この頃は畑によく行く。
天気のいい日は本当に気持ちがいい。
義父が「畑はい~い・・・」としみじみ言っていたのを思い出す。
畑の通路や花壇の草取りをしているとき、
いわば、無心にやっているという状態になる。
ちくちく縫物をしてる時もそうだね。
義父が畑がいいと言っていたのもそういう意味もあったのかなぁ・・・
どうして草取りをしてると無心状態になるんだろうね。
昨夜NHKで荘子の講座みたいのをやっているのをたまたま見たんだけど、
完全な受け身――それこそが自由なのだ、とあった。
仏教も荘子も孔子もキリストもみんな似たようなことを言っているのは当たり前なんだろな。
完全な受身、とは相手に対して、どうこうしよう、どうこうしてやりたい、
というような、~しよう、という意識がない状態かと思う。
講師の玄侑さんが確か、「無意識に生きる」という表現もしていた。
それは“そのような心の状態”が“身についている”ということだ。
見についてるとは、そうしようとしてそういう態度をとるわけじゃない、
自然とそうしてしまう・・・ということかと思う。
いわば、境地の状態がそのまま行為に出るということか・・・
やっぱりたまたま昨夜布団の中で読んだ梅原猛さんの子供向けの仏教の本の、
「仏教はカビ臭いものでなく、自己管理の教え」という章に
「生きとし生けるものはみんな苦しんでいる。
その苦しんでいる原因は愛欲である。
人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。
愛欲の業を観察して、そういう業の世界から脱却する。
それが釈迦の言うところの涅槃、悟りです。」というのがあって、
どうこうしよう、どうこうしてやりたい、という思いは
対象は自分や相手や遠い世界の人やらといろいろだけど、
自他に対しての愛欲というものなのだと思う。
愛欲というのは何も男女間のことだけじゃない。
批判や忠告や注意や心配や不安は全部愛欲から来るものだ。
愛欲がなかったら、そんなものは発生しない。
だから、その愛欲が放せて、完全な受身になれたら自分も相手も自由になる。
そうなるはず・・と思う。
愛欲の業を“観察して”、そういう業の世界から“脱却する”。
言うのは簡単行うは難しでありますね~
草取りやちくちく縫いをしてるときは
愛欲から解放されてる状態なのかなぁと思う。
でもいつもいつも草取りやちくちくだけではいられないのが人生・・・・
さてさて、畑に行って来ます。
天気のいい日は本当に気持ちがいい。
義父が「畑はい~い・・・」としみじみ言っていたのを思い出す。
畑の通路や花壇の草取りをしているとき、
いわば、無心にやっているという状態になる。
ちくちく縫物をしてる時もそうだね。
義父が畑がいいと言っていたのもそういう意味もあったのかなぁ・・・
どうして草取りをしてると無心状態になるんだろうね。
昨夜NHKで荘子の講座みたいのをやっているのをたまたま見たんだけど、
完全な受け身――それこそが自由なのだ、とあった。
仏教も荘子も孔子もキリストもみんな似たようなことを言っているのは当たり前なんだろな。
完全な受身、とは相手に対して、どうこうしよう、どうこうしてやりたい、
というような、~しよう、という意識がない状態かと思う。
講師の玄侑さんが確か、「無意識に生きる」という表現もしていた。
それは“そのような心の状態”が“身についている”ということだ。
見についてるとは、そうしようとしてそういう態度をとるわけじゃない、
自然とそうしてしまう・・・ということかと思う。
いわば、境地の状態がそのまま行為に出るということか・・・
やっぱりたまたま昨夜布団の中で読んだ梅原猛さんの子供向けの仏教の本の、
「仏教はカビ臭いものでなく、自己管理の教え」という章に
「生きとし生けるものはみんな苦しんでいる。
その苦しんでいる原因は愛欲である。
人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。
愛欲の業を観察して、そういう業の世界から脱却する。
それが釈迦の言うところの涅槃、悟りです。」というのがあって、
どうこうしよう、どうこうしてやりたい、という思いは
対象は自分や相手や遠い世界の人やらといろいろだけど、
自他に対しての愛欲というものなのだと思う。
愛欲というのは何も男女間のことだけじゃない。
批判や忠告や注意や心配や不安は全部愛欲から来るものだ。
愛欲がなかったら、そんなものは発生しない。
だから、その愛欲が放せて、完全な受身になれたら自分も相手も自由になる。
そうなるはず・・と思う。
愛欲の業を“観察して”、そういう業の世界から“脱却する”。
言うのは簡単行うは難しでありますね~
草取りやちくちく縫いをしてるときは
愛欲から解放されてる状態なのかなぁと思う。
でもいつもいつも草取りやちくちくだけではいられないのが人生・・・・
さてさて、畑に行って来ます。