ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

待つ

2012-09-28 13:06:41 | ひとの幸福
ひとと会う約束をして、それが相手の都合で変わったり、

無くなったりすることがある。

ガッカリする。

会うことを楽しみにしている場合にそうなる。

もし、気が向かない相手で仕事上で会う約束なら、

それが無くなれば嬉しく思う。

そう、その約束を待ってないので。

待つ、というのはだいたい楽しみを待っている。

イヤなこと、苦しいことは待たない。

約束がなくなってガッカリするのは期待してたから。

ガッカリするのがイヤなら、期待しなきゃいいんだ、とわかっても期待してしまう。

その人と会いたいから。会うことが楽しみだから。

「期待」も「待つ」も、当てにするという心があるもの。

人と会う、ということが実現されるのは、

相手と自分と両方が居ることが必要。

そりゃ、そうだ。

相手と共にそれはつくるもの。なので当然当てにする。

相手無しでは出来ないことなので、当然当てにする。


何度も会う約束を破られたことで、頭に来るのは、

その人と会いたくてたまらなかったから。

共にやれなかったから。

・・・そうなのかな。


「な」

2012-09-28 09:16:31 | 言葉
わたしってこう“な”の。

あー、これはこう“なっている”のか。

“な”んで?

そうでは“な”いかと思います。

はい、そう“なり”ます。

秋に“な”ったね。

そう“な”んじゃないかな~。

本当に『な』は凄い。あんたは偉い!

「成り合う」を広辞苑で調べたら、

①ととのった姿になる。完成する。成熟する。

②いっしょになる。一つになる。なれあう。

馴れ初め(なれそめ)なんていう言葉も日本語にあるのがいいね。

恋愛関係に入った最初。だそう。

なんで?という問いを持つこと

2012-09-28 09:00:13 | ひとの幸福
ナンタラ器官がナンタラして、こういう症状が出ている・・

というようなことを昨日書いた。

何で風邪をひいたのか?というのは、

風邪をひくように“なったプロセス”を知りたいということだと思うんだけど、

なんでこんなに身体が不調なのか?というのは、

身体が“どうなっている”のかを知りたい、ということか・・

そうなった成り行き、そうなった経過を知りたい、というのと

今現在、身体がどういう事実なのかを知りたい、

という違いがあるのかな。

病名やナンタラ器官が不調なことをわかっても、

なんでこんなふうになっちゃったのか?という???は出て来るだろう。

食生活がいい加減だった、酒を飲みすぎた、

タバコをたくさん吸っていた、ストレスが多かった・・・・

いろいろと言われている。様々な要因が全部一致したところで発症するのかと思う。

そのうちのどれか一つでもなかったら、

それほどの大病にはならなかった、という場合もあるのだろうと思う。

けど、子供がかかる白血病なんかは何故そうなったのか、

今のところ、まるでわからないんじゃないのかな。

突然発症する小児ガンとかいろいろな難病も。

親は理不尽と感じるだろうし、そう感じるのは当たり前と思う。

理不尽と感じること自体、

なんで?と思う、そういう問いを持つこと自体が、

身体がそうなったのは何らかの理、わけがあると

無意識のうちにひとはわかっているということ。

目の前にある料理が何故そこに在るか、

わかっている時には(自分が作ってそこに置いたとか)

ひとは「なんで?」なんて問いは発さない。

それを見て「なんで?」と発するのは、

自分が知らないうちに誰かがそこへ置いたとか、

誰かがそこでそれを作ったとか、

何かしらわけがあるとわかっているから、なんで?を発する。

なんのわけもない、となっていたら、なんで?は発せられない。

わけもなく、料理が置いてある事も世の中にはあるもんだ、なんて、

意識がなっているなら、なんで?は発せられない。

在るものは全て成り行きがあって、そこにそうして在ると、

ひとは皆わかっている。

でも、わかっていることをわかってない。

諦める

2012-09-27 17:48:05 | ひとの幸福
諦めるなんてダメだよ・・・か?

