ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

年末

2013-12-28 15:21:22 | 日々の暮らし・思い出
さっき餅つき器でお供え餅用の餅を搗いた。

去年もそうだったけど、売っているのみたいにこんもりと中央が高くならない。

平べったい。でも、まぁいいや・・・

昨日は久しぶりに昆布巻きを作った。

鰊は手に入らないので鶏むね肉を入れ、ちゃんとかんぴょうで巻いた。

ネットの料理レシピを見て、人気の高い奴のレシピで味付け。

あっさりして美味しいのが出来たよ。

黒豆は買わないと無いので、今年畑でとれたエンジ色の豆で

少し甘い煮豆を作ろうと今、水に浸している。

明後日からイブとアダムとその母親が来るので、

昆布巻きや豆に心が動いたんだ。

伊達巻は作らず買う事にして、蒲鉾も買って、

にんじんサトイモ大根はうちの畑のがあるから、

お煮しめとなますは作る予定。

近所の友人に頂いたもち米と、山形の友人とこのもち米で

今日のを入れると3回も餅を搗いたよ、今年。

義父がお餅を大好きだし、子供たちにも少しだけど送った。

お餅が冷凍庫に在るとなんだか嬉しい。

小学生の頃、正月用のお餅は近所のお米屋さんで搗いてもらって、

今頃になると紺色の長い前掛けをしたおじさんが

大きな四角い餅を玄関先によいしょと置いて行った。

それを見ると嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

お正月が来る♪♪♪らんらんらん・・・

そんな感じ。一年で一番わくわくする日々だったかもしれない。

毎年、母は紅白歌合戦を見ながら、

白いんげん豆の甘い煮豆を練炭で煮てくれた。

祖母の代からお正月料理だったよう。

うちは畑のないサラリーマンだったから、豆も買ったものだったろう。

甘い煮豆はお正月だけのご馳走だった。

いつも食べてないから本当に楽しみだった。

やっぱりご馳走はたまにでいいんだなぁ。

いつもだったらご馳走でなくなる。

そうそうその頃は町内でどこの家も暮れになると、

家中の畳を庭や道路の広いところに出し、への字型にして干し、

パンパンはたいたものだ。よ~うく憶えている。

そんな光景も、あぁ、もうじきお正月が来る♪という前奏曲だった。

こんなことを書いていると自分がすごくお婆さんになったみたいだ。

そうだ、祖母が事故で突然亡くなったのは中1のこんな年末だった。

その祖母の年をもうじき超える。

脊髄カリエスというのをしたから背中は曲がり、

如何にもおばあちゃんだった。

あ~・・・あの、年寄りだった、おばあちゃんの年を超えるのか~!
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好きなふうに、自由自在に、

2013-12-28 14:11:47 | 本を読んで
昨日のこれ・・・

「好きなふうに自分の内に湧いてくる衝動を何の制限もなく処理できる。

閃光のような怒り、溢れるような感情、卑しい思惑、

その場の虚栄心を鋭い鋏で刈り込むことができる。

誰にも邪魔されず、まったく自由自在に。」


自分の内に湧いてくる衝動を何の制限もなく処理できる・・・

・・誰にも邪魔されず、まったく自由自在に・・・

ニーチェ自身が常にそれが出来たかどうかは別のことで、

そういうふうに人間はなっている、ということだろう。

そういうふうに出来るように人間は創られている、ということ。

そういうことが出来る機能は備えられている、ということ。

けれど、機能はあるのに、その機能を使いこなせていない。

それが出来るようになるのは本当に本当に難しい。

パソコンや携帯を自由自在に使いこなせないのと原理は一緒か・・

機能はあるのに使えない・・

何故か???

そういう機能が在ることを知らない、というのもあるし、

知っていてもそれを操作できない、というのもある。

何故操作できないのか・・?

なんとしても操作できるようになりたいという情熱がない、

いろんな機能があるらしいけど、使わなくてもいいや、という諦めがある。

その機能を使えたらどんな快適さ、幸福が待っているか、

知らないから、無欲なんだ。

快適さを知ったらやる気が出るか・・・

どのようにしてそれを知ることが出来るのか・・???

