ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

根源的性質

2014-10-31 11:25:36 | ひとの幸福
さっき書いた奴・・・・体の何処かにガンが出来ようが、血管が詰まろうが、

何をやってるんだ!なんて非難しないしね。

全部丸ごと「あ、そうなの」って感じで受け容れて、

それならそれでと、すぐに全体がよくなるように対処してしまう。


いつか、何百年も先?人間の意識が根源的性質そのものになったら、

ガンも出来ないし血管も詰まらないように なる んだろうと思ったわ。

その前に人類が殺し合いで居なくなってしまわなければ。

佐治博士の『へぇ~ そうなんだ』

2014-10-31 11:18:23 | 新聞を読んで
佐治博士の『へぇ~ そうなんだ』

サブタイトルは『相互循環的な環境が大切』

・・・今朝の毎日新聞に「奇跡のりんご」の著者である木村さんと対談してのこの話が載っていた。

以下がそれの一部です。

キツネと野ウサギの生態系でいえば、

キツネが野ウサギをたくさん食べて野ウサギが減ると、

キツネは食糧不足に陥って生息数が減少し、

その事によって野ウサギの捕獲数が減りますから、

野ウサギの生息数が増え、

今度はキツネが元気を取り戻し・・・というように、

二つの生息数はシーソーゲームのように変動しながらバランスを取っています。


りんご作りも雑草やムシの気持ちになって

彼らがもたらす実害が目立たないような相互循環的な環境を

造ることが木村農法のようです。


現代は国内外の情勢から国家間の問題まで

きわめて危機的な状況にあります。

もしこの自然農法と同じよう主張すべきは主張し、

譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら

多角的な論理のまなざしで見通すことができれば

これほどひどい状況を招かなくて済んだのではないかと思います。


私たち人間はしょせん自然の産物です。

ですから、かつて古代人がしてきたように、

科学によって知り得た自然の根源的性質に

準じるような生き方を模索すべきでしょう。

自然農法で育てられたリンゴの清楚で素直な味わいが

そう語りかけてくるかのようでした。

・・・以上引用。


さーっと読むと本当にその通りだなぁと思うのだけど、

さて、木村さんのリンゴから語りかけられた私たちは

生き方の何をどう模索して行ったらいいのか・・・


「主張すべきは主張し、

譲るべきは譲り、その両者の均衡を保ちあいながら

多角的な論理のまなざしで見通すことができれば・・・」


・・・何を主張すべきで、何を譲るべきなのか・・

福岡伸一ハカセの『動的平衡』を思い出す。

小さな一つの細胞は何を主張し何を譲っているのか・・

何も主張しないし何も譲らない、んじゃないか。

ただ在るだけで。その在り方を人間もすればいい・・のか・・

細胞は自然の根源的性質で在るだけのこと。


それが多角的な論理のまなざしで見通した結果の行為行動をする、ということか・・

細胞はそうしている。そうとしか出来ない。

身体の何処かにガンが出来ようが、血管が詰まろうが、

何をやってるんだ!なんて非難しないしね。

全部丸ごと「あ、そうなの」って感じで受け容れて、

それならそれでと、すぐに全体がよくなるように対処してしまう。

そういう多くの細胞で私たちも出来てはいるんだけど、

精神のある私たちにはそれが出来ない場合が多いのが現状。

多角的な論理のまなざし・・

多角的とは多方面にわたるさま。多面的。

ようするに自分の論理に固執しないで、

相手の論理もあ~そうかと受け容れる、

自分の考えも他者の考えも鳥瞰的に観られるまなざしを持たなければ、

「その両者の均衡を保ちあいながら」なんて出来ないんじゃないか・・


受け容れることとその考えに賛成することは違う。

受け容れて初めて、相手の論理で行くと

周りのあれこれも含め、こうなるんじゃないか・・・

自分の論理で行くとこうなるんじゃないか・・・

と双方の考えやその結果である形を鳥瞰的に推察できるようになるんじゃないか。

賛成も反対もなく。


全体がどうなったらいいかを双方が一緒に考える、

今この場合どうしたらいいのか一緒に考えよう・・って同じ位置に立ってするのが大事。


こう考えると結局のところ、佐治博士が言った、

科学によって知り得た自然の根源的性質に準じるような生き方に

なるには、そういう心のひとになること、に尽きるようだ。

たくさんの失敗をして、人はそうなって行くのだと思いたい。

けど、やってみて失敗しても、

失敗だったという自覚がないと、

失敗してないのと同じことだから、

進まない。


一呼吸おこう

2014-10-27 18:33:37 | 実例体験観察

言葉を聞いてから一呼吸置こう。

それを意識しよう。

例えば、あなたに私はこうしようか?なんていうニュアンスの言葉をかけられたときに

すぐに、そんなことしなくていいよ、なんて、

口走ってしまうことがある。

「そういうことは自分がするべき」

後になってから、そういう潜在意識のプログラムが瞬時に働いたのだとわかる。


そうしたい、という気持ちじゃなくて、

そうするべきだという“考え”に“気持ち”が負けてしまった。

勿論、「そういう場合そうするべき」という考えと、

その時の自分の気持ちが一致していれば・・・