今の時代、『諦めない』が流行っている。

私はアンチエイジングは諦めてる。

美人じゃないのはトウの昔から諦めている。

足が太いのも諦めている。

何の副作用も無いという保証付きの薬で、それを一粒飲んだら、

足がきゅっと引き締まる、なんてのがあったら買うかもしれない。

でも何百万円もしたら、買わないなぁ。

3万円くらいなら買うかもしれない(^^)

でも効果があるのは1年ですなんていったら買わない。

美人顔になる薬があれば10万円でも買うかもしれないな。

けど、みんなが買ったらみんな美人になるから、

どうってことなくなる・・・

えーっと何を考えようとしたんだっけ???

そう、諦めていることは多い。

諦めると楽だ。諦めきれないでグズグズしてるより、

見切りをつけるとすっきりする。

そういうことはある。

諦めるというのは事実を知ること、とも言えるな。

決して変わらない事実に限るのか・・?

私の太い足や美人じゃない顔みたいに。

正解・不正解

2012-09-27 17:17:44 | ひとの幸福
迷うのは正解を探しているから。そう今朝書いた。

その時離婚するのがいいか、しないのがいいか、

どっちが正解なんてその時点でわかるのか・・・??

離婚という言葉は一つだけど、それぞれの離婚はそれぞれの味がある。

ひとつひとつ全部違う。

その離婚が正解か不正解か、わかるのは死ぬ時なんだろうか?

それともわかることなんてないんだろうか?

わかる人もあればわからないまま終わる人もあるのか。

そんなこと考えない人の方が多いのか。

そもそも正解なんて無い・・・のかもしれない。

正解だったのか?という問いがもしあるとして、そう問われたら、

私の離婚は正解だった、と今は思う。

その選択が正解だったか、不正解だったかは、

その後の人生の送り方で決まるんじゃないかと思う。

これより後の人生でまた違う展開になる可能性も無いわけじゃないことはわかる。

けれど、今までして来たどんな事も、

してきてよかったと思えるのがいいなぁと思う。

今までいろんなこと間違ったし、本当に反省することばかりだけど、

そのどれもを、して来てよかった、と今、思っている。



不調

2012-09-27 09:02:41 | ひとの幸福
高校生の私が自分の暗さを、あー、私は今こうなんだ、と受け入れられた時に、

一気に楽になった。

そのことはさっき書いた。

それともうひとつ、暗いのは良くない、という判断が当時の自分に無かった。

当時、後ろ向きの思考をしていたのかもしれない。

そうそう急に劣等感を持ったせいかもしれない。

でも、暗い自分で居ることが苦痛ではなかった。

誰からもそんなんじゃいけないよ、って言われなかったし。

楽しくってたまらなかったわけじゃないけど、

いま、そうなんだもん。しょうがないよ・・・

そういう自分だった。


病名がわかって、身体が不調な肉体的なわけがわかって安心できる。

その後で悩むとしたら・・・何を悩むんだろうか・・?

治るんだろうか?こんな病気になって生活はどうなるんだろうか?

お金はどのくらいかかるんだろうか・・

会社を首にならないだろうか・・

治らなかったどうしよう・・


そうなったとしても、しょうがないよ、っていうのが無いからかな。

それは覚悟なのか・・な・・


「なんでこんなに身体が不調なのか???」

2012-09-27 08:49:36 | ひとの幸福
娘と話していると、いろいろなことが思い出される。

1年くらい前、お母さんは~こんなことを言った・・とか。

「どうして風邪をひいたんだろう、あーしたからじゃないか?こーしたからじゃないか?・・」

って、娘が言ってた時に、

そんなふうな原因探しをしていたってしょうがないよ、

いろんな要因が一緒になってそうなっているんだから・・・なんて、

説明ばかりしていた。解説ばかりしていた。

そういう自分だった。


私は高校生になってから急に暗くなった。

クラスで一番笑わない人になった。

以前に書いたことがあると思うけど、中学までは本当に明るく元気な子供だった。

その時、悩んだ。なんでこんなふうになっちゃったんだろう???

