ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

一挙手一投足真実の色に・・・②

2014-04-30 11:00:33 | ひとの幸福
えーっと、こんなふうないちいちの動作(一挙手一投足)を真実の色に染め上げる・・

とはどういうことか・・・??

真実の色に染め上げる、とは、今までのそれが真実ではないとの自覚がなければ、

始まらない。

自分のしている動作が真実なのか真実でないのかわかっていなければ、始まらない。


鼻を噛むという動作は私の快適さ幸福感に繋がっている。

まぁ、たまたまこんな例を出したけど、どんな動作であっても、

今しているこの動作、この意識に自覚があるという前提がこの言葉にはある。

いちいちの自分の意識、動作に自覚がないと『一挙手一投足』という言葉は使えない。

そして、『真実』という言葉は

その快適、その幸福が不幸に再びならないところの幸福に

繋がっているものをその言葉で云っているのかなと思う。


例えば、夫に向けようとしている、今のこの言葉、この動作は

二人が快適、幸福になることに繋がっているか・・・

この言葉この動作を受けて夫はどう反応するかを描いてそうしているのか・・・

そしてそれは二人だけのことに留まらない。

同居の義父はもちろん、子供や孫や友人やそれにつながるすべての人と繋がっている。

生命の動的平衡という在りようで。


『動作』ではなく『行為』という言葉にも動作という意味が含まれている。

『行為』の意味はおこない。しわざ。

広義では、人間のあらゆる動作を意味し、

狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て

意識的に行われる意志的動作で、善悪の判断の対象となるもの。


再び不幸になることのない幸福な社会を目指したいなら、

社会の一番小さな基である一人一人の人間の行為が

真実ではない方から真実の方へ変わることだと思うし、

これはそうしたい人がやるだけのことで、他の人にどうこう言うことでもないし、

他の人がなってくださいとかいうもんでもないし。


そういう願いを持って、すべての動作・行為が狭義の意味での行為になるのはすごいことだと思う。

それは、自分の意識に常に自覚がある状態にならなければ出来ないことだ。

こういう状態のことを彼は完全メンバーとか言ったのだろうかと思う。

完全メンバーが10人いたら・・日本が変わり世界も抜本的に変わる。

夢遊病者状態からは遠いなぁ。

私は行えてありませんが・・という言葉が彼にあったけど、

そう言った相対者である彼とこの条理を引き離して読んでねということなんだろうし、

行えてないと言えるということは、行えてないと自覚できている、

自分の意識を常に観察しようとしていた、

ということでもあるのかと思う。









一挙手一投足真実の色に・・・①

2014-04-30 10:17:59 | ひとの幸福
一挙手一投足真実の色に染め上げて行きます…

正確にこういう言葉だったのか、今はっきりしないんだけど、

山岸さんの言葉なんだろうか?それとも誰か他の人の言葉なのか・・

まぁ、誰でもいいんだな、考えて見れば。

この言葉が言っていることはどういうことなのか?という?が、

私の“わからないもの入れ”に入っている。

私の意識の何処かに「わからないな」と思ったことが入っている入れ物があって、

何かの拍子に(あ、あのことはこういうことだったのか・・!)

・・みたいな納得があることがある。

そのことがわからないとわかっていれば、

いつかその答えがやって来ることもある、そんな勝手な感想を私は持っている。


ま、それはどうでもいいんだけど、この前、

忘れる事と絡めて意識の“自覚状態”について考えた後に、

その事と、この言葉が言っていることは繋がりがあるんじゃないか・・・が浮かんだのだった。

それをゆっくり書くような状態が暫らくなかったので今、書きだした。

嬉しいな。ルンルン・・


『一挙手一投足』の意味は

①わずかな労力。少しの努力。

②こまかないちいちの動作。一挙一動。

この場合、②の方の意味だろう。『行為』よりももっと具体的だね~

たった今、私は鼻をかんだ。この動作はこまかないちいちの動作と言える。

どうして鼻をかんだか?・・鼻が痒くて鼻水も出そうになったから。

それでどうしてその動作をしたのか?・・

痒いままで居たくなかったから。

何故?・・痒いより痒くない方が快適だから。

鼻水が自動的に垂れるのを防ぎたかったから。

何故?・・垂れるより垂れない方が服も汚れず、快適だから。

まぁ、こんなふうにこの動作も私の快適さ、幸福感に繋がっている。

こう書くと、痒いより痒くない方、汚れるより汚れない方、とか

相対的に意識がそっちを選んでいるということで、

絶対的な快適さとか幸福ではないけれども。

絶対的な幸福はこれを超えるもの。・・・

えーっと、これはちょっと脱線だから、もうやめにして・・・

えーっと、こんなふうないちいちの動作(一挙手一投足)を真実の色に染め上げる・・

とはどういうことか・・・??


