この前、小さな人、孫の言動にかなり腹が立ち、
どかんとやった。やりながら腹が立ってるなと思った。
何か悪いことをしたり、傷つけるようなことをしたならともかく、
不意打ちのようにいきなり怒鳴るように言われるのは心外だ・・・・
というようなことを強い調子で言ってやった。
孫はシ~ンとなり押し黙った。
そのことが不本意なら黙っているような人ではない、と思った。
もう一人の小さい人はえへらえへらとして私の様子を見ている。
怒鳴り終えても、そこにあった乾いた洗濯物をバシンバシンと音を立て、
テーブルに投げつけた・・ながら畳んだ。
ようするに腹立ちまぎれの八つ当たりだ。
後で小さな人がごめんなさい、と言ってきた。
何がごめんなさいなの?と聞いたら、
怒ったこと、と言ってた。
つい本当かな?と思ったけど・・・
腹立ちによるこの叱責の効果はいくらかはあった・・とは思う。
けれど、それは力による抑圧だ。
(なんせこちらは権力も腕力もある)
力による抑圧が一概に悪いとは言えないと思うけれど、
必ず副作用を生むなぁ・・と思った。
小さな人がそういう理不尽な行動をしたのも、
そうなるプロセスがあったと思うし、
生まれながらの性向というのもあるとは思う。
その人だけでそうなったわけじゃない。
でも、二度とそういうことはしてほしくないという願いの実現方法としての、
力による脅しや抑圧は、必ず副作用を生む。
けれど、抗議や要望があるなら出していかないといけない。
それが怒気を含んでいるか、含んでないか、が
副作用を生むか生まないかの分かれ目かと思う。
怒気が含まれてしまうのは、無意識のうちの判断のことだけど、
その出来事をその人個人だけのこととしてとらえているから・・と思う。
あってほしくない行動もその人ひとりで創ったもんじゃなし、
そうなったことはそうなるべくしてなった、と心底わかってれば、
その人個人を責める怒気は生まれないのかも・・と思う。
頭でわかって実践できるに練習要る、で、
楽しみであります。
けれど、こんな小さな人とのやり取りも、
国と国とのえらいさんのやりとりも同じなのかと思うよ。
で、世界平和は個人の心の平和からしか生まれないのではないかと。
全体の平和は個人の平和から・・・
個人の完璧な平和は世界全体の平和から・・・
一日一歩♪三日で三歩♪三歩進んで二歩下がる♪
これだったら平和はすぐなんだけど・・・・・