(そうするべきことをしたい)に、自分の気持ちがなっていれば・・・

なんの気持ちのしこりも残らない。


この世では「店で物を受け取るにはお金を支払うべき」という考えと、

支払いたいという自分の気持ちが一致してるから、なんのしこりも残らないのと一緒で。


どんな時も、一呼吸置く。その自覚。

肝に銘じよう。

「転んでもただでは起きない」

2014-10-25 15:48:33 | 言葉
「転んでもただでは起きない」

転んでもただでは起きぬとは、たとえ失敗しても、

そこで利益になるものを得ることのたとえ。

また、どんな事態になっても必ず何か自分の利益になるものを見つけ出すという、

欲深い人間のたとえ。

という意味だそう。


人は転ぶ。失敗をする。間違う。

転ばない人は多分一人もいない。

転ばぬ先の杖、というのもあるけど、消極的過ぎるとも感じる。

転ぶのや失敗することを、以後そうならないための機会にすることも

私たちは出来るし、

そういう機会にしないことも出来る。

失敗をいいキッカケにすることが出来るのは欲深の人間だ。

欲はいいものだ。



「腫れ物に触るよう」

2014-10-25 11:35:47 | 言葉
「腫れ物に触るよう」

気難しい人などを、恐る恐る取り扱うさまの形容。

機嫌を損じやすい人に恐る恐る接するさま。 「 -に扱う」

身体にできた腫れ物には触らなければいい。

触られた人が痛い思いをしないで済む。

まぁ、触らなければ痛くないけど、

そこが正常じゃない状態だから熱を持ってる、ということはあるだろうね。

そこを治療しようとすれば、触らないとできない。

又は、治療せずに自然治癒を待つという選択肢もある。


この諺にあるように、心に腫れ物を持ってる状態というのが人にはある。

自分ではそういうものを持ってるなんて思ってないことの方が多いかもしれないけど。

腫れ物に触らないようにする、というのは

相手の心の傷が痛くならないようにという配慮からの行為だろう。

治療のつもりで触ってしまって、

治療にならず悪化してしまうことも身体の腫物でもあると思うけど、

心の傷やトラウマでも結構あると思う。

自分の経験ではそういうことがある。

要らぬお節介という奴だ。

『触らぬ神に祟りなし』で書いたけど、

触らず様子を観るだけにしてると、自分の力、自然治癒力で治る場合もある。

「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」というのもあるけど、

下手な鉄砲だとわかっていれば打たない方がいい、ということだ。

下手だという自覚がないのが一番手に負えないのかもしれないなぁ。

これ、自分のことだよ。

自分の状態を知らないのは一番の困り者だね~



「触らぬ神に祟りなし」

2014-10-25 09:55:48 | 言葉
触らぬ神に祟りなし

関係しなければ、災いを招くこともない。傍観的に対処するのが最良である。

・・・という意味合いだそうな。

今までこの言葉は人生を生きるのに何か消極的だな~

みたいな感じがあったんだなぁ・・

最近この言葉がふっと湧いてきたよ。

この諺、かなりなもんなんじゃないかと思ったわ。

要らぬ干渉、お節介をしなければ、物事は物事自身の力で進んでゆく。

物事自身の力、というより、その人の事ならその人自身の力で。



アダム2号は

2014-10-21 16:36:32 | 日々の暮らし・思い出
昨日、帰った。

1才1か月でちょこちょことよく歩く。

納豆をパクパク食べる。

ことんと寝る。

クチャッと鼻の上にしわを寄せて意識的かのような笑顔を作る。

本当に可愛い。

アダム1号が正月に来たときと感じくらいの年だ。

落ちているものを躊躇なく拾い、口に入れる。

その味を確認した結果、吐き出すんだろう。


義父はアダムを大人しい子やと言っていたけれど、

アダムが大人しいのか大人しくないのか、

そう言われたときには判断がつかなかったけれど、

そうだね、あまり泣かなかったね~

親が穏やかでいつもだいたい笑顔で居るから、泣くこともないのかと思った。

アダム2号の母親は夫と前妻の娘でとにかく子供が好きで早く母親になりたいと思っていた子だ。

なりたくてなりたくてなった母親だし、拘りやトラワレの少ない明るい娘だから、

子どもがこんなふうに穏やかなのかと思ったなぁ。

アダム2号はどんな少年になるのだろう・・・

ついこのあいだ小学生だった、というような印象の娘がもう母親なのだから、

あっという間に少年になってしまうだろう。

私のこれからの10年とアダムの10年は時間的には同じなんだろうけど、

その長さ、濃さが全然違う感じがする。

豊かな10年でありますようにと祈らずにはいられない。




愚痴る・こぼす

2014-10-13 14:40:57 | ひとの幸福
愚痴る姿って美しくはない、と思う。

けれど、被った迷惑云々を本人に言わないで

他者にこぼしたり、愚痴るのは、

本人に言っても変わることはないだろう、

という無意識のうちの推測のもとに、

そうした行動をとるのかもしれないと思う。

相手が傷つくかもしれないから止めようというのがあるのかもしれない。

非難する姿を相手に見せたくない、というのもあるかもしれない。

関係性を悪くしたくない、というのも勿論入ってるだろうし。

そういう思いはあるのだけど、

この思いを出さないでいると(誰かに言わないでいると)