快適さや幸福はやってみることで感じるもので、

やらなければその快適さを感じることはできない。

絵に描いた餅は食べられないのと同じで。

操作がやれないから、快適さを知ることが出来ず、

快適さを知らないから操作をやる気が出ない。

う~ん、悪循環だ。どうしよう・・・・・


キッカケは情熱、好奇心、かなぁ・・やっぱり。


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再現性

2013-12-27 15:10:52 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞「中村克樹のDo you 脳?」欄。

大きな見出しが」医学生物学こそ『再現性』重視」と。

再現性というのは実験して出た結果が安定してること、らしい。

「この再現性こそ科学的考え方の基本になるのです。・・・

ところが、そういう科学研究の信頼を揺るがす事態が起こっています」とある。

最近英国のネイチャー誌に『生物学は科学か?』という記事が載っていて、

それは物理学や化学のように信頼できる学問ではないのではないか、

という内容。

ネイチャーには『医学生物学の論文の70%以上が再現できない!』

という記事もあった、という。

あるドイツの製薬会社の内部調査では、

行なわれた研究の3分の2で結果の確認ができなかった、という。

アメリカの製薬会社でも

論文53本中89%の内容が再現できなかったと報告したという。

アメリカのがんセンターでのアンケートでは、

発表論文のデータを再現しようとして

失敗した経験のある研究者は半分を超えたそう。

最後の方で、中村さんは

細胞という未知なものは完璧な再現実験はできないと言って後、

生命に直接関係する研究をしている医学生物学の世界こそ、

再現性を重視する真摯な態度が大切だと感じています、と言っている。

それもとても大切なことと思うけれど、

細胞や意識の状態の再現性というのは本当に難しい。


再現性こそ科学的な考え方の基本といえるのは、

物理学で云えば古典論で、

量子力学が登場して古典論がひっくり返ったんだと思うけど、

前のほうを読むと物理学は再現性が高いとしてる。

それはマクロレベルのことに限るんじゃないかな。

人間の細胞や意識はマクロじゃなくてミクロレベルのことだから、

量子力学の観測者効果、動的平衡という生命の姿、

とつなぎ合わせて考える方が確かなんじゃないか・・・

薬なんかはプラシーボ効果ノーシーボ効果はかなりなもんだろうと思う。

プラシーボ効果というとすぐに小麦粉を丸めたもので

実験云々というのがあるけど、

ちゃんと薬の成分が入っている薬でも、

その日の気分で、こんな薬飲んでもなぁ・・

とマイナーな気分で飲むこともあるだろうし、

じゃあといって、治ると思って飲んでくださいと言われても、

はい、そうします、にはならない場合も多いと思う。

体調も日々瞬間瞬間、違う。

そんなふうに再現性が高くないのも当たり前という気もするし、

多くの薬を飲む人も多いらしいので、

薬と薬と薬と身体の細胞とがその時々でなんらかの相互作用をすることも

多いんじゃないかと素人ながら思う。

再現性が高くない、そのこと自体を

もっと研究している人も居るんだろうけど・・・












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安倍さんのしたこと・しなかったこと

2013-12-27 12:20:41 | 新聞を読んで
安倍首相が靖国参拝したことで新聞が賑わっている。

安倍さんは何をして、何をしなかったのか・・・考える・・

靖国参拝をすることは彼の自由だ。

それを行為する自由を選んだ。

それを行為しない自由を選ばなかった。

