ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

サンドイッチ ②

2013-05-31 08:39:16 | 日々の暮らし・思い出
作りました、サンドイッチ。

トマトの赤やレタスの緑、卵の黄色、パンの白さ、でテーブルに花が咲いたよう。

ちょっと陳腐な表現であったか。でもそんな感じ。

書いてみて、普段の食卓はこの時期こんな色はないなぁ。

トマトなんてまだ苗がやっと10センチくらいになった位だからね~

義父は昨夜テーブルに着いて、サンドイッチを見ると、「うちで作ったんか」と。

あまり見ないものをテーブルに見るとだいたい一言何か言ってくれる。

夫は何が出ても何も言わないね~、そういえば。

さて、サンドイッチを義父はどう食べたか・・

酒の肴やら他のおかずもあるから箸を出したので、

義父は箸でサンドイッチを横にして(切り口が見えるように立てていたのだが)、

上から順番に取ってパンはパンだけ、トマトはトマトだけ、

ベーコンはベーコンだけ、ハムはハムだけ、キュウリはキュウリだけ、という感じで、

最後までその方式で食べたよう。

面白い。ホント笑っちゃう。

そして最後に「ご馳走様」と言った。

食後にそんなこと言ったことはない気がする。

普段、殆ど魚だから食後には「あ~うまかった」だ。

サンドイッチには「ごちそうさま」だけであった。

カツオの刺身や鯵の刺身なんかだと、テーブルに座った途端、

「ごっつぉ~やな(ご馳走やな)」と嬉しそうに言う。

サンドイッチ(名前を知っているかどうかもわからないけど)という珍しいものを頂いて、

ご馳走様でございました、という感じだったのかと思ったよ。


うん、私も食べてみて、ここらの獲れたての鯵の刺身には負けるな。

不自由 と 愛

2013-05-30 16:30:36 | ひとの幸福
そうしないで居ることが出来ない、そうしないと気が済まない、という意識の状態は

不自由と言えば言えるけど、って昨日書いたけど、

ひとは本質的にそういう不自由な点があると思う。

「生命よ 自由であれ」って福岡伸一ハカセの動的平衡の本にサブタイトルだったかな、あったけど、

生命に不自由なところがあるからこそ、そう表現できたんだろう。

本質的に、元々的に、どうしても不自由なところがある。

愛さずにはいられない というアメリカの歌があったけど、それ。

人を傷つけたりすると心が苦しむ。

一生懸命あれはそうするしかなかったんだ、なんて、

そうした行為を正当化させようと頑張って思うけれど、

何故そんなふうになるのかといえば、

本当はそうしたくなかった、というのがあるからだ。

あいつがあんな事しなかったらオレだってしなかった・・って思うのは、

オレがそう行為したことをオレが引き受けられないと心の底ではわかっているから。

ひとに優しくしたことならそういう自分を容易く引き受けられるけど、

ひとを傷つけた自分を自分は引き受けられない。

ひとは元々ひとを傷つけるようになってないからだ。

ひとを傷つけたことを他の誰からも非難されなくても、同じだ。

そんな事に関係なく、心はそうなっている。


「存在自体に幸福になるという本質が具えられている」と昨日書いたけど、

幸福になるには、幸福になってないという状態がその前にあるということだから。

なってない状態からなっている状態になれるわけで。


存在って状態だから、止まってない。

本質っていうと動かないものみたいに思ってしまうけど。


サンドイッチ

2013-05-30 15:55:13 | 日々の暮らし・思い出
今晩のメニューはサンドイッチなんだ~(^^)