或るとき、こんな思いが自分にやって来た。

(母は明るくて開放的な人で、父は言葉数も少なく、

何を考えているのか、わけがわからない暗い人。

中学までの自分は母の気質が出ていて、今は父の気質が出ているんだ!)

って。暗い自分になったそのわけがわかったと思い込んで、

凄くすっきりした。

今、思うと、そういうわけで自分が暗くなった、とは思えないんだけど、

その当時はそういうわけでそうなったんだ、と凄く納得した。

納得って、そういうわけでそうなったのか、とガッテンすること。

その“わけ”が事実と違っていたって、一向に関係ない。

だって、当時の私はそれで全然悩まなくなったのだから。

在るがままの私(暗い私)をそのまま受け入れることが出来た。

こうなってるのも当たり前なんだ。どうしようもなくこうなんだから。

こういう私でいい。その納得がどんなに私を楽にしたろう。

その納得が間違った納得だとしても、

「それでこうなったのか」という意識の動き(ガッテン!!)で、ひとは楽になる。


身体の不調で何処の病院へ行っても原因がわからず、病名がつかないと、

人は落ち着かない気持ちになるのも、同じことなんじゃないのか・・・

こうなったわけがわからない、納得出来ない、なんでこうなのか・・??

そのガッテンが無いと人は悩んだり、苦しんだりする。

何十軒目かの病院で、医師からやっと、あなたはこういう病名で、

ナンタラ器官がナンタラしてこういう症状が出ているのですよ、

なんて言われると、そうだったのか!と納得する。

そういうわけが在ったのか!というガッテン。

ナンタラ器官がナンタラして・・というような説明は理解できなくても、

関係ない。

とにかく何らかのわけがあって、自分は今、こうなっているのだとガッテンできると、

ひとは安心できるものなのかと思う。

私が高校生の時悩んで、その悩みがなくなったのと同じ意識の働きかと思う。

在るものが在るのは何らかのわけ・プロセスが在ると納得できた時、

ひとは深く納得する。あー、在る。在った。

そういう“成り行き”で在るのかぁ!という深い納得がそこにある。




迷い

2012-09-26 16:41:21 | ひとの幸福
さっき書いて、気が付いた。

迷い は正しさを求めているときに出て来るということ。

どっちがいいか?ということはどっちが悪いか、だ。

自分の気持ちがどうなのか、は後回し。

ラーメンにするか、ソーメンにするか、聴くのは自分の気持、自分の腹にだ。

それを迷うのは?・・頭で迷う・・?



 

