ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

荘子の、完全な受身と草取りと・・・

2015-05-21 09:07:45 | 日々の暮らし・思い出
この頃は畑によく行く。

天気のいい日は本当に気持ちがいい。

義父が「畑はい~い・・・」としみじみ言っていたのを思い出す。

畑の通路や花壇の草取りをしているとき、

いわば、無心にやっているという状態になる。

ちくちく縫物をしてる時もそうだね。

義父が畑がいいと言っていたのもそういう意味もあったのかなぁ・・・

どうして草取りをしてると無心状態になるんだろうね。


昨夜NHKで荘子の講座みたいのをやっているのをたまたま見たんだけど、

完全な受け身――それこそが自由なのだ、とあった。

仏教も荘子も孔子もキリストもみんな似たようなことを言っているのは当たり前なんだろな。

完全な受身、とは相手に対して、どうこうしよう、どうこうしてやりたい、

というような、~しよう、という意識がない状態かと思う。

講師の玄侑さんが確か、「無意識に生きる」という表現もしていた。

それは“そのような心の状態”が“身についている”ということだ。

見についてるとは、そうしようとしてそういう態度をとるわけじゃない、

自然とそうしてしまう・・・ということかと思う。

いわば、境地の状態がそのまま行為に出るということか・・・


やっぱりたまたま昨夜布団の中で読んだ梅原猛さんの子供向けの仏教の本の、

「仏教はカビ臭いものでなく、自己管理の教え」という章に

「生きとし生けるものはみんな苦しんでいる。

その苦しんでいる原因は愛欲である。

人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。

愛欲の業を観察して、そういう業の世界から脱却する。

それが釈迦の言うところの涅槃、悟りです。」というのがあって、


どうこうしよう、どうこうしてやりたい、という思いは

対象は自分や相手や遠い世界の人やらといろいろだけど、

自他に対しての愛欲というものなのだと思う。

愛欲というのは何も男女間のことだけじゃない。

批判や忠告や注意や心配や不安は全部愛欲から来るものだ。

愛欲がなかったら、そんなものは発生しない。

だから、その愛欲が放せて、完全な受身になれたら自分も相手も自由になる。

そうなるはず・・と思う。

愛欲の業を“観察して”、そういう業の世界から“脱却する”。

言うのは簡単行うは難しでありますね~


草取りやちくちく縫いをしてるときは

愛欲から解放されてる状態なのかなぁと思う。

でもいつもいつも草取りやちくちくだけではいられないのが人生・・・・

さてさて、畑に行って来ます。

声に出す・・その後

2015-05-19 11:14:47 | 日々の暮らし・思い出
何かをしているとき、しようとしてるとき、この後でしようと思っているとき、

それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)、

やっていると、

やはり効果が感じられる・・・ような感触を持っております。

(手の甲に「口」とか「言う」とか「声」とか書くのはやめました。

書いても書かなくてもあまり変わりがなかったから。)

その時の都合で定位置以外の場所に物をひょいと置いたときなんかに、

「ナンタラをカンタラに置いた」とつぶやくとか、

「ナンタラのために今コレをやっている」とかつぶやいてる。

「この作業の後にアレをする予定」とつぶやいたりするのも効果あって、

それを忘れないでやるよう。


まだ私たちが東京に住んでいた頃、夫が義父に

呆けないための計算ドリルのような本を送ったことがあったんだけど、

それがあったのを思い出して引っ張り出して見てみた。

その本は簡単な計算問題を素早く解くのと、

音読との二つの方法が呆けないためのトレーニングという主旨だった。

やはり、そうなのかも、と思った。

黙読しているときの脳の写真と、音読をしているときの脳の写真が載っていて、

音読の方がずっと脳が活発に動いているという説明があった。

明治時代までだったか、その時期は忘れてしまったけど、

日本人は黙読という習慣はなく、読むときは音読だった、

というのを何かの本で読んだことがあるんだけど、

そのせいもあって多くの人々は今の多くの人より賢かった・・のかもしれない。

勝手な推測よ。

音読が黙読よりなんらかの効果があるとその頃の日本人は知っていたんだろうか・・・

ただ単に黙読がある、というのを知らなかった・・?