ニコニコしちゃう。夕飯のメニューには相応しくないかもしれないけど、

いい、やっちゃう。

なんだか、ここんところサンドイッチが食べたいなぁ・・というのがよく出て来てた。

サンドイッチなんて何年も作ってない。

さっきスーパーに行ったら賞味期限近いロースハムが安くなってたから、

そうだ!サンドイッチは今日だ!と思ったんよ。

それになんだかその前にトマトも籠に入れてた。

トマトを買うというのも私にしては珍しいことなんだ。

トマトやキュウリや茄子とか夏野菜はうちの畑のもので、ってなってるから。

ベーコン、レタス、トマトのサンドイッチも美味しいから、それもしよう♪

日常こういうメニューは我が家は殆ど皆無。

魚、野菜、ここらの海産物、が殆どで、肉料理も少ない。月に一度か二度かなぁ。

料理は出来ればどなたかが作ってくださると嬉しい私なんだけど、

こんなふうにあまりしてないメニューを作る気になると、

俄然やる気に満ちてくる。ルンルン気分だ。

だから、料理本を見たり、ネットで検索すれば、

いやっていうほどいろんな料理が出て来るから、

それを見て新しいメニューに挑戦すれば料理も楽しいのに、それをしない。

何故なのか???

作る気になる、ところまで、気が行かないんだな~

今回は何故かサンドイッチが食べたい、というのが湧き起こって来たから、

作る気になるんであって。

家族がアレが食べたいなぁ、なんて言ってくれると、そうかっ、じゃあ・・ってなるけど、

我が家の男二人はそういったことは皆無。

何を出しても食べてくれる・・食べないのもあるか・・・

特に夫は美味しいとも不味いとも言わない。

アレを食べたいコレが食べたい、と言わない。

そう、こだわりがない。義父に聞いても「なんでもええ」。

夫に聞いても「なんでもいいよ」。

私が料理にあまり熱がないということと、彼等のそういう在りようという相互作用で、

見事我が家の食卓は超マンネリ。

食卓に並ぶものはこんなふうに家族みんなで創り上げているのだなぁと納得。

共にという在りようで、そのように在る。

人が来ると、そのひとたちを思って、私の気も変化するから、

普段は出て来ない物が登場したりするようになるわけだ。

さぁ、サンドイッチだぞ~!

負けん気の強い人

2013-05-29 10:29:40 | ひとの幸福
世の中には負けん気の強い人というのが居る。

広辞苑によれば、負けん気とは、負けまいとする気性。負けじ魂。

運動関係の選手なんかはこれがないと一流になれないのかと思う。

誰に負けまいとするのかは二通りあるのかな。

ひとに負けまいとするのと、自分に負けまいとするのと。

自分に負けまいとする、というのも二つあるか・・

過去の自分より優りたいというのと、自分の弱気に負けまいとするのと。

ひとに負けたくないという気概?を持つひとで、

ひとに対していつも自分が上に居たい、その方が心が落ち着くという極端な人も世の中には居る。

自分の方がすぐれていると感じられていないと気が済まないという感じ。

そういう人は、あの人の傍にいると腹が立って来る・・なんて思われることもある。

腹が立つその人も自分の方が上だ、自分の方が優れている、とか、

私だってその位っ!ってなってるからだろう。

じゃなくっちゃ腹が立つわけがない。

腹が立っていけないことはないよ。立つ時は立つ。

こうでなきゃ気が済まない、というのはどういう状態か。

どんなことでもそうだけど、こうでなきゃ気が済まない状態というのは

それ以外選択肢が無い状態なので、不自由といえば不自由だ。

それに縛られてる。その状態で居る一瞬のことだけどね。

そういう場合はそうしないと気が済まないんだから、そうした方がいいと思う。

気が済む、というのは心が落ち着いている状態だから。

心は落ち着かないより、落ち着いている方がいい。

ただ、その落ち着きは自分より劣っていると見なす他者が必要ということになるのかな。

なので、その他者が自分より優っていると見えると、

いきなりその落ち着きは消えてしまう。

するとどうなるか・・・???落ち着きを得るために、

自分より劣っていると思われる人を探さないといけなくなる・・・?