昔のわたし

2012-09-26 16:30:44 | 日々の暮らし・思い出
娘と話していると、昔の私がいろいろと出て来る。

すっかり忘却の彼方に行っているものが飛び出してくる。

あの時、お母さん、こんなだったよ、

あの頃、お母さん、こんなだったよ。

今の娘とそうたいして変わらない若かった私。

でも、こんなだったよ、ということは今の自分とは違う、ということでもある。

うろうろ迷って、躓いて、こけて、ご面倒を掛けました。

これからもあるかもしれないけど、よろしくお願いします、という感じ。

今朝の毎日新聞の書籍広告欄にお母さんを選んで生まれてきた・・とかいう本が載っていた。

他の本でそういった内容の本を読んだことがある。

小児科のドクターが編集した本だったと思う。

小さな子が話す言葉を書き溜めたもの、だった。

真偽はわからないけど、そうなのかもしれないなぁ、と思う。

親が成長するために子供はやって来てくれる・・

自分の経験ではそう思う。

そして自分は今は寝たきりの母を選んで生まれて来たんだろうか・・

あの母でよかった、と思う。私の選択?は間違ってなかった。そう思う。

でも、母が成長したか、それは母に聞かないとわからないなぁ。

無い答え

2012-09-26 16:03:42 | 日々の暮らし・思い出
東京の娘が遊びに来ている。

昨夜は二人でずーっと話していた。

娘も結婚して7年になる。いろいろと夫婦の話しも出てきた。

いろいろなことがあったけど、今、娘夫婦は仲がいい。

娘がこんなことを言った。

今、自分が急に夫の前から姿を消したら、

夫がどんなに悲しむか、喪失感があるか、どうなるかと思って涙が出て来る、って。

本当に涙っぽくなった。

いや、実際、彼がどうなるかはわからないけどね・・・とも言ったけど。

その話しを聞いた時、はっと思った。

前の夫と離婚が成立する前に、そんなふうな思いになったことが一度もなかったことに初めて気が付いた。

なかなか離婚の決心が付かなかったんだけど、

娘のような思いが浮かんだことは一瞬も無かった。

離婚するということはいけないんじゃないか・・

~すべきなんじゃないか・・そんなことばかりが脳裏をよぎった。

彼が悲しむか、どうなるか、なんてこと浮かびもしなかった。

私は自分がどう“したらいいのか”どういう行動をとるべきなのか、

・・・そういったことばかりに気が行っていた。

そう・・・正しい答えはなんなのか、そればかりを探していた。

自分さえ正しかったらいい・・そんなふうだったんだ。

そう意識していたということじゃない。そう“なっていた”。

無い答えを探して、ずーっと迷っていた。



神さまのご褒美

2012-09-26 15:59:31 | テレビを見て
今朝の「梅ちゃん先生」で、梅ちゃん先生がこんなことを言っていた。

『神さまのご褒美』という言葉。

「生きていればきっといいことがある、

きっといつか神さまがご褒美をくれる」・・・

・・戦後すぐの頃、戦災孤児のヒロシに梅子は言ったのだった。

ヒロシ青年はその言葉で頑張って来た。

「でも、神さまは何もご褒美をくれない。だから、もっともっと頑張らないといけないんです。」

・・そう青年は言う。自暴自棄みたいになってる。

梅子は、もういい、もういいのよ、頑張って来た。立派だった。言いっ放しでごめんなさい、と言って涙をこぼす。

「他に何をしたらいいか思いつかなくて・・・

お母さんのおはぎ美味しいのよ・・・

こんなご褒美じゃダメかな。」梅子は母親に来てもらっておはぎを作ってもらっていた。

それをヒロシ青年と食べる。

こういう梅子の言葉の奥に在るもの、を感じたんだろうと思う、わたし。

涙が勝手に出て来た。

自暴自棄になっていたヒロシに向かってその言葉を発したのは、

梅子に在る愛が表現を求めて、「神さまのご褒美」という言葉になって出て来たんだろうし、

今日も梅子に在る愛が表現を求めて、

「他に何をしたらいいか、思いつかなくて・・・おはぎ・・・」

という言葉になって出て来た、そんなふうに思った。


それにしても、神さまのご褒美ってなんなんだろう?

いわゆる神、GODはご褒美をくれない。そう思う。

お前はこうしたから、これを褒美にやる、こうしなかったら罰をやる、

そんなことはGODは出来ない。


愛が表現される時、そういう表現の一つとして暴力的な言葉遣いというのもある。

馬鹿野郎!や、アホ!という言葉が愛の表現の場合もこの世にはある。

昔、兄に「何やってんだ!」という非難、怒りの言葉を浴びた事があるけど、

その言葉をその時、発さなくちゃならなかった兄に、私に対する愛を感じて、

すごく嬉しく思ったことがある。

愛を表現する時、愛を表現されたと受け取った時、愛の表現を見たと受け取った時、

その意識、心がご褒美そのものなんじゃないのか・・

大文字の“GOD”ではなく、小文字の“god”である人間。

(聖書には厳然とその違いが記述されているようで)