彼がしたいことをしたこと自体は悪いことじゃない。

したくてした、ただそれだけのことかと思う。

彼が自分で望んでいたことがその行為、行動では得られなかった、

という意味では悪いことだったのかもしれない。

不戦の誓いをした、とあった。

平和を祈願して平和でなくなった、といえるのかもしれない。

どうしても参拝をしたかった・・・んだろう。

何故彼はそんなに靖国参拝にこだわったのか、考えると・・

亡くなった人に祈りをささげるのが何故悪いのかという正しさを

どうしても主張したかった・・・というものなのか・・

もしそうなら、

自分の気持ちや考えをわかってもらう前にすることがあったのかと思う。

相手である中国や韓国はまだ傷ついたままで居る。

傷が十分に癒されていない。何故なら、

自分たちを傷つけた日本からの誠意を十分に感じられずにいるから。

いや、こちらは反省し、賠償もし、不戦の誓いをし、

やることはやっている、と思っているとしても、

伝わらないものは伝わらない。


真実の思いは必ず伝わるものだ。

人と人とが顔と顔を付き合わせ、心から真実の思いを吐露するとき、

それは必ず必ず伝わる。

今回の行動は傷口に塩をなすりつけるようなものだったのかと思う。

相手の気持ちを十二分に聴かないうちに、

自分の気持ちや考えを主張しても、相手の心には届かない。


「赦すことを知らない人を私は憎み嫌う」とニーチェが書いたようだけど、

赦すことを知らないうちは赦せない。

赦せないのは深い深い傷がまだ癒えてないから。

傷が癒えるのは傷をつけた相手が自分と共に泣いてくれること、

相手が自分と一つになってくれる、ことだ。


中国や韓国が日本を赦せないのは、

一つになる、その思いに日本人の多くがまだ至ってないから・・・と思う。
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「自分のための庭師」

2013-12-27 11:25:02 | 本を読んで
「庭師は木々や垣根を刈り込む。

余計な葉を落とし、全体に日の光が当たるようにしながら好みの形に整える。

多すぎる新芽を摘み、生かす芽だけを残しておく。

そのように丹念に手入れをしたお蔭で木々は健康で立派に育ち、

花を咲かせ、秋には美しく豊かな実をつける。

わたしたちもそんな庭師のように、

好きなふうに自分の内に湧いてくる衝動を何の制限もなく処理できる。

閃光のような怒り、溢れるような感情、卑しい思惑、

その場の虚栄心を鋭い鋏で刈り込むことができる。

誰にも邪魔されず、まったく自由自在に。」

・・・ニーチェ『曙光』より。

そうだなぁと思う。

庭師はこういう庭にしたいという意志がある。

それがなかったらそうならない。

私たちもこういう人になりたいという意志があるか無いかで違う。

意志があってもそれをどうしたら実現出来るのか。

方法を知らないと出来ない。



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「私が憎む人」

2013-12-26 21:23:57 | 本を読んで
相手を赦すことを知らない人たちを、私は憎み嫌う。

・・・これ、なんとニーチェの言葉(『生成の無垢』)

本気なのかしら!??と思った。

いや、私のことならそうか、だけだけど、

ニーチェと在ろうものが・・と思ってしまったんだよ。

赦すことを知らない人のことをニーチェは赦せなかった・・・

のかなぁ。

それとも、憎み嫌っても、赦していたということなのかな。

赦すというのは憎み嫌っていたら出来ないんじゃないのかな・・

それとも、赦すことを知らない人を赦せない自分を憎み嫌っていたのか???
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天皇の立場

