小林秀雄はそういうことになったのは、

「感覚の鈍りだ。はっきりとものを見ないのが根本だ」と言う。

三木清はそれの発言の後、

「その見ているところから、“もの”を考えるということが

実験的精神というものじゃないか」と言い、

小林も「そうなんだよ」と。

・・・引用でした。

この後もいろいろと続くけど・・。


・・記事で自分に関することはたいてい嘘が書いてある、と思うのに、

人の事が出ていると誰でもそれを信じてしまう、という現象が

“近代人”の欠陥の表れなのか・・は疑わしいな、と思った。

近代人に限らないんじゃないかと思った。

江戸時代までは新聞とか書物に一般人は

今より接することがなかったかもしれないけど、

人が発する言葉はあったと思うから。

噂話を鵜呑みにするというようなことはあったと思うから。

どうなんだろう?


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新聞記事・・・

2014-01-26 13:02:37 | 本を読んで
「直観を磨くもの」という小林秀雄の対話集をアマゾンで買ったよ。

超たのしみ。

で、読み始めてる。

最初のは昭和16年にされた三木清とのもの。

その中に、

近代人の弱さというのは、『新聞を読むときに、

自分に関することはたいてい嘘が書いてある、と思うのに、

人の事が出ていると誰でもそれを信じてしまう』、

そういうところに近代人の欠陥がある。

ものにぶつかって究めるということが少ない。

(『』は私が付けました)

というようなことを三木清が言っている。

この新聞を云々部分、そうだなぁと思った。

そういう傾向は本当にあるなぁと思った。

どうしてこういうことが起こるのか???

私はこれに関心が向く。

新聞の記事、これは言葉で、自分の事を読むときは、

他の人は知らない、その行動をした、元の思いを

自分は確実に知っているのに対し、

記者はそれを知らないし、

又、~思った、というその言葉を、記者の受け取りの仕方で、

誤解や曲解されて解釈されたりすることもあるし、

また、「~思いました」と記者に語っても

それが本音ではないことが自分ではわかっていたり・・・

なので、(記事の言葉=事実)ではないとわかるから、

その記事を嘘だと思う。

けれど、他者のことは(記事の言葉=事実)に

なってしまうのはどうしてか????

自分のことは事実を知っているから、

言葉と(在ったこと・事実)を比較できるから、

言葉を見聞きして、事実とは違う、(嘘)と感じるのに、

他者についての記事には事実・在ったことを知らないから、

言葉と事実を比較できない・・から・・か。

言葉しか見えない・・・から、それを信じてしまうのか・・・

見えるもので判断するしかないという、

心理になってしまうんだろうか・??

ということは・・・

見えるものの奥には見えないものが在る、ということを忘れてしまっている・・・

こういうことなんだろうか???