ご褒美は小文字のgodである自分の心が、

自分にくれるものなのかと思った今朝の私でありました。

反日 と いじめ

2012-09-23 10:27:28 | ひとの幸福
中国は反日教育をやっているので、教育の成果がちゃんとあがっている。

反日運動をやってるつもりが、鬱憤晴らしもあったようで、

今回、日本とまるで関係ない所でも暴動が起きたらしい。

日本兵の中国人に対しての残虐行為は、

いじめっ子の鬱憤晴らしと同じものだったんじゃないか・・・

そういうものを形だけ見て、それを良くないと批判することによっては

いじめと同じで、それは無くならないだろうし、

反日教育というのも中国にとっていい結果を齎さないだろうと思う。


日本軍は本当に兵隊を不当に痛めつけていたらしい。

上官の上には上官が居て、そのまた上には上が居て、

一方的な命令で組織が成り立つような仕組みになっていること自体が、

残虐行為を“起こした”、とも言えるかも知れない。

そうされてきた側にストレスが生まれるのは理の当然だ。

不当に虐め付けられて来たら、

どこかでそのストレスを発散させないと、

ひとは生きていけないようになっている。

ひとはそうされる(虐められる)に値しないものなのである。

そういう人間の本質から来る在りように目を向けない限り、

苛め合い社会は変わらない。





快感 ②

2012-09-23 09:33:00 | ひとの幸福
世の中には苛めることに快感を覚える人も居るようだ。

この前、尾木ママが徹子の部屋で言ってた。

「いじめっ子は苛めることが楽しいんです。」って。

楽しいからやる。

それを楽しいと感じるのは、何かを抑圧しているからと尾木ママも言っていた。

謂わば鬱憤晴らし。うっぷん、とは心に積もる怒り。抑えに抑えたうらみ。

それが解決されなくては解決に至らないのは当たり前。

いじめは良くないことだからやめなさい、っていう論法は役立たない。

ひとは理屈より、快適さを求めるもんだから。

いじめられる子は汚い子とか、勉強が出来ない子、とかに昔は限られていたようだけど、

最近は成績の良い子、明るい子、優しい子等、どんな子も対象になるという。

対象がどんな子でもいい、誰でもいいというのは、

明らかにいじめる側が問題を抱えているということだ。

誰でもいい、殺したかった、という無差別殺人と同じルーツかと思う。

いじめっ子は不当にいじられ、捏ね繰りまわされた過去があるのかと思う。

心のままに素直に育ったら、そういうことに快感を覚えるようにはならない。

快感

2012-09-23 08:30:00 | ひとの幸福
何度か書いたけど、ひとは真善美を希求してしまうもの。

そういうふうに“なっている”