2013-12-23 16:49:21 | 新聞を読んで
今日は天皇誕生日。

新聞に「天皇の立場 孤独とも思える」という言葉が見出しで出ていた。

彼がそう語ったそう。

本当にそうなんだろうなぁと思う。

痛々しい感じする。

天皇という立場は彼一人しかこの世に居ない。

部長とか課長とか社長、平社員、母親、父親、子供、といろんな立場がこの世にある。

どれも立場としては同じ立場の人は多い。

そりゃ人それぞれだけど、立場ということから考えると、

同じ立場の人はたくさん居る。

で、共感し合えることはこの世で多い。

それに比べ、天皇という立場はたった一人だ。

前の天皇が居たとき、彼は天皇ではなかったしね。

それに不自由な立場だ。勝手にものが言えない。

言う自由はあるけど、そのような機能は持っているのに、

使わずじまいだ。

自分のいろんな経験でその機能を使わなくなった、というんじゃなくて、

天皇になった時から、『立場上そうなっています』。

それを自分の意志で受け容れて来たのだと思う。

ある種のことは言わないということを、

常に自覚している暮らしというのは

とても自省的になるのかもしれない。
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真央ちゃんストレス

2013-12-23 16:29:02 | テレビを見て
昨夜テレビで浅田真央ちゃんのスケートしてるところを見た。

久しぶりで見た。

彼女の前に安藤美姫が滑った。

見るときの心境がどうしても違う。

真央ちゃんだとはらはらして安心して見られない。

安藤美姫だと平気で見られる。

真央ちゃんの方に関心がある。会った事もないのに

「真央ちゃん」なんて呼んでる。

片や「安藤美姫」と呼び捨てである。

安藤美姫が最後まできれいに滑れて、

よかったなぁと思ったけど、

滑っている最中は転ばないようになんて思いが湧かなかった。

転んだらいいなんて勿論思わなかったけど。

なので、冷静に見られた。ストレスなし。

それに比べ、真央ちゃんのを見てるときは多分

心拍数なんかが多かったんじゃないだろうか。

ストレスかかってる・・という感じ。

(転ばないように)なんて思いを持つのは

無意味だとわかるけど、思ってしまう。

真央ちゃんに対してそういう私が出て来ることがわかっているから、

ライブの番組は見ないようにしてる。

はらはらするの好きじゃない。

ストレス感じるとわかってるから見ないことにしてるのに、

昨日はチャンネルを変えたらやっていたのでついつい見てしまった。

私がテレビを見てはらはらしようが安心しようが、

真央ちゃんに何の影響も与えないからいいんだけど。

次のオリンピックを最後に真央ちゃんは選手を引退するらしい。

勝負のないスケートが出来ることになるのは本当によかったと

心から思ってる。

彼女もそう思うだろうと思うけど、

それも散々勝負して来てこそ生まれる思いだろうね。
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自由・不自由 ③

2013-12-19 11:25:20 | ひとの幸福
何かを表現したいとなったとき、

それが出来ないとなるのは、そうしたら身が危なくなる、

というような状況とか、

お金をそっちの筋からたくさん得ているので、

お金が得られなくなるのはまずい、

というような判断なんかがあるため、

なんていうのもあるかもしれない。

それは(出来ない)というより、

(したいとは思わなく“なる”)ということ。

(したいとは思わなくなる)ということが「いけない」と云ってるんじゃないよ。

したくなくなる・・ということはある。

身の安全を保とうとする、家族の安全を保とうとする、

みんな当然のことだと思うんだけど、

そんなことではいけない!と頑張る闘争をしたり、

表現の自由を奪うなと叫んだり、

抵抗運動をしたり、

お金云々で動く自分や他を責めたりすることを選ぶことがある。

それはそうする相手や自分を「いけない、ダメだ」と観ることから始まる。

否定された存在は否定される度に大きくなる。

観測者効果で局所化する。

あ~あぁ・・・大変だ。

えーっと、自由・不自由の話をしてるんだった・・・よね・・・

こんなふうに大変になってしまって、

双方共に不自由になってしまうのは、

自他の自由意志という存在を軽んじていることから始まる。

そういうことかな・・・・と思った。
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自由・不自由 ②

2013-12-19 10:11:09 | ひとの幸福
何かの行為や行動をすることもしないことも出来る。

たった今、いきなり大声を出すことも出来るし、出さないことも出来る。

どっちも出来るように“なっている”