心はいつも安定を求めるものと思う。

ひとはそうなっていると思う。そこからは抜け出せない。

存在自体に幸福になるという本質が具えられているから。

山の緑

2013-05-28 16:15:34 | 日々の暮らし・思い出
新緑の時が過ぎ、山は静かになった。

若葉が萌えいずる時、(ホントこの言葉がピッタリ)、

山は盛んにお喋りしてるみたいだった。

一枚一枚の若い葉っぱがちょっとずつちょっとずつ大きくなって行っているから、

見ているときに動きが感じられたんだろうか。

今、山を見てもその瞬間に動きが感じられない。

風でもなければ葉っぱはその瞬間には動かないように感じられる。

新緑の時はその一瞬が動いていた。山じゅうが動いていた。

いま山は落ち着いて来た。そんな感じ。ちょっとつまらない。

もう高校生くらいなのかな、一枚一枚の葉っぱが。

成長が盛んなのが私の好みなのかもしれない。

庭の多肉植物は去年葉っぱをぼろぼろ落とした奴をポットに散らばせたのが、

ちょうど一年経って、新しい葉っぱを6、7枚付けている。

これからの季節で又ぐんぐん大きくなるだろう。

庭に出て、ちょっと見るつもりが、アレコレとやりたくなり、

二時間くらいすぐに経ってしまう。

嬉しい季節だ。


似合わない・・

2013-05-28 15:57:26 | 実例体験観察
知り合って4年くらいの友人がいるんだけど、

私のことを大雑把だ、とよく言う。

大雑把なあんたにしちゃ珍しいとか、そういう台詞もよく言う。

大雑把な面はもちろんたくさんある。

あんたが一番気を使わなくっていいわぁと言う。

そのせいなのか、私が他の人みんなに気を遣わない、心遣いをしないように思っている。

なので、そういうところが私から感じられると、(推測)

「そういう行動はあんたに似合わない」と言う。

こういうことを何度も言う。

私にもいろんな面があるんだよって言っても、

その言葉は彼女の心には届かない。

初めて言われたときは笑い飛ばしたくらいで、なんとも思わなかったんだけど、

何度もそういうふうなことを言われているうち、

その言葉をうるさく感じ出した。

そのせいなのか、そういう言葉に対し、

そうじゃない、わたしは・・コレコレこんな面も・・なんて、

弁解のような、説明のような思いが浮かんで来ていた。

なんでそういう思いが浮かんだのか、いま、こうして書いていてわかった。

煩い(うるさい)と感じたので、それをもう聞きたくないので、

その発言を止めさせるために、(彼女がそれを聞いて納得して言わなくなるように)

いろんな面があるんだよ、という言葉を発したのだった。

そんな自分にやっと気がついた。

私はこんなです、なんていくら口で説明したって、

彼女には強く「この人は大雑把である」が入っているので、

それが外れないのは当たり前だ。

まぁ、思い込みが強いとも言えるかもしれないけど。


「そういう行動はあんたに似合わない」という言葉を、

わたしはあ~そうか、と聴くことができなかったんだ。

彼女がわたしのことを大雑把だと決めていたって全然いいじゃないか。

思い込みが強くたっていいじゃないか。

そういう行動はあんたに似合わないと言ったっていいじゃないか。

それは彼女のこと。

彼女が管理する彼女の意識のこと。

彼女は在りのままでいい。そのままでいい。

こうして書いて来て、そう思えた。


なんども経験してやっとその時の自分の不快感を掴まえられた。

彼女にそのことを喋らせないように、という思い(無意識的だった)は、

まさしく“他を侵すことのあさましさ、愚かさ”だった。

それに気づいて嬉しい。

無花果・畑いろいろ・・

2013-05-27 13:06:14 | 日々の暮らし・思い出
無花果と書いてイチジクと読む。ふ~ん、だけだったんだけど、

義弟がイチジクやらビワやらの木を以前畑に植えてくれて、

それが大きくなり、イチジクは今年初めて実を付けた。

初めて実を見つけたときに、

アレ?花が咲いた様子がなかったのになぁ・・と思った私だった。

だから無花果というのかととても感心した。

でも不思議だ。何故花も咲かないのに実がなるんだろう???