おとうと来訪

2014-04-29 09:45:00 | 日々の暮らし・思い出
娘が東京に戻ったその日に東京の弟がこの家にやってきた。

遠い姉の家になんかわざわざ来るわけはないだろうなと思っていたのだったけれど、

去年の母の葬儀のとき、弟に美しいところだから暇になったら遊びに来てと声をかけたら、

えっと驚くような顔をして「行くよ」と答えたのだった。

定年になって五日目にここにやって来た。

新幹線にも乗って来たのだけれど、旅の趣味もなく、

一人で電車に乗って遠くに出かけるという経験がほとんどなかったよう。

切符がとれたら行く日を連絡すると電話で言ってきて、

予約なんてしなくても東海道新幹線は5分か10分おきに出ているから、

東京駅に行けばすぐに乗れるよ、と言うと、

へぇそうなのかと驚いていた。

とてもこの時代を生きてきた人とは思えないなんて思ったけど、

関心のないことにはセンサーも働かないので、

そうなんだなと思った。

兄弟といっても本当に何もかも違う。全く当たり前のことだけど。

最初の結婚をするまでは同じ家に暮らしてきた仲だけど、

それからの40年近くは会っても年に一度くらいで、

その上、特別話をするわけでもないし、

この人がこの人生で何を思って生きてきたのか、

どんな好き嫌いがあるのか、何かに対してどんな感想を持つ人なのか、

どんな人生観を持っているのか、他の何もかもを私は全く知らないのだ。

いたずらっ子で気が優しくて音楽が好きで勉強のよくできる子だった。

大人になってから母から聞いた情報は

「あの子の車の運転はお前やМ(兄)よりずっと安心して乗っていられる」だった。

亡くなった母は弟を愛していた。可愛がっていた。

もちろん私も愛されたと思っているけど、

可愛がられた、という印象はない。

彼は母をいつまでも慕っていたようだ。


今回三日間だけだったけど、同じ屋根の下に暮し、海や山を見、

共に食べ、飲み、語った。

楽しい時間だった。

彼は小さい時のまま気が優しかった。

そして、弟はこんなふうな人になっていたのだなぁと思った。

これからの人生の時間の中でどのくらいこの人と共に居る時間があるのかわからないけれど、

そういう時を持てたら、その時間を慈しんで使いたいと思った。












何日か振りの言葉・・

2014-04-23 10:04:46 | ひとの幸福
夫の弟夫婦が来たり、姪の結婚式があったり、娘が来ていたり、して

パソコンに向かう時間がなかったなぁ。

この間も相変わらず反省する事多し。

野山は新緑の真っ最中だ。

新緑が私を待っている、そんな感じがあるんだけど、

新緑の道を一人で歩く暇がない。

・・・今、ここまで書いていて思った事・・

『新緑の道を一人で歩く暇がない』という自分の言葉に対して、

自分で、いや、その暇を作る気がない状態なだけで、時間自体はある、

・・みたいな思いがやって来るというこの現象はどういうことか・・?