自由。

何かを表現する自由もあるし、

表現しない自由もある、

どっちも出来るようになっている。

どんなことでも表現する自由はある。

そうすることもしないことも出来る。表現はもちろん、

ひとを故意に傷つけることも出来るし、

故意に傷つけないこともできる。

ひとに優しくすることも出来るし、

ひとに優しくしないことも出来る。

部屋を美しくすることも出来るし、

汚くすることも出来る。

私たちは存在自体が自由なんじゃないかな。

一瞬一瞬が自由。


何かをするという行為行動の前には、

そうしたいという意志がなければそうならない。

する・しない行為の前には意識的な意志か、

無意識的な意志かはあるだろうけど、意志がある。

私たちは自由意志を生まれながらにもっている。

それは他によってなくなったりするものじゃない。

勿論自分によってもなくすことはできない。

その存在自体が状況によって在ったり無かったりするような、

そんなもんじゃない。

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自由・不自由

2013-12-18 19:08:58 | ひとの幸福
表現の自由、報道の自由、とよく聞く。

この自由は表現が出来ることが(自由)であり、

表現できないのは(不自由)だ、という主張かと思う。

何かをしたいのに出来ない・・というのは不自由である、と云ってるわけだ。

自分が何かをするのを邪魔されることは不自由である、と云うことか。

それは言い方を変えれば、

自分の自由不自由は他によって決まるものである、

と自分で決めている、ということか。

そんなふうな不自由な、ちゃちな、ものが人間の自由なのか・・

・・と思う。

そんなもんじゃないだろう・・と思う。
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日記

2013-12-16 14:38:45 | 日々の暮らし・思い出
3年連用日記というのを2011年からつけ始め、それがもうじき終わる。

12月だから当たり前か・・いや、よく続いたなと感心してるわけだ。

それでこの前本屋さんで来年からのを買おうと立ち止まった・・・

さて、3年のにするか、5年のもあるぞ、10年のもあるぞ・・・

そして、な、なんと10年連用日記を買ったのであった。

なんでそんなものを買ったのか!?

3年のをつけてみて、

去年、一昨年と同じ時期のことを読むのが面白かったからだ。

それに役に立つ。

ジャガイモを植えつけたのはいつか、

さやえんどうの収穫をしたのはいつ頃か、

夏みかんの剪定したのはいつのことか、

みかんを頼んだのはいつのことか、

お餅を搗いたのはいつで、どれだけ搗いたのか、

あの人がここへ来たのはいつのことか、

あそこへ行ったのはいつのことか、

あの宅配便をいつ送ったのか、

刺し子のテーブル掛けのようなのはいつ始めて、いつ終えたのか、

どんな手芸をいつ頃してたのか、

こんな事件があったとか、

・・こんなふうな記録が在ると、

重宝することがあるんだ。

在ったこと、起こったこと、したことを主に書く。

あー思ったとか、こう思った、とかはほとんど書かない。

10年ものにしたのはどうしてか・・?

これからの10年に興味があるから・・かなぁ。

なんの10年か?わたしの10年でもあり、

世の中の10年でもある。

どんな世の中になるのか見たいからと言って、

塩月弥栄子さんは120才くらいまで生きたい、というふうに書いていたけど、

私も自分が長生きすることをしたい、というんじゃなくて、

移り変わっていく世の中を観てみたい、というのはある。
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大声で泣くアダム