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ほどほどに・・・②

2014-01-25 09:52:46 | 日々の暮らし・思い出
ほどほどに出来ない、という傾向がある・・と夫は私を観ている。

どういうニュアンスなのか夫に聞いてみたらいいんだけど、

夫は言葉が少ない人で、あ~、まぁ、なぁ・・位しか返って来ないのではないか・・

という気もする。でも今度聞いてみよう。

自分でその表現はどういうことか考える。

さっき書いた自制心がない、という解釈もあるけど、

しつこい、というのもあるかもしれない。

うん、私はしつこいところがある。

人にさっぱりしてるとよく言われる。

何に対してしつこいのか、何に対してさっぱりしてるのか、

その対象が違うから、こういうことがあるんだろうな。

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ほどほどに・・

2014-01-25 09:39:20 | 日々の暮らし・思い出
娘が東京に帰って、入れ替わり位に夫の弟が滞在。

なので、4人暮らし。

いつもの3人が囲む静かな食卓と違って、4人だと食事が楽しい。

それにビールも一緒に飲むので、夕飯をついつい食べ過ぎる。

あ、3人でも・・・ビールがなくても・・食べ過ぎる・・か。

ビールがあると比例して食べ物が身体に入る。

昨夜は真珠貝の貝柱を入れた掻き揚げ、畑で採れたてのにんじん揚げ、

隣の浜の傍で採って来た明日葉の天ぷら、

歯応えが好きなレンコンの天ぷら、頂いた牡蠣をフライにしたもの、

そんなんを座わっっちゃあ食べ、立っちゃあ揚げ、して、

揚げたてを食べてるから、美味い美味い。

ぐいぐい飲んでばくばく食べる私。

で、今日は調整で、朝飯はいつも食べないけど、昼飯も抜いた。

食事時の量を減らすということが出来ずに食事自体を抜く。

さっき、夫に「私ってほどほどっていうのが出来ないんだね~」と言ったら、

即座に「そうだね」と。

そんなこと、とっくに知ってたよ・・・

というニュアンス。

ほどほどが出来ない・・という言葉が

自分の傾向を表わすものだと思ったことがなかった。

極端だ・・というのは自覚があったけど。

ほどほどに出来るというのは

自制心があるということなんじゃないか・・・・

食べたくてもこれでやめようという食事中の自制心はないけど、

一食を抜くという自制心はある・・・

食べている最中にこれでやめようという意志が弱いとも言える。

美味しさを感じているのに、その快感を失うのがイヤだという奴か。

食べる機会を持たなければ、

味わうことによって起こる「美味しい」という思いをしないで済む。

食べなけりゃ味わうこともないからね。

食べて「美味しい」と感じることがなければ、

食べ続けるという行為をしないで済む。

なので、一食抜くという選択肢を選んでいるわけなんだろうな。

美味しいと感じるその快感を途中で終わらすより、

一食を抜くという方が今の自分には簡単・・・

ということなんだなと思う。

美味しさを感じることに執着があるってことだね。

ど~んと食べるよりちょびちょび食べる方が身体にいいんだってね、

と義弟がさっき言ってたけど、

身体によくないってことを気にするというのが

それほど私はないし、

本当にその情報が私にとっても正解かどうかわからないよな~

・・・なんて、美味しさに執着のある私は嘯いてる。
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深い海の底で・・

2014-01-24 13:04:12 | ひとの幸福
昨日書いた、ランナーズハイとか、水深の深い海での心理体験とか、

そうなる意識の仕組みを知りたいと思うけど、

ネットで調べてみると・・・

「長時間走り続けると気分が高揚してくる作用「ランナーズハイ」は、

エンドルフィンの分泌によるものとの説がある。

β-エンドルフィンは、μ受容体に作用し、モルヒネ様作用を発揮する。

ストレスなどの侵害刺激により産生されて鎮痛、鎮静に働く。

鎮痛作用はモルヒネの6.5倍の効果。

βエンドルフィンが中脳腹側被蓋野のμ受容体に作動し、

GABAニューロンを抑制することにより、

中脳腹側被蓋野から出ているA10神経の

ドーパミン遊離を促進させ、多幸感をもたらす。」とある。


これは脳で起こっている仕組みのことだろうと思う。

あ~、そうなんですか・・・と言うしかない。

私みたいに度素人ではわからない単語も多いんだけど、

でも、その単語の意味がわかっても、

なんで多幸感をもってしまうのかは納得できない私だ。

何故多幸感が生まれるのか?という問いに対して、

こういう説明は的を得ていないと感じる。

なんで腹が立つのか?なんでキレルのか?という問いに、

それは脳でナンタラフィンがどうたらこうたら・・でと言われても、

返って腹が立ったりして・・・(笑)

何故そういう問いを持つのかといえば、

“そうなる仕組み”を知りたいからだ。

そうなる仕組みを知って、そうならないようになりたいからだ。

それが、こういう脳の働きの仕組みなんぞを聞いて、

なるほど!!!と己に気づいて、

そうならなくなる・・・ならいいんだけど。

物から見るばかりで、肝心の心を見ようとしない、現状があるのかな。

物理的仕組み以前には目に見えない心理的仕組みがあるはず、

と私なんか思ってしまうんだけど。

けれど、意識のそうなる仕組みが頭でわかっても、

こころのことは、

一人一人が自分の心を観ることで、

気づくこと(自分を客観視できるようになること)以外ないのかな。

でも、そうなる心理的仕組みを“頭でわかること”も凄く大事だ。

精神と心は違うものだからね。
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グランブルーへのダイビング

2014-01-23 10:42:00 | テレビを見て
NHKBSプレミアムで「グランブルーへのダイビング」というをさっき見た。

潜水具もつけずに素潜りで100メートルくらい海に潜る。

潜るのと水面に戻ってくるのとで、

8分以上くらい海の中に居る。

水深100メートルという世界で、人の意識はこんなふうになるらしい・・・

そこでの海水は水面よりずっと低温なんだけど、

なんというか、懐かしさ、温かさ、幸福感を感じる・・・

満たされた気分になる・・・

海と調和している感じ・・・

海と一つになる感じ・・・

海と溶け合っている感じ・・・

どこまでが海かどこまでが自分かわからなくなる・・・

大会があって競うのだけど、他者の好成績を共に喜ぶ。

祝福し合う。自分の事のように喜ぶ。

そんなふうに互いを尊重する気持ちになるよう。

深い海で感じる、その思いに共通感があるのだろう。

身体がある一線を超えるとき、

人の意識は変容するようだ。

ランナーズハイというのもそうなんだろうと思う。

不思議な作用だ。

身体は動かさない深い瞑想もそういう心境になるらしい。

私の小学生の時の意識の宇宙?体験も似ている。

意識というものは本当に興味津々だ。

その仕組みもっともっと知りたい。

わからないことが多すぎるのはなんて素敵なことだろう。
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