『新緑の道を一人で歩く暇がない』という言葉を含め、どんな言葉も

事実を表わしているのじゃなく、

“思い・認識”を表わしているものなのだから、

「・・暇がない」それで終わりにしたらいいのに、

実際にその時間を作ろうなんて思いは湧いて来なかったんだしねぇ。


暇という時間が無いんじゃない、

単にその気が起こらなかったということなんじゃないか・・・

それを時間がなかったと片付けてしまうことに

抵抗があるんだろうな・・・

やれやれ・・・

こんな文章をいちいち五月蠅いと思う人もあるだろうなぁ。

心の動きをすぐ分析してしまう癖があるんだろうなぁ。

いやいや、日常そういうふうに反応してる瞬間は、

自分の反応だとかには気が付いて居ず、

分析なんかしてないし、出来ないんだけど、

こうして今この瞬間思いをただ書き出すとこういうことになってしまう。

だから書くのが面白く感じるんだろうな。

今日は娘と二人で出かけてくる。

どんな気が起こるかなぁ。




女優やタレントの名前を忘れることについて

2014-04-17 15:46:36 | 日々の暮らし・思い出
女優やテレビに出てくるタレントの名前を忘れるのはどういうことかというと、

それは単に知識というか、情報を忘れるということで、

自分の行為とは関係しない。

その人に手紙を書くとか会いに行くというようなことなら関係してくるけど、

テレビや映画を見るという行為には女優の名前を忘れてもどうということはない。

そういう知識や情報は知恵へと進まない。

なので・・・自分の人生に関係ないから気にすることはない。

そういうことにしよう・・・・・

ハサミの置き忘れから思うこと・・・・行為の目的

2014-04-17 12:00:00 | ひとの幸福
・・・ハサミの在り処は直接次の作業にかかわるので、

何処に置いたか覚えていないと日常生活に差し障る。

以前もこんなふうにハサミの置き忘れは経験したことがあるけど、

忘れちゃったと思うだけで、

無自覚に置いたな、無自覚にしちゃったな、と反省する事はなかった。

・・・昨日書いたコレを読んで思ったよ・・・・・

ハサミを置くという行為にも目的がある。

そのハサミを又使って、また何かを切りたいというのがある。

その目的を実現するのにハサミが要るのに、

その在り処がわからないと何処にあるか探さないといけないので面倒くさい。

こんなふうにハサミを置くという行為は次の行為に繋がっている。

どんな行為も次がある。

何かを切りたいというのはそれが庭の山茶花だったら、

来年も花が咲くようにとか、他の木の邪魔になるからとか、

風通しをよくしたいとか、という目的があるためだし、

その目的にはまだその上に目的がある。

庭全体の調和を考えて美しく健康な庭にしたいという目的がある。

何故そうしたいのかといえば、

結局のところそれを見る人が快適に感じるように、ということになるかと思う。

もちろん木も健康に育つように。

これが畑の夏ミカンの木なら、

実がたくさんなるようにとか、美味しいミカンになるようにと。

それは食べる人が快適になる、という目的に繋がる。

どんな行為もひとの幸福に繋がっている。

ハサミを置くという行為もそんなふうにちゃんと目的に繋がっている。

その目的に自覚があれば、そうなるように行為するだけなのかと思う。

それを無自覚にしていると、

こうして私みたいに忘れるという現象になるのかと思う。

若いうちは無自覚にしていても忘れないのは脳がまだまだ若いからなのかもしれない。


人は誰でも毎日朝から晩までいろんな行為をしている。

行為の前には必ず意識の動きがある。

自分の意識を見張るとか、観察するとか、注意深く見るとか、

内面を見つめるとか、内観するとか、

そういった内容のことは釈迦の言葉にもユングの文章にもアダム・スミスの言葉にも、

その他にもたくさん伝えてくれてある。

それは人間の一番基である心を観ているかな、自分の行為の目的を知っているかな、

そしてそうなるようにしているかな、

というような趣旨なんだろうかなと思う。

山岸さんのあの青い本にもそれを意味するたくさんの言葉が散りばめられている。

自分の心を観るのは自分でしかできないもんね。

「俺がやらずに誰がやる。今やらないでいつやれる。」だね。



忘れない方がいいこと

2014-04-16 13:40:07 | 日々の暮らし・思い出
午前中畑に行った。

剪定ばさみを使った後に無意識的に畑の小屋の引き出しに入れてたよう。

そこが定位置なのでそれでいいんだけど、

しまったことの確かな記憶がなかった。

一度使ってその用事が終わって、又使いたいと思った時、

「アレ?さっき使った後、どこに置いたっけ?」。

やれやれ・・・

最初に使った下の方の畑に見に行こうと思ったけど、

行く途中に小屋があるので、まずその引き出しを見たら在ったのだった。

無意識的にその引き出しにしまったのは、

車を運転してる時に無意識的にアクセルペダルを踏むのと同じような意識状態かと思う。

ただ、アクセルペダルを踏んだ後に

さっきアクセルペダルを踏んだけど、どこで踏んだんだっけ?とか

アクセルペダルは何処だっけ?