自分がおかしくなる、とわかるので

人に聴いてもらおう、とするのかと思う。


ひとつきくらい前、Aさんから

「Bさんがあなたのことをコレコレ(悪意が含まれるような)言ってたよ」というのを聞いたとき、

嘘じゃなく本当に、Bさんは優しいな、と思った。

Bさんが言ったというコレコレについて、本当にそうだなと思ったしね。

コレコレを聞いたら、私がそれを受け容れられないとBさんは思って、

私には言わずにいてくれたんだと思った。

私のことを思ってくれるから、

愚痴る、という行為を選んだんだなと思った。

願望の放棄・・・・って・・

2014-10-12 16:27:12 | ひとの幸福
経験があるのだけど、窮地に陥った時に、

自分や大切な人がどうなってもいい、と

“覚悟”状態、“諦め”状態になるのは、

幸せになってほしい、あぁなりたい、こうなっては困る、

・・・そういった願いを放棄することだ。


スピノザの言葉で、「願望の放棄」とは

その願いが叶っている状態である、といったものがある。

何も望まない=願いが叶っている だから。

確かに自分の体験でもそれがキッカケでいい方向に進んだ。


最近の心関係の本の多くに「お金がある」はお金を呼ぶ言葉で、

「金がない」は言わない方がいい、

というのがあるけど、それと一緒で。

“存在の状態”が始まりで、そこから行為しろ、

という奴と同じことをスピノザは言ってたわけだ。


願いを放棄するとは、その願いを永久に捨てることとは違う。

願望実現の為に、行為するときにはその願いを棚に上げておくことだ。

いわば、願望放棄状態の心で居ることだ。

無我の境地といってもいい。


ここで、いきなり・・と思うかもしれないけど・・・

アフリカの草原で猛獣に追いかけられた小動物が一目散で逃げられるのは、

不安や恐怖感が無いからだという。

それがないから、恐怖に身をすくめることなく、

自分の身を守る最善の方法をすぐにとれるという。


相手が幸福で在ってほしいという願いをその瞬間、持ったままでいると、

相手が相手自身の幸福が叶わないような行動を

してしまうんじゃないかと恐れてしまうことがある。

そして、相手のその行為を否定的に観てしまうことがある。

そんなことをしたら・・あぁなってしまう、こうなってしまう、と“不安になる”。


けれど、そういった場合でも、不安になるのではなく、

そんなことをしたら、そうなる、と予想が付くからこそ、

駆け寄ったり、アドバイスするというのはある。


たとえばだけど、その穴に落ちたら助からない、というような、

大人には一目瞭然のことも、未熟な子供はわからないでいるというようなことがある。

そういう場面に直面したとき、不安におののいて、

恐怖感に囚われたら、身がすくみ、身体が緊張し、

自由に動けなくなるだろうけど、

人間はそういう緊急時、動物的になるそうだ。

草原の小動物のように、的確な行動がとれるようになっているそうだ。

子供を危険な穴の方に行かせないという瞬間的行動をとれるのは、

その瞬間のとき、現れる火事場の馬鹿力のような、

人間が持つ本能的な、動物的な力があるからだという。


けれど、残念ながら、そういう緊急時ではないときなど、

不安や恐れを感じてしまうことが多い。


不安や恐怖は意識を持つ人間だけに現われる。

不安になるのは願望を持ったままでいるからで、

そのとき、その願望を放せば(棚上げすれば)不安感に襲われることなく、

そういうことをしたら、あぁなるのではないか・・と物事の成り行きを落ち着いて推察できる。

そして、良い方向に物事が進むように自分はこうしよう、とか、

相手にはこうあたろう、とか、