そんなはずないね~


でも、自分が自分の思いや行為を口に出すというのは

自分をかなり客観視できる方法かと思ったよ。

ということは・・・

自分をそのときそのとき客観視出来ている間は呆けないということか・・・


けれど、これだよ・・・

それを声に出すというのを意識して(意識するのを忘れてる時以外)・・・


「日常愛とは生活様式への愛着です。・・・・・」

2015-05-17 13:20:44 | 新聞を読んで
それの続き・・・

「戦争や災害の後、人は失われた日常に気づきます。

平和とは、日常を取り戻すことです。」

今日の毎日新聞社会面。

この前亡くなった詩人の長田弘さんが亡くなる前日に語った言葉だという。

「長田弘さん、死の前日、最後の言葉」という大きな見出しがあった。

「・・パトリオティズムというのを

日本では何か高揚したナショナリズムのように受け取っているけど、

欧米では生活様式への愛着を指す言葉で、

愛国心と訳すのは正しくない。・・・・

パトリオティズムは宏量(こうりょう)だが、

ナショナリズムは狭量だ。」

・・・こういう文もあった。


なんだか読んでいて涙がこぼれた。

一人一人が当たり前な毎日を暮らして行けることが平和。

戦争や災害だけじゃなくても、

心はすぐに当たり前じゃなくなるわたし。

でも住んでいる日本は戦争をしてないから、じっくり立ち止まることもできる。

戦禍の中だったらそれどこじゃないだろう。


長田さんの斜め横顔が写っていたけど、

とても翌日死んでしまうような顔をしてないと思った。

「・・・こういう確固とした日常への愛着を、

まだ、ずっと書き続けたかった。」というのがあった。

もうこの人生は終わりなのだとその横顔は知っていたんだろう。

そんなふうに思って亡くなって、あの世に行って、

あの世からこの世はどんなふうに見えるんだろう・・・

いつまでそんなことをしてるのか・・・って思うのか・・・

そんなこと一切思わないのか・・・

この世への愛着、生活様式への愛着、それは何処へ行ってしまうんだろう・・・

本当にわからない。

記号の笑顔と自販機の声

2015-05-16 11:08:21 | 日々の暮らし・思い出
テルモの活動量計というのとまだ真面目に付き合っているよ。

それの画面のことなんだけど、

毎朝それを手に取ると自動的に記号で作った笑顔が出て来る。

(^^)こんなののもっと嬉しそうなやつ。

ハローと英文字でも出る。

それを見ると悪い気はしない。

自分もニコニコしてそれにおはよう♪と声をかけてる。

人は人間ではないものにも顔を見てしまうとか、

赤ちゃんが笑顔を見ると言語野が活発に動くのは、

喋りたい、この人と付き合いたいとかがあるからとか・・・

いうのを前にテレビでやってたけど、

記号でも嬉しくなってしまうのはいいなぁと思った。


自動販売機で「ありがとうございます」なんていう言葉が出て来るのがあるけど、

あれはあまり嬉しくもなんともない。私はね。

耳に心地よくもない。

かえってしゃらくさいって思っちゃう。

でも、嬉しく思う人もなかにはいるかもしれないし、

反対に記号の笑顔見ても、しゃらくさいって、なる人もいるかも。

・・ここまで書いて、

この記号笑顔と自販機声に対する私の受けとり違いは

どこから来るんだろう???って思った。

活動量計というものに人間を感じて、

自動販売機には人間を感じない・・・そうなんだろうか??

いや、自動販売機には、

「買ってもらったから、お礼を言わなくちゃ・・・言えばいいんだろ!言えば!」

みたいに感じてしまうのに対し、

活動量計はこちらが真夜中を過ぎて初めてそれを手に取れば、

ハロー\(^^)/

一日どれだけ歩こうが、歩かないで一日寝ていたって、

翌朝手に取ればハロー\(^^)/。

きっとそのせい???




どうなんだろう・・・???


