ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

大反響「マーフィー潜在意識の書き換え術」

2011-09-30 14:08:35 | 新聞を読んで
「ゆほびか」という本の宣伝が新聞の下欄に載っていて、

私この書籍宣伝欄に結構興味あって、よく見てる。

この言葉が大きな見出しであった。

渡部昇一 眠りながら成功するCD 願望別新バージョン とかもあった。


この渡部昇一さんは確か、忘れたけど、ドコソコ大学の教授だと思う。

アレキシル・カレルの「人間・この未知なるもの」を訳した人だと思う。

10年くらい前に読んだんだけど、その時、超~ワクワクして読んだよ。

だから、特に目を引いたんだな、この見出しに。


「潜在意識の書き換え」

・・これを私は眠りながらではなく、起きてやって来ているのかな~と思う。

普段は表面意識の底に隠れてる潜在意識。

潜在意識って所?には、

今までの人生の全ての記憶が畳み込まれているらしい。




屁 事件 ②

2011-09-29 17:12:05 | 実例体験観察
自然に屁をしたらいけない。

在りのままの私でいたらいけない。

こんなふうに文章化すると凄い事のように思うけど、

なんで傷ついたのか?と観察すると、

やはりこういうものが自分にあったのだと思う。

「失礼だな」の言葉に傷ついたのではなく、

その言葉を聞いて、

「それは、在りのままの私でいちゃいけないということなんだな」と

他の誰でもない自分がそう受け取ったのだった。

でなければ、傷つくということには成り得ない。

「失礼だな」を聞いて

「へー、そんなふうに思うのか、この人は」と受け取る場合もあれば、

「何がどう失礼なんだろう?どんな感じか、聴いてみよう」

と受け取る場合もあるかもしれない。

選択肢はたくさんある。


それにしても、

在りのままでいてはいけない というくらい辛いことはないと思う。

この、今の、この、私しか、ここにいないのに、

そういう私じゃいけないんだったら、どうしたらいいの?

・・っていう感じに成るのは当たり前だ。


本当に、自縄自縛。

自分以外の誰が自分の心を傷つけられるだろう。

身体は他者によって傷つくことも可能だけど、

自分の心を傷つけることの出来るのは自分以外にない。


そう思っているので、

傷ついちゃった時は、しらべることにしている。

でも自分でも人でも、傷ついてしまうということを否定はしてない。

否定など出来ようも無い。

だって、そうなっちゃうんだから。

なってるもの は なんだって 在るもの。

存在は 否定なんかしようがない。だって 在る。

在るものに 在るな なんて思うことは ナンセンス。







屁 事件 ①

2011-09-29 16:41:22 | 実例体験観察

やはり3年位前のことだけど、

屁をした時に夫から「失礼だな」と言われたことがあった。

そういう言葉をどう受け取るかはその時その時違う。

それを誰が言ったか、でも違うだろうし。

親しい人でもその場や、その人の体調や虫の居所や、なんかでも違うし、

自分の体調、気分、でも違う。

「しょうがないでしょ!出ちゃうんだから」と思って、

反発する場合もあると思うし、

「へー、失礼なんて思うんだ」とケロッとする場合もあるだろうし、

関係性が関係あるし、

いろんな状況で変わるものだと思う。


その日その時私はそう言われた。「失礼だな」って。

こうして「言われた」と表現すること自体、

自分が被害者になってる感じ。

心が傷ついた自分だった。

夜になって、「なんで傷ついたんだろう?」って、

傷ついた自分を研究対象にして、しらべた。

傷つくのは楽しい気持ちじゃない。つらい気持ち。

つらい気持ちを持つのはいい気分じゃないので、

いつも快適な気分で居たい私は、

そういうことがあった時は、ゆっくりと一人で時間をとれる時に、

自分のその時の意識を観察し、しらべることにしてる。


心が傷つく場合と傷つかない場合がある。

なので、「相手がそう言った“から”、私は傷ついた」

と言い切ることは出来ないはず・・そう思った。

それを言い切れるなら、どんな場合でも、その言葉を聞いた時に傷つくはず。

ところが、場や人やいろんな条件で自分の心は変わる。

「必ず!傷つく」わけじゃない・・・ということがわかった。

夫のせいにして(夫を加害者にして)

悲しんでいる場合じゃないぞ・・と思った。

そういう言葉を聞いて、それをどう受け取っているのかは自分だ。

他の誰でもない自分が受け取っている。

同じ物を見ても、それから何を感じ取るかは、

その日によって違ったりすることなんか当たり前の現象だものね。

それなのに、その日は心が傷ついた。

その言葉をどう受け取ったのか??・??・・


これだった!!

