佐治博士の『へぇ~ そうなんだ』
サブタイトルは『相互循環的な環境が大切』
・・・今朝の毎日新聞に「奇跡のりんご」の著者である木村さんと対談してのこの話が載っていた。
以下がそれの一部です。
キツネと野ウサギの生態系でいえば、
キツネが野ウサギをたくさん食べて野ウサギが減ると、
キツネは食糧不足に陥って生息数が減少し、
その事によって野ウサギの捕獲数が減りますから、
野ウサギの生息数が増え、
今度はキツネが元気を取り戻し・・・というように、
二つの生息数はシーソーゲームのように変動しながらバランスを取っています。
りんご作りも雑草やムシの気持ちになって
彼らがもたらす実害が目立たないような相互循環的な環境を
造ることが木村農法のようです。
現代は国内外の情勢から国家間の問題まで
きわめて危機的な状況にあります。
もしこの自然農法と同じよう主張すべきは主張し、
譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら
多角的な論理のまなざしで見通すことができれば
これほどひどい状況を招かなくて済んだのではないかと思います。
私たち人間はしょせん自然の産物です。
ですから、かつて古代人がしてきたように、
科学によって知り得た自然の根源的性質に
準じるような生き方を模索すべきでしょう。
自然農法で育てられたリンゴの清楚で素直な味わいが
そう語りかけてくるかのようでした。
・・・以上引用。
さーっと読むと本当にその通りだなぁと思うのだけど、
さて、木村さんのリンゴから語りかけられた私たちは
生き方の何をどう模索して行ったらいいのか・・・
「主張すべきは主張し、
譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら
多角的な論理のまなざしで見通すことができれば・・・」
・・・何を主張すべきで、何を譲るべきなのか・・
福岡伸一ハカセの『動的平衡』を思い出す。
小さな一つの細胞は何を主張し何を譲っているのか・・
何も主張しないし何も譲らない、んじゃないか。
ただ在るだけで。その在り方を人間もすればいい・・のか・・
細胞は自然の根源的性質で在るだけのこと。
それが多角的な論理のまなざしで見通した結果の行為行動をする、ということか・・
細胞はそうしている。そうとしか出来ない。
身体の何処かにガンが出来ようが、血管が詰まろうが、
何をやってるんだ!なんて非難しないしね。
全部丸ごと「あ、そうなの」って感じで受け容れて、
それならそれでと、すぐに全体がよくなるように対処してしまう。
そういう多くの細胞で私たちも出来てはいるんだけど、
精神のある私たちにはそれが出来ない場合が多いのが現状。
多角的な論理のまなざし・・
多角的とは多方面にわたるさま。多面的。
ようするに自分の論理に固執しないで、
相手の論理もあ~そうかと受け容れる、
自分の考えも他者の考えも鳥瞰的に観られるまなざしを持たなければ、
「その両者の均衡を保ちあいながら」なんて出来ないんじゃないか・・
受け容れることとその考えに賛成することは違う。
受け容れて初めて、相手の論理で行くと
周りのあれこれも含め、こうなるんじゃないか・・・
自分の論理で行くとこうなるんじゃないか・・・
と双方の考えやその結果である形を鳥瞰的に推察できるようになるんじゃないか。
賛成も反対もなく。
全体がどうなったらいいかを双方が一緒に考える、
今この場合どうしたらいいのか一緒に考えよう・・って同じ位置に立ってするのが大事。
こう考えると結局のところ、佐治博士が言った、
科学によって知り得た自然の根源的性質に準じるような生き方に
なるには、そういう心のひとになること、に尽きるようだ。
たくさんの失敗をして、人はそうなって行くのだと思いたい。
けど、やってみて失敗しても、
失敗だったという自覚がないと、
失敗してないのと同じことだから、
進まない。