百ヵ日供養

2015-05-16 09:59:56 | 日々の暮らし・思い出
昨日は百ヵ日供養というのをしました。

義父が亡くなってから約100日が過ぎたということです。

早いねぇ。

真冬だったのに、今は春。それも今日は半袖でも大丈夫。

仏壇の隣に葬式の時の遺影が置いてあって、

その方にどうしても、おとうさん、と呼びかけてしまうよ。

仏壇には戒名が書かれてある位牌と、

彼の焼かれた喉仏が入っている小さな箱があるんだけど、

それに向かっておとうさんと呼びかけるのは不自然な感じ。


義父が居ないのが当たり前の暮らし。

近くの街に出かけて、帰りの時間を気にしなくてよくなった時なんかに

義父が居ないということがわかる。

暗くなると不安になったから、おとうさんは。


私たちが居なくなる不安というのを持ってたんだろうと思う。

もうその心配はないね、おとうさん。






健康ステッパー・ナイスディ

2015-05-16 09:48:09 | 日々の暮らし・思い出
これ、知っている人居るかなぁ・・

BSのコマーシャルでやってた奴で、

ようするに足踏み機械。

踏み下ろす時に圧力を感じるようになってる。

何度かそれを見ていて、夫がそれに興味を示してた。

夫は石橋壊し渡らずタイプなのでなかなか買うと決めない。

そこは私が応援して買おうよ買おうよ!。

で、買ったのであります。

もちろん私も使いたかったからね。

中古とか類似品の安いのとかあったらそれにしようよと言ってたんだけど、

なかったようだったわ。

娘から貰ったレッグマジックサークルはすっかり部屋の風景になってしまい、

今度友人に引き取ってもらうことになっているんだ。

やっぱり・・・ねぇ・・


今度は!?・・・どうなるか???と思いながらチャレンジ。

買ってもう何日にもなるけど、だいたい毎日それに乗っているよ。

彼も私も。

うん、いい感じ。これはヒットかも。

最初はきつかったけど、だんだんもしかしてもしかしてもしかして

脚の筋力がついたのかも、しれない、かもしれない・・・

たとえ部屋の風景になっても、レッグマジックサークルよりずっと

控えめな可愛い大きさだからいいよ・・・


性能悪化故障頻発

2015-05-16 09:30:41 | ひとの幸福
ここに私が年取っただの、老化だの故障だの書いているけど、

仕事を持って多くの若い人たちの間で生きてる人は

そういうことが頭に浮かぶことは少ないかもしれない。

過疎化一途の田舎のここに住んでいると、

周りはほとんどが自分より年齢が行っている人ばかりで、

年取るとあ~なるのかもしれない・・というような思いがどうしても浮かぶ。

以前、インドの医師ディパック・チョプラさんの言葉を書いたことがある。

周りにいる人を見て、

あ~なると確信するから、実際にあ~なる。

こういったもの。

考えてみれば、そういう老いて衰えている人を見なかったら・・・

例えば、周り中全部の年寄りが若い人と見かけが変わらなかったら、

年取ったらあ~なる、の(あ~)が今とは違うだろう。

年取ったら故障する・性能が悪くなる、というデータが自分の身に付かない。

そんなふうに、人間は自分が思った通りの人になる、のだろう。

実際年老いて性能悪化故障頻発ばかり見ていれば・・・・

どうしたって、そうなる・・・?