2013-12-16 09:46:30 | ひとの幸福
娘から電話があり、1才2ヶ月になったアダムの泣き声を聞かせてくれた。

泣き声の前に「これから泣くよ」という案内もあった。

泣くことが娘にはわかっていたということだ。

どうしたのか聞いてみたら、ご飯を結構たくさん食べた後に、

みかんも結構食べ、もっと欲しいと身振りで訴えるので、

「もうお終い」と言ってみかんをしまったのだそうだ。

そうしたら大泣きという展開に。

この大きな泣き声に娘は全然応えてない。

へいっちゃらで居る。

私と電話で笑いながら話している。


ところが、相応しくない場で、イブが何かをしたい!と

言葉で言って来た時には、

こんなふうに悠然と対応できない・・というようなことを言った。


言葉で訴えられると(言葉で対応しなくちゃ)になるんだろうか・・・

言葉で訴えようと泣き声で訴えようと、そうしたいという意志は同じなのに、

言葉で訴えられると、それに対し、

(言葉で相手を納得させよう)と・・なる・・のか・・・

泣くことで訴えられても、

(納得させよう)という、相手を支配する気持ちにならないのは、

1才のアダムには言葉で言ってもわからない、とわかっているからなのか・・・

・・ということは、

4才になったイブには、(言葉で言えばわかる)と無意識のうちになっている・・・

ということだ。

それまでイブに対して言葉で納得させようとして来た、

・・で、うまいこといってない。

それがストレスになっているのは事実のようだ。

こういう場合、イブが(それは今は出来ない)とわかるようになることが、

親の望む事であり、イブにとってもそれは相応しいことだ。

言葉で「いけません」と言われると、

イブも言葉で対応したく“なる”・・んじゃないか。

親が言葉で納得させようとなるから、

言葉で親を“納得させたいとなる”・・んじゃないか。


伝える為に一度だけ言葉を発し、後は行動を示すだけで居ると、

子は“言葉で納得させよう”という思いが出て来なく“なる”・・んじゃないか。

目の前に居る人は自分の心を映す鏡という一例だ。

『目には目を』という言葉が今、浮かんだ。

ユダヤ教の『目には目を』という言葉を復讐心みたいに、

勝手に思っていたけど、

そういうことじゃないのだと思った。

言葉には言葉を・・に“なる”ということを云っているのかと思った。

在りのままを受容すると相手は自分の力で元に戻るように“なる”

『幸せなら態度で示そうよ』という言葉も浮かんできたけど、

子は親がそうしている、その行為行動で、

親の意志を感じざるを得ないようになる。

1才のアダムは思いっきり泣くと後はけろっとしてるそう。

そうだろうな。泣くことをダメと言われず、

ダメと態度にも示されず、

ただ、あ、そうなのね~という態度で示されると、

1才はわかる。

多分1才でなくてもわかる。
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人生がときめく片付けの魔法・断捨離

2013-12-14 15:14:28 | テレビを見て
昨夜BSで「断捨離」を書いたやましたひでこさんと

「人生がときめく片付けの魔法」の近藤麻理恵さんが出ていた番組をやっていた。

その中で、やましたさんが家の台所の引き出しを開けた。

その中には箸置きとレンゲのようなものと茶漉しなどが

間を十分空けて置いてあった。

重なっているものはない。

そこで、彼女はこう言った。

「こうしようじゃなくて、こうなっちゃったんですよね」

・・・なるほどと思ったのはこの言葉。

これは使わないな、これはあれと兼用できるな、とか

日ごろの台所での自分の動きを“観察する”ことで、

日常使うものだけ置いたらこうなった・・・という具合だと思う。

最初からここにこれだけを置こうと考えて置いたわけじゃない。

彼女も以前はいろいろごちゃごちゃと

いつの間にか置いていたのだろう。

私も同じような経験がある。

やましたひでこさんの片付けのポイントは『要るか、要らないか』で、

近藤さんのは『ときめくか、ときめかないか』だ。

二人とも、使いたいかとか、見ていたいかとか、

とっておきたいかとか、着たいかとか、

所謂wantで決める。

もったいないか・高かったか・ひとにもらったか・

まだ使えるか・・・というポイントで決めるわけじゃない。

当たり前といえば当たり前だ。

ひとはwantで生きているんだもんね。
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ごめんなさい

2013-12-14 10:25:54 | 実例体験観察
この前友人から迷惑を蒙ったというメールが来た。

頼み事をしたんだけど、

それがかなり手間がかかったということだった。

こういうふうにお願いしますと言ったその依頼の内容が

最初と違ってしまってそれが友人にとって、

やることが増えて、大変だったということだった。

謝りながら、ついついそうなった自分側の経過なんかを説明してしまった。

こういうことをした自分で、・・・思った。

「弁解するな!」ということは世の中で言われる。

なんで「弁解するな!」ということが言われるのか、

初めてわかった気がした。

遅い!と言われるかな・・

大変だった、迷惑した、という思いを、

理屈詰めで、打ち消そうとする作用が働いているからなのだと。

相手を自分の都合で納得“させたい”という思いが

相手に不快感を与えるんだ。

迷惑を受けたと友人が言ったその事柄より、

迷惑を受けたという“思いをそのまま聴けなかった”ことを謝りたい。

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