「自然に出る屁をしてはいけない、

在りのままで居てはいけない」と自分が思ってしまったのだった!

いろんな受け取り方が出来る可能性の中から、

無意識のうちに、そういう受け取り方をした自分だった。

続く・・・


~しなくちゃいけない

2011-09-26 13:56:02 | 実例体験観察

3年前の話なんだけど・・・

「昼寝から起きて、時計を見たら5時半だった。

うちは夕飯をだいたい6時にしている。

隣の部屋に行ったら、夫と娘がテレビを見ていた。」


・・・いま、こうして書いてみると、

「フンフンそうなの、それで?」という感じがする。


ところが、当時は・・

食事をすることは二人ともわかっていて、

6時まであと30分しかないのに、

私が寝ていても、何もしないでテレビを見ているなんて!

と、こんな感じで、ムっ!とした・・のだった。


その夜、その時の自分を振り返った。

夫と娘二人でテレビを見ているところに、

自分も入って一緒にテレビを見ることも出来る。

「夕飯なんにしようかぁ?作る気ないなぁ」と言うことも出来る。

「何か作ってくれない?」と言うこともできる。

「夕飯無しだ」と言うことも出来る。

「何処かへ食べに行こうよ」と言うことも出来る。

・・・いろんな選択肢の中で、

どんな行為をとるか、自分で選択している。
(無意識のうちに)

けれど、その時の私はムッとすることしか出来なかった。

何故なら・・・

自分の意識の底で、

「夕飯を作らなければいけない」があったからだ。

“やらねばいけない”がこびり付いてた。


やらなくたっていいんだよ。

やらなくたっていいんだよ。

やらなくたっていいんだよ。


出来ない時はやらないじゃん。

やりたくない、やる気がしない、それも出来ない時。

でもね、不思議なことに、

「やる気しないんだ」と発して、

「あー、そうなんだぁ」と言ってもらうと、

なんだか、やろうかなぁ って気になるんだよ。

でも、やらないこともできる、ということをした方が

今の私にはハードルになっていいんだと思う。







喫茶店で二人きり

2011-09-25 16:49:36 | ひとの幸福
喫茶店で二人きり・・・

これはその人の前での自分の在りようのバロメーターなのである!?

勿論実際そんな機会は無いんだけど、

想像する。


お隣のAさん・・この人と喫茶店で二人だけで過ごせるか?

こんなふうに誰とでも、の、その場を想像してみる。

名前と顔が一致している、とか

その程度に知っている人を一人一人思い浮かべて、

喫茶店で二人だけで心が落ち着いた状態で居られるか?