あのおとうさんを見て感じてここで10年近く過ごした。

あのおとうさんは・・・こんな年になるまで生きているとは思いもよらんだ・・・

というようなことを言っていたことがある。

彼の母親は40そこそこで亡くなり、

父親も70そこそこで亡くなったようだし、

70代に作った彼の句では、年老いた今・・なんていうのもあるくらいだから、

98まで生きるなんて思ってもいなかったんだろうと思う。

それが、生きた。

あんなに罵倒されてた自分の妻の悪口は一切言わず、

自己主張をせず、口数少なく、人を労り、ケチではなく、

畑はいいなぁと草取りをし、

食事の後はあ~美味かったと言い、

特に不満もなく、

・・・こう書くと宮沢賢治の雨にも負けず、みたいだね。

あの詩ほど積極的じゃないけども。

こういう人を見てたので、あ~なる、と、

私の身に付くことはないような気もする今日この頃です。

お手頃な楽しみ

2015-05-13 13:20:09 | ひとの幸福
自分という人間の人生に興味や関心があるというのは、

お手頃でいいなと思ったよ。

興味の対象はさまざま変わって来た。

ナンタラに夢中な時もあればカンタラに夢中な時もあり、

ナンナンタラに関心を持っていろんなことをしたり、

カンカンタラに関心を持ってそれをしてきたり、

いろんなことをして来たし、

これからもそういうことはあるだろうけれど、

その、どれものナンタラカンタラに関心がなくなってきたり、

関心があってもそれを出来なくなったりして、

対象物、対象事がなくなることで、人生がつまらなくなるのはつまらないけど、

自分という人が在る間は、自分が意識できる心や身体という対象があるわけだから、

それを楽しめるんじゃないか、と思うよ。

それもやはり自分に何らかの意志がなければ出来ないことのような気もする。

待つのは・・・

2015-05-13 11:18:58 | ひとの幸福
どこそこのガンだとか、脳梗塞になったりした時にも

仕方ないときちんと諦められるか、楽しみではある。

これからの人生いろいろと故障やら異常やらが現われてくるだろうから、

そんな時、どんな自分が現われるか・・・

楽しみに待っていよう。

…この前書いた奴だけど、これを読んで、

違和感を感じたり、そんなこと言ってぇ~・・なんて思う人も、

もしかしているかもしれない、と思った。

人それぞれだからいろいろだろうと思う。


ガンになる人は3人に1人だとか2人に1人だとか、聞く。

脳梗塞になる人も多いし、認知症になる人も多い。

どんな病気か事故か怪我かわからないけれど、人は必ず死ぬのだから、

自分がどう老いてどう死んで行くのかは65才になった今、興味はある。

そういうことを何も思わず死んでいくのもいいけれど、

ドラマを見てるみたいに、私の心や身体がどういうふうになるのか、

楽しみに待つというのもいいんじゃないかなぁと思う。

こんなこと書かなくったって、

勝手にしてればいいだけの話だねぇ。


中高年の楽しみ

2015-05-10 15:24:50 | ひとの幸福
この前、最近年取ったせいか身体に関心が行くようになった、と書いた。

そう。こう思うより前は身体なんてものは私の意識になかった。

花粉症と腰痛という身体の状態はあったけども。

花粉症歴35年位だけど、それに悩んだことはないなぁ。

真夏以外鼻水が絶えないので、まぁ、故障だし、

面倒くさいとは思うけど、仕方ないと諦めて治療もしてない。

腰痛も時々起るけれど、それも仕方ないのでだましだましやってる。

左のお尻は常に普通じゃない感覚。

レントゲンで調べてもらったことあるけれど、

何かが変形してるそうだ。その写真を見せてもらったけど、

確かに右と左ではその部分が明らかに違ってた。

これも仕方ないと諦めてる。

こういういろんな身体の異常を認めてはいるなと思うけど、

どこそこのガンだとか、脳梗塞になったりした時にも

仕方ないときちんと諦められるか、楽しみではある。

これからの人生いろいろと故障やら異常やらが現われてくるだろうから、

そんな時、どんな自分が現われるか・・・

楽しみに待っていよう。


登山の翌々日と翌翌々日

2015-05-10 14:58:32 | 日々の暮らし・思い出
先日の登山のこと書いたけど、

登山の翌々日と翌翌々日は夜十分に寝ているのに、

昼間猛烈に眠くなり、昼寝をたっぷりした。

なんでこんなに眠くなるのか・・・なんでだろと思った。

このところ、昼寝なんてほとんどしていない日常なんだよ。

それが昼寝・・・・・う~ん・・登山以外考えられない・・・・

いきなりの山登りで身体はびっくりし、それでも身体としては

精一杯頑張りに頑張った・・・

そのせいで、休みた~いと身体が望んだんだろうか・・・

二日続けて昼寝してその後はもう大丈夫だ。

ただ、登山の翌日の午後にちょっと畑仕事した後、

腰が・・・痛くなったのだった。

午前中はなんともなかったのに・・である。

年を取ると疲れが出るのが遅くなると聞いたことがあるけど、

やっぱりそれかと思ったよ。

こういうの初めて。


昨日か今日の新聞で作家の高村薫さんという60代の人が書いてたけど、

身体が不調になってもそれを老化ととらえず、

故障だと思っている、とあった。

そうだよなぁ。

年取ったからと捉えれば、年取ったから、になるし、

故障だ、と捉えれば、今は故障してるだけで、

修理すれば元通りになるし、