なんていう思いをすることがない事はハサミとの違いだ。

アクセルペダルの位置は動かせないからね~

いや、それも認知症がひどくなるとそういう展開になることもあるかもしれないなぁ。

認知症のことをよくネタにしてるけど、

意識に関心があるもんで、認知障害なんてのはほんとに興味あるんだ。


何処にでも人についていけるハサミの在り処は直接次の作業にかかわるので、

何処に置いたか覚えていないと日常生活に差し障る。

以前もこんなふうにハサミの置き忘れは経験したことがあるけど、

その時、無自覚に置いたな、無自覚にしちゃったな、と反省する事はなかった。

ただ忘れちゃった、だけで。

無自覚に置いたことを自覚できるようになったから以前よりマシかと思ってる。

これからも無自覚に行為してしまうことは多いだろうけど、

無自覚に行為しての結果、面倒くさい思いをたくさんして、

また、そうしてたなと自覚することをたくさん経験して、

そのうちいくらかマシになるだろう。




「いかなる思想も哲学も捨てる」・・経集837 

2014-04-15 15:36:15 | 本を読んで
「君よ、私には「私の考えは○○である」という思想などありはしない。

いかなる思想にこだわり(執着)を持ったとしても、

執着からは苦しみが生じるから。

あらゆる考えとあらゆる思想には、心を乱す性質があると気づいて、

私はいかなる考えをも、つかまない。

私は、哲学や思想を捨てて、坐禅瞑想し、

内面の安らぎを見出したのだから。」

・・・「これも超訳ブッダの言葉」の中からです。

これはこの本の大きな章の『悟る』というもののなかにあった。

タイトルにある、“捨てる”ということが出来るには、

その前に持っていなければならない。

持っていなければ、捨てるということは出来ない。

釈迦はいろんな思想、哲学をたくさん勉強・研究したのだろうと思う。

釈迦が生まれる前からインドには

古代哲学がすでに存在してたんだと思うし。


持ってない状態(子供の頃とか研究以前)だった時を経てから、

勉強研究して、知った考えに共鳴したり、反論が生れたり、の状態になり、

共鳴した考えや研究結果を、

これが正しいとそれに執着し(持ってしまい)、

その考えとは異なる考えに面した時にその考えを受け容れられず、

心が苦しむというような経験を

釈迦もいっぱいしたのだろうと思う。

そういう経験を経て、世界中の幸福、人間の幸福を願っていた釈迦は

執着していた自分に気づき、

この経集にあるような思いに至ったのかと思う。

ブッダとなった釈迦のこの境地は彼に接する多くの人たちを癒したと思う。

そのまんま、在りのままでいいんだと

釈迦はどんな人もまずは受け容れたと思う。

どんな考えの人だろうとブッダは受け容れたと思う。

その後で執着のない境地から、伝えたいことを伝えたのかと思う。

世界が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間が再び不幸になることのない、幸福になるように。

人間の行為行動が根本的に変わるのは境地が変わる事によって。

そしてそれはブッダが云うように「内面の安らぎ」を見出すこと。

山岸さんが「百万人のエジソンを、

千万人の釈迦、キリスト、カント、マルクスに優る人を」

という言葉を残している。

釈迦やキリストはエジソンの10倍の数ということも興味深いね。

その章に、『何を置いても、この人間の本質改良に出発せざるを得ないでしょう。』

というのもある。

何を置いても・・・という表現は何を云っているのか・・・

・・・何を置いても、か。

人間の本質改良に成功した釈迦は瞑想坐禅という方法によって・・・らしい。

山岸さんはそれ以外の方法で、

内面の安らぎ(無所有の境地)になる道を探し、みつけた。


速飯喰らい 

2014-04-14 16:15:28 | 実例体験観察
「速飯速糞芸のうち」という言葉があるけど、

糞はそれほど速くはないと思うけど、速飯喰い芸を持っている私であった・・・

一緒に食事していて落ち着かない、と夫に何度か言われたこともある。

そうか、それは申し訳ないと思って、

今までそれを改正しようとそれなりに手を打って来たけど効果は続かなかった。

ところが最近超速ではなくなって来た。

夫にそういう感じがしないか?と聞いたところ、そういえばそうだ、との返事。

やったぁ!と思ったよ。

これで少しは落ち着いて食事をしてもらえるやもしれず。


針山に針を戻した、とか、眼鏡をここに置いた、とか、