美しい花を見ると美しいと思う。感じる。

花はただ、そこにそのような姿で在る、ということで、

それを見た人が美しいと感じるか、感じないか、ということなんだけど、

花を見て美しく感じる時の人の心は“快”状態かと思う。

枯れかかっているのが雨にあたってしょぼくれた感じになっている花を見ては、

美しく感じない。

綺麗に咲いている状態の時の方が見ていて“快”を感じるものだ。

そういうふうに感じるように人は出来ている。

教育されたわけでも躾けられたわけでもない。

対象がどんなものでも、そのものを美しく見る心に“快”がある。

人の場合、見た目はしょぼくれたおばあさんを見て、

美しく感じるという心はある。その形ではなく、

形の奥に見えるおばあさんの心を美しく感じる心というものはある。

そういう時、自分の心は“快”状態に在る。

美しく感じることが“快”で在ること。このことが凄いと思う。

万人もれなくこう“なっている”。

戦争や諍いや口喧嘩やイライラや、虐待や詐欺や恐喝なんかは、

美しく感じない。

美しく感じない心の状態は“不快”。

真善美を“快”と感じてしまう私たち。万人洩れなく。

その“快”を物差しにすればいいだけなんだがなぁ。

人生は快適で当たり前というのはそういうことだろうと思う。




「大往生したけりゃ 医療とかかわるな」 自然死のすすめ 

2012-09-22 14:24:46 | 本を読んで
こういうタイトルの本を読んだ。とてもよかった。

著者は中村 仁一さん。京都大学医学部出身の医師で、病院院長等を経て、

今は老人ホームの付属診療所院長職。

16年くらい前から「自分の死を考える集い」というのをやっているそう。

以下は章から抜粋。

医療が”穏やかな死”を邪魔している。

「出来る限りの手を尽くす」は「出来る限り苦しめる」

食べないから死ぬのではない「死に時」が来たから食べないのだ。

家族の事情で親を生かすな。

・・これ、みんな章のタイトル。

こういう文章もあり、これも凄く印象的だった。以下。

「たしかに、見殺しにするようで辛い。

何もせず見ているだけなんてことは出来ないという気持ちもわからないではありません。

しかし、こちら側の都合だけで、何かをするというのはエゴといっていいと思います。

その行為は誰のため、何のためなのか、

やった結果、どうなるのかを考える必要があります。

本人は嬉しがるか、幸せに感じるか、感謝するか、

あるいは自分だったらしてほしいことなのかなど、吟味してみなくてはなりません。

たしかに私たちは、なにもせずに見守ることに慣れていません。辛いことです。

だからといって、自分がその苦しさや辛さから免れるために、

相手に無用な苦痛を与えてもいいという道理はありません。

そっとしておく思いやりもあるのです。

フランスでは『老人医療の基本は本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、

医療の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です』といわれているそうです。

辛くとも「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが

“家族の愛情”というものでしょう。・・・・

『自然死』はいわゆる“餓死”ですが、その実体は次のようなものです。

飢餓・・・脳内モルヒネ様物資が分泌される

脱水・・・意識レベルが下がる

酸欠状態・・・脳内モルヒネ様物質が分泌される

炭酸ガス貯留・・・麻酔作用あり

・・死に際は、なんらの医療措置も行なわなければ、夢うつつの気持ちのいい、

穏やかな状態になるということです。これが“自然のしくみ”です。

自然はそんなに過酷ではないのです。

(“ ”は私が付けたものです) 

私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。

ところがここ30~40年、死にかけるとすぐに病院に行くようになるなど、

様相が一変しました。

しかし、死を止めたり、治したりすることは出来ません。

治せない「死」に対して治すためのパターン化した医療措置を行ないます。

鼻チューブ、胃ろう、人工呼吸器、点滴、輸血、昇圧剤・・・

これらがせっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして、

不安も恐ろしさも、寂しさも感じない幸せモードの中で死んでいける過程を、

ぶち壊しているのです。」以上引用。

ここのところを読んで青い本のこれを思い出した。

「・・死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします。」という一行。

ようするに青い本に書かれてあるのは、

本来、人間は“こうなっている”のですよ、という人間の実態についての記述なので、

これもそういうことなんだと再確認した感じだ。


同居していた義母の最期はこんなふうだったのかと思う。

本人の意志もあり、延命医療措置はとらないで、この家の自分のベッドで最期を迎えた。

亡くなってから主治医に来てもらった。

死亡診断書に老衰とあった。

その何日か前に診て貰った時、体温とか血圧とか酸素濃度とか測ったけれど、

様子を見て、本人はちっとも苦しくないですからね。

あと数日かと思います、と言っていた。その通りだった。

そしてその検診日もナースはこのままでいいのですね、と確認は忘れなかった。

延命治療しないでと言ってた人も気が変わることもあるから、

後になって、何もしてくれなかったなんてことにならないように、

とのことだったのだろう。

この本を読んで、義母がやっぱり幸せな気持ちで今生を終えたのだと思えて

よかった。