広辞苑ではわからないかな?と思いながら、いま、調べた。

「初夏、花軸の肥大成長した花嚢(かのう?)を葉腋に出し、

内面に無数の花をつける。雌雄異花、同一花嚢中に生ずる。」

コレを読んでもよくはわからないけれど、

内面に無数の花!!!って凄いね~

外側からは見えないけど、やっぱり花は咲くんだね。

花がなくて実がなることはやはり無いんだろうな。

実になるからにはちゃんとわけがある。


今、畑はじゃが芋の葉っぱが緑緑してる。

ニンジンは発芽して2列に整列してる。

間引きは私の役目なんだけど、もうちょっとしてからやる。

トマト、ミニトマト、茄子、キュウリ、かぼちゃ、冬瓜、インゲン、

伏見甘長唐辛子、オクラ、ゴーヤ、里芋、生姜、

みんな芽を出して本葉も大きくなって元気で居るよ。


二階の日当たりのいい所に夏野菜の種をポット蒔きしたのを並べていた。

夫はそれはそれは大事そうにスプレーで水やりしたりして可愛がって面倒を見ていたよ。

夫は夜中目が覚めたときなんか、自然と畑のことが浮かんだらしい。・・で、

アレはこうして、コッチはあ~して、といろいろ考えてしまい、

余計に眠れなくなり、寝不足になってしまった日もあったそう。

そんな夜に描いていたアレコレをしに畑に行くことも出来ず、

その日は昼寝していたのであった。


病の起源 ②

2013-05-27 11:23:18 | テレビを見て
ヒトが高血圧になったわけが6万年前にあった、という。

人類が出アフリカの時、塩を求めた。

マウスの実験で塩を求めるのは脳が麻薬を求める時と同じ状態?だそうで、

塩を求める欲望が脳卒中への引き金になった、とナレーションしてた。

ここで初めて「欲望」という意識の状態を表わす言葉が出てきた。

「欲望」その言葉は形を表わす言葉ではないから。


身体が塩を欲する、ということはある。

塩分が足らなくなると意識不明になったりする。

身体が必要な分の塩分を取るのは生命の安全を保つため。

それ以上の塩分を取ってしまうようになるわけが欲望なんだろう。

塩を求めるときの脳と麻薬を求める時の脳と同じというのも、

それ無しで居られないという意識状態のときの脳の姿ということなのかと思う。

動物の肉を食べる時にちょっと塩を利かせると旨みを感じる。

まぁ、野菜だってそうだ。

塩があるとそのものの甘さが引き立つ。

旨さ、美味さを追及するのが私たちヒトの宿命なのかもしれない。

それは身体が欲するというより、

美味さを感じたいという意識が欲するもの。


その意識の方(欲望)だけを満たし、それが身体に及ぼす影響を考えられないというか、

考えてわかったとしても、欲望に翻弄され、

意識が麻薬中毒みたいになっている、そのことが、

脳卒中への引き金になる、ということだろう。

自分の意識を管理する能力が未熟だということが

脳卒中への引き金になる、とも言えるかもしれない。


ヒトが高血圧になったわけが6万年前にあった、といって、

それが人類が出アフリカの時、塩を求めたことで、

原因が塩だ、というのはちょっと暴論のような気がするよ。

NHK 病の起源

2013-05-27 10:46:53 | テレビを見て
この番組、3週続けて見てる。

昨日は脳卒中の起源についてのアレコレ。

脳の血管は脳以外の血管と比べると凄く薄いらしい。

身体は動き回れることで血管の壁が厚い。

脳は運動しても血液量は変わらないので血管の壁は薄く出来ている。

哺乳類の中で脳の血管が膨らみやすいのはヒトだけだという。

先週のガンの起源についても同じことが言われていた。

哺乳類でガンになるのはヒトだけだと。

前回も昨日のもヒトとチンパンジーの違いを研究して、

どうしてヒトがそうなるのかと探っていたけど、

比べていたのは身体のことばかりだった。

ヒトとヒト以外の動物で一番違うことは意識活動がある、精神があるということなのに、

何故そのことで研究しないんだろう?という素朴な?が浮かんでしまう。

何が違うかってそれが一番だろうになぁ。

あまりに精神、意識の存在を無視してるとしか思えない。


身体は自然からの贈り物で、本当にうまいこと出来ている。

完璧だと思う。

身体と比較して脳の血管の壁が薄いのも、