行為をするその時に、そう意識的に思うと、結構その行為を忘れずに居られるようになった、

という現象が始まったのと同時期だったような気がする。


前に書いたんだけど、「針山に針を戻したことを“覚えておこう”」、

みたいに思っていた自分に気が付いたことが大きい。

量子力学でいう、粒子の性質である“見ようとすると見えない”、

そういう思考をしてたからだ、

とわかった時期から、そうなったように自分を観察している。


覚えておこうとする、思考ではそのようにならない。

ゆっくり食べようとする、思考ではそのようにならない。


“~しようとする”という思考では、そのようにならない。

“~しよう”という思考は今この瞬間についてのことじゃなく、

近くても遠くても今ここから先の未来についての思考。

「明日出かけよう」とか、「これからあれをしよう」というような。

私の「覚えておこう」という思いが役に立たなかったのは、

今この瞬間に覚えておかなくちゃならないことを、未来に“しよう”としていたからなんだ。

やりたいことを先延ばしにしていたのは自分だった。

・・で、食事がゆっくり食べられるようになったのは・・・?

「ゆっくり食べよう」としてた自分から、

そんな場違い、時違い、な思考ではなく、

今、ご飯を口に入れた、噛んでる、これはこんな味、・・・

・・そんな思いで居るその都度の自分を自覚するようになったからかと思ってる。

さて、これが続けば本当に速飯喰らいから卒業できるか!?

速飯が悪いわけじゃないよ。

急ぐときには超便利。





忘れること

2014-04-13 16:11:51 | 日々の暮らし・思い出
このタイトルはなんだかお馴染みだね~

テレビを見てそこに出ている女優とかの名前が出てこない、そういう忘れることと、

さっき使ってた鋏をどこに置いたか忘れることは同じ『忘れる』だろうか、

ということが、さっき夫と話題になった。

夫からは違うんじゃないか・・という見解。

どこがどう違うのか分からない私は考えようとこうしている。

上に書いた鋏のような忘れでこの頃よく思うこと・・・

今、待ち針を針山に戻した、とか、ペンキ塗りの刷毛をシンナー液が入っている缶に入れた、とか、

その瞬間に「コレコレこの行為をした」と、

意識的に確認した時はやはり覚えているようだ。

行為を無意識にしてると、忘れやすい。

最近の自分を観察するとそんな感じ。

若い頃は無意識的にしていてもそんなふうではなかった・・んじゃないか・・・

わからない。忘れた。


車の運転で、スタートの時はギアをローに入れるとか、

スピードを上げる時はアクセルペダルを踏むとか無意識的に身体が動く。

そのつど今アクセルペダルを踏む、なんて意識してない。

いわば、自然にやっている。

で、認知症がひどくなると車の運転の仕方も忘れてしまうのかなと思う。


事故を起こしたくないから、この頃は発進、バックの時はかなり意識的にやってる。

意識的にやる、ことが自然にできるようになれればいいな、と思ってる。

炊飯器の蓋の開け方閉め方がわからない、という、

アルツハイマーの人の場面をテレビで見たことがある。

鋏をどこに置いたか忘れたというのと同じようなものか・・・?

どちらも自分がしたことのある行為を忘れてしまうということだろう。

けれど、鋏云々の場合、どこかに置いたということはわかっているということだ。

炊飯器の蓋の開け方について、どこかをいじれば開くというような、

開け方閉め方が存在するということはその時期のアルツハイマーの人は覚えているんだろうか。

開け方閉め方はあることはわかっているけど、

どういうふうにやるのか忘れた、という感じなのか・・・?

その人は炊飯器の前で呆然としていた。

症状が進むと、炊飯器を開けてと言われても何を言っているのかわからなくなるのかもしれない。


この前のNHKの「人体ミクロの大冒険」で、

細胞から出るオキシトシンというホルモン物質を自閉症の人の体内に入れると、

心が変わったというのがあった。

忘れるということも何かの物質(薬的なもの?)を体内に入れると

忘れにくくなるというような発見がこれから出てくるかもしれない。

そういう、物(薬・ホルモン物質)が心に作用する事とは逆の、

心の働きが身体という自然物に作用する例として、

“行為を自覚して行う”ことは、

物である脳の働きに影響を与えるのではないかと思った。


だけど、テレビで見る女優の名前についてはどういうプロセスで忘れるんだろう??