自然に振舞えるか?を想像する。

・・・こんなことをよくやっている。

これ、結構昔からやっていた気がする。

このひととは駄目だなぁ・・とか・・

その人を好きとかそういうのは関係ない。

気まずい思いをしそうか、とか、

自分が緊張したり、しどろもどろになりそうか、と想像する。


うーーん、今 この人とは一緒に居られない自分だな、と思ったり・・

どの人とも自然に振舞えるんだったら、かなり自由なひと。


時空

2011-09-25 08:17:31 | 新聞を読んで

昨日の新聞の一面にはゾクゾク興奮した。

こんな時代に生きててラッキー!と思った。


「光より速い素粒子観測。

相対性理論と矛盾。

時空の概念 揺るがす。」

大きな見出し3つ。



事実は発見される。

人間にわかってない事実なんて、

たくさんたくさんたくさんあるんだと思う。


事実が事実として発見される前に、

こうではなかろうかというような理論が発表されることもある。

それがその時代に受け入れてもらえず、迫害され、

その事実があきらかになる前に、

死んでしまった人もたくさんいるだろうと思う。


ひとの言うことを、自分の知っているホンのちょびっとの知識や情報で、

そんなのおかしい!!と思って、

ひとをバカにしてたことをたくさんしてたなぁ・・・。



イブ・2才

2011-09-24 21:54:43 | 日々の暮らし・思い出

アダムとイブの話についての思いを幾つか前に書いたけど、

この家に禁断の木の実を食べる前のイブが来ていた。

2才のイブだ。

楽園にいるイブだ。

パンツやシャツをすぐに脱いでしまう。

裸がいいらしい。

善悪の判断が無いというのは、自己意識がない状態とも言えるかな。

まだ木の実を食べてないので、

イチジクの葉っぱであそこを隠さない。

それでも、前回のイブはまだ一才だったので、

今のイブよりもっともっとイブだった。

今回は前回より、彼女の意識には“他”があるように見えた。

こういう場面で、周りの大人はこういう反応をする・・

それをじっと観ている。


イブがいじっていた食べ物がテーブルから落ち、バラバラに拡がった。

イブは周りがどう行動するか、じーっと見ていた。




































あてにしない

2011-09-24 21:53:10 | 日々の暮らし・思い出
夫が今日は出かけていて、普段なら二人ですることを自分一人でする。

そこにいないのだから、あてにしようがない。

不満なんか出てきっこない。

それが例えば夫が2階なんかにいると、

あてにする思いが生まれる事がある。

期待が生まれるのかな。

目にしなければ・・居場所を知らなければ・・

居ないのと同じ。

いないひとには不満が生まれない、

だから大人になった子供を家から出した という友人がいる。

目の前にいると気になるけど、いなければ気にしようが無い。

自分の精神衛生上、目の前に子供がいるのはよろしくないので、

出て行ってもらったと言っていた。

なるほどと思った。


もっと上級は・・

居てもあてにしない という精神状態・・かな。

一切の期待も無く。


かといって、何も頼まないとか、

声もかけない・・なんていうんじゃない。

何か頼んでも、それをするしないは相手が決めること・・・

というふうに自分がなっている心の状態のこと。

実際そうだよね~。

相手がする“行ない”は相手の意志でするもの。

私の意志 で 相手が行なう わけじゃない。

私の意志を相手が聴いて、

相手がそうしたいと思えばするし、

したいと思わなかったら、ノーという自由は相手にあるはず。

そこんとこが自分にはっきりしてると、

ノーと聴いてもへこむわけが無い・・ことになる。

互いに自由自在なのがいいなぁ。



わかるって・・

2011-09-21 09:48:31 | ひとの幸福
昔読んだ小説を「あれは面白かった」と思っている。

何がどんなふうに面白かったのか、憶えていない。

「面白かったと思った」それだけを憶えている。

「面白かった、と思った」

それが自分に知れている、わかっている。

その小説が面白かった のでは勿論ない

それを読んで、面白かったと思った私という現象がそのときあった。

通常、「あの小説は面白かった」という表現はするけども、

(言葉は認識なので)


“あの小説”はただ在るだけ。 動かない情報として在るだけであって、

読む人によって面白く思ったり、

面白く思わなかったりする。

同じ人でも何年後かに読んだら面白くないと思ったり・・。

そんなもんだ。


そのことがわかるのではなく、

そのことについて自分が思ったことがわかる。

見る  観る

2011-09-21 09:16:47 | ひとの幸福

パソコンの前の窓に隣の家が見える。  瓦を見た。

例えばここに誰かが来て、その同じ瓦を見たとき・・・

私が見た瓦と誰かが見た瓦はちがう。

見る という現象は同じでも、見たものはちがう。

観たものと書いたほうが適切な表現なんだろうか?

ひとは観ることしか出来ない のだろう・・

見る とはどういうことなのか?

在る と 在ると思う の決定的なちがい。

在る と表現すること自体 在る という認識なんだものなー

ある本に、地球人よりもっと意識的に進化している別の生命体は言葉は使わない、とあった。

誤解がうまれざるを得ない言葉によるコミニュケーションは

コミニュケーションの形としては未熟なもの、 とあった。

以心伝心、かどうかわからないがテレパシーのようなもので交流をする・・とか。


真偽の程はわからないが合点がいく話だと思った。

(あれ、取って)と思う、その意識の内容が相手に届く・意識が伝わる。

相手に依頼する、ことが伝わるのであって、独り言が伝わることは無い。

今の世界に起こっている揉め事はかなり誤解、曲解によるものだと思うので、

そんなテレパシーで意志が伝わったら問題はぐんと減りそう。

そう成る、そう人類が進化するというのは、今の次元の世界では無理と思う。

山岸さんが言った世界が引っ繰り返る とはどういうことなんだろう。

こんな事考えるよりもっと身近なことやれよ、みたいなのもあるけど、探求したくなる。 


遠慮 気兼ね

2011-09-21 08:38:07 | ひとの幸福
遠慮というものがどんなふうに発生するのか、

観てみると、例えば、

ひとに何か して欲しい と言った時に、

聞いたその人が(そんなこと、自分でやるべきだよ~)との判断を持っていて、

その上、(でも、その通りにしないと相手が気を悪くする)と思ってしまい、

「うぅん・・・あー、そう・・は、はい・・」

・・みたいな返事をすることになることもありそう。


その反応を見た人は、

(あっ、本当はやりたくないんだな)と受け取り、

(あっ・・いい・・いいよ・・自分で・・する・・)