元通りにならなくても、故障が続いているだけと捉えれば、

その人にとってはそうなのだ。

自分のことを年取った、と決めるのは自分であって、他人じゃない。

そう決めてもいいし、決めなくてもいい。

心は自分で選べばいいんだよね~

でも、日々の暮らしで年取ったという言葉を使った方が便利な時は使えばいいし、

表現するしないは自由だね。

登山してきたよ

2015-05-07 08:36:50 | 日々の暮らし・思い出
五日の日にこの町の山歩きのグループが主催した登山に夫と参加した。

登山なんて本当に久しぶりだ。

北アルプスとかじゃなくても登山って言っていいんだよね。

気持ちよかったぁ。

この地はいつも書いてるように山と海に挟まれたところだから、

幾つもの山があるのである。

この窓からも隣の部屋からも山ばかり見える。

だから、山に登るために電車に乗ったりしなくても

登れる山がある、ということだ。

豊かだね~。

標高661メートルの山でこの町のなかでは一番高いみたい。

けど、登山口自体が結構高い所だから、

実際上ったのはそれほどじゃないんだけどね。

往復で4時間歩いた。約1万6千歩。

始める前にはラジオ体操。下りてからはストレッチ体操。

このストレッチというのがよかった。

やった後身体がとても軽くなった。

身体って凄いなぁと思ったよ。


この山歩きには一人で参加しようと思ってた。

夫は膝の半月板がどうしたこうしたとかだし、

腰もよくないし、普段もそんな理由で歩いたりもしてないから、

登山なんて絶対参加しないと思っていたんだ。


この前、夫に、あなたは私と一緒に人生を楽しむ義務があるんだよって、

冗談で言ったことがあって、

その義務発言を気にしてるのか、聞いたら、

気にはしてないけど、

それがいくらかは効いたみたいなようなこと言ってた。

実際4時間も山を歩いたのに身体はどこも大丈夫だったようで、

やってみなけりゃわからないね。

夫は石橋を叩いて渡るつもりが、石橋を叩き割ってしまうほどの慎重派で、

(自分でもそう言ってる)

私は夫が言うには、(向こう見ず)だから、

二人でちょうどいいんだよって言ってた。

そうなのかどうなのか私にはわからないけど、そうだね~と。

その夫が今度登山用のストックを買おうと言ったよ。

ということは・・・又登ろうと思ってるんだねぇ。


心と身体と人にはあるけど、年取ったせいか、最近、

身体に関心を持つようになった私だ。

何と言っても(心)が先じゃないか、って思ってたけど、

心と身体はサイクルで互いに影響しあうもんだ。

身体に興味が湧いてきた私です。

声に出すこと

2015-05-07 07:53:56 | 日々の暮らし・思い出
(何かをしたか、しなかったか、忘れてしまうので・・・)

『そうだ、声に出すことだ!と

思い至ったのであります。』と先日書いた・・・

その後で友人夫婦の訪問あり、そういう類の話をしたら、

友人は笑い転げ、そして・・・

「トココさん、前も声に出すって言ってたよね~(^^)」と!!

えーっ!!そんなことあったっけ???


意識的にやる、とは思って、車のハンドルに

“意識的に発進・バック”とマスキングテープに書いたのを貼っているし、

畑では(ハサミをここに置いた)とか“思いながら”置くというのはやっていて、

それは割と出来てるけど、

声に出す、ということは初めてだと思ったのに・・・

そんなことを話したんだろうか!!???

そんなことを思ってそう話したんだろうか???

鉄道員の指差し点呼はその通り口に出すんだから、

その話をしたのは憶えているし、このブログにもその話は書いた記憶がある。

それなのに、自分では声に出す、というのをしていなかった。

声に出そうと思ったけど、思っただけでそれをするのはすっかり忘れていた・・・

そういうことなんだろうか・・・

あ~ぁ、何もかもが霧の中であります。

まぁ、そういうことなんだから仕方ないね~。

二日にここへ書いた後、手に(口)と書いたり、(言う)と書いたりしているけど、

その手を見ないから?それを実際にするのは本当に稀で、

あっ、やってない・・・あっ、やってない・・・と、

やってないことは時々気付くのであります。

じゃあ、手に書くんじゃなくて・・・と、

具体的方法を探そう・・・・と・・・・。

田舎と街

2015-05-02 13:39:49 | 日々の暮らし・思い出
昨日はここの自治体がやってる小さな図書室に夫と行った。

行く道中は新緑の山の中。

綺麗だなぁ・・いいなぁ・・ってずっと助手席で感動してる。

スーパーに行くんだって山と海の間を走っていくんだよ。

この地に生まれた人じゃなくてよかったなぁと思う。

生まれた時からこの地に居たら、

こんなふうな自然の姿にいちいち感動してないんじゃないかって思うから。

いや、この地にずっといてもそういう人もあるかもしれないね。


反対に、車で一時間かかる街に出かけたりすると、思う。

図書館があっていいなぁ・・・

ホームセンターがあっていいなぁ・・・

耳鼻科医院があっていいなぁ・・・

自転車屋さんがあっていいなぁ・・・

坂道ばかりじゃなくていいなぁ・・・

外食する店がいっぱいあっていいなぁ・・・

電車にすぐ乗れる駅があっていいなぁ・・・

リサイクルショップがあっていいなぁ・・・

カラオケ屋があっていいなぁ・・・


家に帰る道中、新緑の山やきれいな川を見る。

いいなぁ・・