自分の行為がそれには関わってないからか・・・

受験勉強で覚えた知識も自分の行為と関わってないと忘れやすいし、

女優の名前は忘れても日常生活が不自由になるわけじゃないし、

それに、誰でも過去の記憶をどれでも取り出せるわけじゃないし・・・

ま、いいか。

でも、そういうことも忘れない、という現象に自分もなってみたい気もする。

86歳で亡くなった義母はそういうことをよく覚えていた。

どうしてなんだろう?

晩年、身体が不自由になって、テレビをほとんど一日中見ていた。

それもぼーっと見ていたんじゃなくて、関心を持って見ていたのだと思う。

新しい知識として入れ続けた、そういう記憶があったのかもしれない。

そういう新しい知識を義母より入れないでいる私は

年をとって脳の何かの細胞、神経電気信号とかの動きが緩慢になっているんだろうと思う。

旺盛な知識欲や研究欲があると、

年とっても細胞は活発に動くことになるのかもしれない。


子どもをたくさん産んだ人が100歳近くなって、

何人子供を産んだか覚えてないという話しを聞いたことがある。

それは日常生活に影響しない。

そういうことを忘れるのは神さまからのプレゼント、そんな気もする。


「しない生活」・・小池龍之介さんの新しい本

2014-04-12 15:38:19 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞、新刊の広告欄にこういうのが載ってた。

「超訳ブッダの言葉」の小池龍之介さんの本。

サブタイトルが「煩悩を静める108のお稽古」

そこに・・・・

メールの返信がないと「嫌われているのでは」と不安になる。

友だちが褒められると「自分が低く評価されたのでは」と不快になる。

…自分で自分を苦しめる、

この「妄想」こそが、仏道の説く「煩悩」です。

煩悩を静めるのに役立つのは、

もがいて何か「する」のでなく、

ただ内面を丁寧に見つめる「しない」生活。

ブッダの教えにその作法を学びましょう。

(大きな活字で)「つながりすぎない。イライラしない。

言い訳しない。せかさない。比べない。」

・・・以上広告からの引用です。

朝日新聞の人気連載「心を保つお稽古」待望の書籍化、とあった。

へぇ、朝日に連載されてるんだ。

イライラした時にはっと気づき、イライラしない・・・

言い訳しようとした時にはっと気づき、言い訳しない・・・

せかせる自分にはっと気づき、せかさない・・・

こうなれたら本当に素晴らしい。


メールの返信がないと「嫌われてるのでは」という不安になったときなどに

すぐにその不安を消そうと何かをしようとすることは“しない”、

ということなんかも「しない生活」に入るのかと思う。

湧き上がる不安をなんとかしようとしない。

そんなふうな、しない生活が出来るには、

自分の気持ちが落ち着かないときに、

その心を行動によって解消しようとする自分の心に気が付かなければならない。

そういう意味でも、「内面を丁寧にみつめる」なんだろうなぁ。

「超訳ブッダの言葉」の章には「自分を知る」というのがあり、

その章にもそういうことがたくさん載っている。

批判感情がないこと

2014-04-11 08:23:26 | テレビを見て
一昨日、小保方晴子さんの会見を見た。

マスコミに対しても誰に対しても、

批判の言葉やニュアンスがなかった。そのせいか聞いていてとても気持ちがよかった。

あの会見があったその日のワイドショーを一分くらい見たときに、

コメンテーターと呼ばれる人がなんやら批判的な感じで言っていた。

そうしているときの顔つきは美しく見えなかった。

コレコレこんなふうに私は受け取った、というようなニュアンスは感じられなく、

最初から非難口調のように観えた。

批判する方が批判しないよりかっこいいみたいな、

そんな感じを持っているように見える。

「自業自得」 (法句経165)