・・というような展開になる場合もありそう。


そして、その次から、

そのひとに何か頼むのは遠慮することにもなりそう・・・

・・というようなこともあるかもしれない・・・


遠慮は美徳のように言われるけど、

美徳の遠慮と、

そうでない遠慮と両方あるみたい。

ここでは遠慮しようと、

自分ではっきり自覚ある時というのはある。

そういうのは“スッキリ遠慮”

相手や周りと調和していこうという意志があって、

自分に無理を強いていない。

なので自分の機嫌はムズムズしてない、いい感じ。


“遠慮気兼ね”という言葉通り、

遠慮と気兼ねがセットの奴はいい感じじゃないね~



わかる ②

2011-09-15 08:15:02 | ひとの幸福
わかる とは 何をわかるのか?

自分が思ったこと、考えたこと、しかわからない。

前回そう書いた。

難しい数学の問題はわからない。

解く前からわからないことが、わかる。

似たような問題を解いたことがないから。

「わかった」と思ったことがないから。 

3+5= は8とわかる。

以前に解いて「わかった」と思った瞬間があるから。

過去に、わからない状態→わかった状態

になった瞬間があるから。

以前に「わかった」と思ったことがあることを、

今、わかっている。





10年 ・・・経った

2011-09-13 09:15:49 | ひとの幸福
9・11から10年経った。

今朝の読売新聞にこんなのが載っていた。

アメリカのナンタラ調査で、

「アメリカ・同盟国が勝っている」が42%。

「アメリカ側とテロリストのどちらも勝ってない」という回答が46%。

・・というもの。


金子みすずの詩で

「みんな違って みんないい」というのがある。

(金子みすずがどんな思いで、これを詩にしたのかわからないけど・・)


携帯電話を電車の中でしてはいけない、という考え、

こういう考えもあって当然。

電車の中で携帯電話したくなる気持ち、

こういう気持ちもあって当然。

それがケンカに発展するのは・・

それぞれが「自分が正しい!」と突っ張るから。

こういう、自分が正しい!と突っ張る気持ちも出てきて当然。

思いというものも、そうなるべくしてなっているだけと思うよ。

なっているものを否定してもしょうがないね~。

花が咲いてるのと同じことだから。

だって、咲いてるんだもん。

花が咲くのも、なるべくしてなってる。

種を土に蒔いて、水遣り、肥料やり、おひさま照って。


でも否定しちゃうんだよね~。

否定しちゃうのも当然。

心で否定しちゃうんだから、しょうがない。


でも、それを形の否定(物理的攻撃)にするのは無理だよ。

心は目に見えない。

目に見えないものを物理的な道具でなくそうとしても難しい。

いいこと何にも無い。

軍需産業(経済)が栄えるだけなのかな。

形のあるものは形あるものによって壊れるけど、

かたちの無い心は、形あるものでは壊れない。

こころは 心 で変わる・・となるのかな~

かたちがないもの

2011-09-12 08:36:05 | ひとの幸福
正義の味方のアメリカがイスラム原理主義者のいる所に、

幸福な社会を願って、

爆薬を落として物質的な攻撃をしたけど、

意識のプログラムはそれでは変わらないみたい。


形あるものは爆撃で壊れるけど、

かたちのない意識は爆薬では壊れない・・・かな。



別れ

2011-09-05 13:40:15 | 日々の暮らし・思い出
誰にとっても人生は いつ何があるか わからない。

突然の別れ、準備期間がある別れ、いろんな別れがあるけれど、

離れがたい別れも数多くあるだろうと思う。

名残は尽きないけど。

別れのない出会いはない。

夫と私、どちらが先にあの世に行くかわからないけど、

最期のときは「名残は尽きませんが・・お先に失礼します♪」

と言って、さよならしようね、と言い合ったことがある。


何かの話の流れで、

「・・このこと憶えてる?」と聞いたことがある。

「片時も忘れたことはないよ いつもそれが心にある」と言ってた。

なんだか、感動しちゃった。