えーっと、こんなふうないちいちの動作(一挙手一投足)を真実の色に染め上げる・・
とはどういうことか・・・??
真実の色に染め上げる、とは、今までのそれが真実ではないとの自覚がなければ、
始まらない。
自分のしている動作が真実なのか真実でないのかわかっていなければ、始まらない。
鼻を噛むという動作は私の快適さ幸福感に繋がっている。
まぁ、たまたまこんな例を出したけど、どんな動作であっても、
今しているこの動作、この意識に自覚があるという前提がこの言葉にはある。
いちいちの自分の意識、動作に自覚がないと『一挙手一投足』という言葉は使えない。
そして、『真実』という言葉は
その快適、その幸福が不幸に再びならないところの幸福に
繋がっているものをその言葉で云っているのかなと思う。
例えば、夫に向けようとしている、今のこの言葉、この動作は
二人が快適、幸福になることに繋がっているか・・・
この言葉この動作を受けて夫はどう反応するかを描いてそうしているのか・・・
そしてそれは二人だけのことに留まらない。
同居の義父はもちろん、子供や孫や友人やそれにつながるすべての人と繋がっている。
生命の動的平衡という在りようで。
『動作』ではなく『行為』という言葉にも動作という意味が含まれている。
『行為』の意味はおこない。しわざ。
広義では、人間のあらゆる動作を意味し、
狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て
意識的に行われる意志的動作で、善悪の判断の対象となるもの。
再び不幸になることのない幸福な社会を目指したいなら、
社会の一番小さな基である一人一人の人間の行為が
真実ではない方から真実の方へ変わることだと思うし、
これはそうしたい人がやるだけのことで、他の人にどうこう言うことでもないし、
他の人がなってくださいとかいうもんでもないし。
そういう願いを持って、すべての動作・行為が狭義の意味での行為になるのはすごいことだと思う。
それは、自分の意識に常に自覚がある状態にならなければ出来ないことだ。
こういう状態のことを彼は完全メンバーとか言ったのだろうかと思う。
完全メンバーが10人いたら・・日本が変わり世界も抜本的に変わる。
夢遊病者状態からは遠いなぁ。
私は行えてありませんが・・という言葉が彼にあったけど、
そう言った相対者である彼とこの条理を引き離して読んでねということなんだろうし、
行えてないと言えるということは、行えてないと自覚できている、
自分の意識を常に観察しようとしていた、
ということでもあるのかと思う。
とはどういうことか・・・??
真実の色に染め上げる、とは、今までのそれが真実ではないとの自覚がなければ、
始まらない。
自分のしている動作が真実なのか真実でないのかわかっていなければ、始まらない。
鼻を噛むという動作は私の快適さ幸福感に繋がっている。
まぁ、たまたまこんな例を出したけど、どんな動作であっても、
今しているこの動作、この意識に自覚があるという前提がこの言葉にはある。
いちいちの自分の意識、動作に自覚がないと『一挙手一投足』という言葉は使えない。
そして、『真実』という言葉は
その快適、その幸福が不幸に再びならないところの幸福に
繋がっているものをその言葉で云っているのかなと思う。
例えば、夫に向けようとしている、今のこの言葉、この動作は
二人が快適、幸福になることに繋がっているか・・・
この言葉この動作を受けて夫はどう反応するかを描いてそうしているのか・・・
そしてそれは二人だけのことに留まらない。
同居の義父はもちろん、子供や孫や友人やそれにつながるすべての人と繋がっている。
生命の動的平衡という在りようで。
『動作』ではなく『行為』という言葉にも動作という意味が含まれている。
『行為』の意味はおこない。しわざ。
広義では、人間のあらゆる動作を意味し、
狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て
意識的に行われる意志的動作で、善悪の判断の対象となるもの。
再び不幸になることのない幸福な社会を目指したいなら、
社会の一番小さな基である一人一人の人間の行為が
真実ではない方から真実の方へ変わることだと思うし、
これはそうしたい人がやるだけのことで、他の人にどうこう言うことでもないし、
他の人がなってくださいとかいうもんでもないし。
そういう願いを持って、すべての動作・行為が狭義の意味での行為になるのはすごいことだと思う。
それは、自分の意識に常に自覚がある状態にならなければ出来ないことだ。
こういう状態のことを彼は完全メンバーとか言ったのだろうかと思う。
完全メンバーが10人いたら・・日本が変わり世界も抜本的に変わる。
夢遊病者状態からは遠いなぁ。
私は行えてありませんが・・という言葉が彼にあったけど、
そう言った相対者である彼とこの条理を引き離して読んでねということなんだろうし、
行えてないと言えるということは、行えてないと自覚できている、
自分の意識を常に観察しようとしていた、
ということでもあるのかと思う。