2014-04-10 13:46:17 | 本を読んで
『「自分」というバケモノは、自分自身が心の中で思い描いた、

欲望・怒り・迷いの思考によって、少しずつけがされてゆく。

「自分」というバケモノは、心の中で

欲望・怒り・迷いの思考を思い描かないことによって、少しずつきれいになってゆく。

こうやってけがれるのもきれいになるのも、すべては各自、一人ひとりの自業自得。

他人が他人の心をきれいにするなどできやしないのだから、

よけいな口出しはしないこと。』

・・・これも同じくブッダの言葉の超訳。

おっ、バケモノと来たね。そう、バケモノかもしれないね。

自業自得という言葉はよく聞く。けど、

こんなふうなニュアンスではないように使われているように思う。


欲望、怒り、迷いは仏教で三毒といわれるものらしい。

“欲望”というのは何も途方もない愚かしい欲望に限らず、

子供が元気に怪我も病気もせず育ってほしいだとか、

家内安全とか、美しくなりたいとか、平和な世の中にしたいとか、

人の役に立ちたいとか、そういったものも含むようだ。

まぁ、そういう欲望がなかったら、苦しみなんかはないだろうし。

子供は元気に育ちたいとか欲望してないけど、

そんなこと自分でいちいち思わなくても、元気に育ってしまう。

赤ちゃんは元気に育ちたい、なんてないから悩まない、苦しまない。

そういうことではあるけれど、

おとなは子供のように行かない。

親は子供のことを幸せであるようにと思ってしまう。

親という存在自体にその欲望は備わっている。

そういうものかと思う。

で、そのような欲望は元々あるものだけど、

その欲望すらその瞬間、捨てる。手放す。どこかに置いておく。

預かっているものなので、所有しない。

そういうことを云ってるのかなと思った。


『こうやってけがれるのもきれいになるのも、すべては各自、一人ひとりの自業自得。

他人が他人の心をきれいにするなどできやしないのだから、

よけいな口出しはしないこと。』

本当にそうだなと思う。

それなのについついやってしまう、余計な口出し。

この人の心をきれいにするためにこう言いましょう、なんて

意識して言う人はかなり少ないと思う。

そんなこと意識したことない。思ったことない。

けど、こういう余計な口出し、ついついやってしまう。

だからブッダの言葉を読んでも聞いても、自分にはあてはまらない、となっている。

そうしていること自体に自覚がないから。

そんなことしてるつもりがないから。







「君は、これまで君の心が思ったことの集合体」・・・法句経1・2 

2014-04-10 13:14:38 | 本を読んで
『君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、

その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積され、

ミックスされた結果のつぎはぎとして、今、ここに立って入る。

すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。

君がイヤなことを思うなら、

少しだけイヤな業(カルマ)のエネルギーが心に刻まれ、

その分イヤな君に変化する。

君が優しいことを思うなら、

少しだけポジティブな業(カルマ)のエネルギーが心に刻まれ、

その分温かい君に変化する。

こうして人間は、心で思ったとおりのものへと少しずつ変化してゆく。

すべては心が思うことから生まれ、

すべては心が思うことによって創られる。

ゆえにネガティブな心によってイヤな話をしたり、

ネガティブな心によってイヤな行動をしたりするならば、

必ずや苦しみが自分についてくるだろう。

優しくポジティブな心で話したり行動するなら、

必ず安らぎが自分についてくる。

そう、影が君の歩く後ろから必ずついてくるかのごとく。』


・・・これも「超訳ブッダの言葉」にあるもの。

この話も「自己に発し自己に還る」というのと一緒かと思う。

そういった意味合いのものが他にもあった。

法句経というのだからお経の一つなんだろうけど、

お経なんて聞くだけでは何がなにやらわからないもの、という印象を持つ人は私を含め多いだろうと思う。

こんなふうな超訳があるとわかりやすくていいなぁと思う。

近所のお坊さんもこんなふうな現代語訳でお経を伝えてくれたら、

聞こうという気にもなるかもしれない。

この前の近所の法事でも列席のおばあちゃんたちはずっとおしゃべりしてた。

いくら有難いお経でも、わけがわからなくてはちっとも有難くない。

わからないんだからおしゃべりしたくなる気になるのもよくわかるわ。




物 と言っても・・

2014-04-09 20:42:06 | ひとの幸福
一昨日、物は心で、心は物で・・・と書いた。

物が心に作用し、心が物である身体に作用する。

物と言っても細胞から出るホルモンという生命ではある。

細胞に意志や戦略があるということは、

生命に意志、戦略がある、ということと同じ。

宇宙という生命や、人間という生命が織りなすこの世界にも、

意志と戦略がある。

ただ、人間は細胞と違って悟ってないから・・・

いろんなキメツケ、トラワレ、執着がいっぱいあるから・・・

身体みたいに全てが共に、という在りようには行き着いてないのかと思う。

生命である人間の意識という存在が、

元々の在りようを思い出しさえすれば・・・

その思い出し方はいろいろな方法があるのだろう。