冷静に物事を運べる。


願望を棚上げしてるだけで、

捨てていないからこそ、とれる行為・行動なのかと思う。


つい不安や恐怖を感じてしまう人間だけど、

人間だけが希望を描け、そのために実現する力を持っているはずだ。



アダム2号ちゃんが来る

2014-10-12 14:47:34 | 日々の暮らし・思い出
今週末、石垣島から夫の末娘夫婦とその子供アダム2号が来る。

凄く楽しみ♪

前回の冬に娘とアダム2号には会っていて、その時はまだ4か月だったかなぁ・・・

それが1才2カ月になっている。

どんなだろう???

娘に会えるのも楽しみだけど、アダム2号への関心が高い私だ。

勿論娘は私よりずっとずっと若いけど、

以前会った時より、老化!?という変化で、

アダム2号は成長という変化だからね~

こういった感慨は変化の大好きな私にしては当然だろうねぇ。


これで最後にしたい失敗

2014-10-10 15:57:24 | ひとの幸福
今までたくさんたくさん失敗してきたけど、またまた大失敗したよ。

久し振りにかなり自己嫌悪になったわ。

自己嫌悪という奴は後悔。後で悔やむこと。

そして自分がイヤになること。

反省と違う。

でも後悔が悪く反省がいい、わけじゃない。

後悔せずには居られなかったな。

たくさん悔やんで、やっとそこから脱出できたかな、という今日。

そして反省。大いに反省。大いに大いに反省であります。


そしてこれからの自分に言うこと・・・は・・・


どんな間柄でも、親子でも、人は人。自分とは違う人。

済んだことは済んだこと。

意見、忠告するのは、相手が「どう思うか?」と聞いて来たら、

淡々と言うこと。

そうさせよう、など微塵もないところで。

それは提案であって、命令や依頼じゃないもの。

いろんなこと、聞かれもしないのに言わないこと。

聞かれもしないのに、あ~したらいい、こうしたら拙い、は、言わないこと。

頼まれもしないのに、(私がこうしようか)とかは一切言わないこと。

これこれこうしてほしい、と言って来たら、

正直にカッコ張らずに、そうしたいと思ったことで、出来ることはする。

そうしたくなかったり、出来ない事ならことわる。

静かな気持ちでそうしたい。

赤ん坊、幼児、狂人でなければ、

ひとは誰でも自分で考えられる。自分で解決策を見出す。

他者である私はその補佐をするだけ。

今回の経験で、私は子に(良かれと思って)という立ち位置で、接してしまった。

かなりな干渉をしてしまった。

自分がそのように為したことで、なるべくしてなった現象が、

今、私にこう思わせている。


このブログではわかったふうなこと書いていても、

産んだ子に対しては実践出来てないことがまた、よくわかった。



・・・上に書いたのは決意表明で、実際自分がどうなるかは

その時にならないとわからないとわかるけど、

今の時点での決意表明。


後悔タイムが終わって、いま・・

この機会を無駄にしないぞ、と思ってる。

けれど、またやったのかよ、という自分も居る。

そんなこと今、言ったって、また同じようなことをするんじゃないか、

と思ってる自分もひょっと出てくる。

それにも、あ、そう、で行くしかないわ。


でも一番肝心なのは・・・

どうなってもいい、という覚悟の基(境地)かどうかが、

その行為を決めるんじゃないか・・・が出て来る。

そうでなくて、上に書いたようなことが出来るのか・・???

今の自分にはわからない。

いや、常に(今ここ)での自分の意識を見張っていることが出来るか、だ。

何をしたくて、今ここで、これを言うのか・・・

意識して自覚して子に対応したい。

そう思う。