脳は運動しても血液量は変わらないから・・・というわけがある。


ヒトがチンパンジーから進化して手足を使うようになったから、

その部分を司る箇所の血管が詰ったりするのではないかと考えている、

という学者のコメントが紹介されていた。

そのすぐ後のナレーションでは、

それは一つの考え、仮説であって、事実じゃないはずなんだけど、

「・・脳梗塞が起こるのは人間の進化の代償なのです」なんて言い切っていた。

おおおお、よく言い切るよ、と思ったよ。

学者はちゃんと「そう考えています」と言ってるのに。

考えは考えだし、仮設は仮説なんだけどなぁ・・

この番組を見てる人の何パーセントか何十パーセントかは、

きっとそれを鵜呑みにしただろうなぁ。

このナレーションを入れたNHKが一つの仮説を仮設と知っていながら、

番組の構成の都合でそういうことにしたのか、

局でもその仮説を事実かのように鵜呑みにしたのか(まさか)・・

事実かのように視聴者に思わせるためにそうしたのか・・・

わからないけれど・・・

スロージョギング

2013-05-26 11:01:56 | 日々の暮らし・思い出
昨夜の番組でスロージョギングというのを紹介してるのがあった。

歩くくらいゆっくりでも、歩くのと違って、

どちらの脚も地面に着いてない瞬間があるのがジョギング。

運動量は歩く場合の二倍と言っていた。

体脂肪率が下がると言っていたのに惹かれ、すぐにトライ。

こういうのを聞くとすぐやろうってなるんだよね、わたし。

でもそのうち・・・いつの間にかやらなくなる・・のがいつものパターン。

今回もそうだろうけど、まぁ、さっきやってみた。

いつも歩く道をスロージョギング。

車がそこを通るとちょっと恥ずかしい気持ちが出て来る。

昨日の番組見た人が、あぁっ!昨日のだ、やってるやってる!なんて・・

ま、その通りなんだからいいか・・と。

やってみると、ふくらはぎは歩くよりずっと筋肉運動してますって感じ。

太腿にもいい感じ。

好きなことが座ってやる奴ばかりだから運動不足気味だし・・・

レッグマジックという奴、買おうかなぁ~・・・

なんてちらっとネットを見たりしてた・・・んだけど、

一万円出してもきっとそのうちやらなくなる・・・

でも三千円台でもあるなぁ・・・

けど、口コミ読んだら結構きついらしい・・・やっぱり買うべきじゃない・・・

ものぐさの私に続くわけがない・・

誰かが只で使っていいよと持って来てくれたら・・程度になっていたところ、

このスロージョギング!

レッグマジックは買わない!とはっきりと思ったよ。

でも続くか・・わからない・・


稀勢の里関 ④

2013-05-25 16:07:47 | ひとの幸福
無我の境地で居ることで実力が発揮できるということなんじゃないか・・

と、さっき?昨日?つい書いてしまった。

こんな表現したことなかった気がするよ、ここで。

こうして自分はあるんだから無我なんてあり得ないよ~とか聞くことがあるけど、

無我の境地っていうのはそれほど難しいことでもなく、

結構みんな経験してることなんじゃないか。

さっき書いた稀勢の里関の話で言えば、

相撲をする時に余計なことを考えず、その事以外に意識が行かない状態・・なのかな。

小さな子供が一心に遊んでいる姿もそう。

やることに集中してる状態。雑念がない状態。邪気がない状態。

思いっきりやる、という言葉が表わす状態。

我を忘れる、ともいう。

我はあるんだけど、忘れてる状態。

この話に似てるね~

願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。

それが願いが叶う方法。

願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。

願いを持ったままでいるから、それに囚われる。

あ~しなきゃ、こうしなきゃ、というよくある思考もそれだ。

あ~したい、こうしたい、を持ったままでいるから、

それをやるまで「しなきゃ」に囚われる。

仏教では囚われがあるのが無我の境地の反対だというらしいから。


稀勢の里関 ③

2013-05-25 14:58:05 | ひとの幸福
前にカルテットというタイトルだったかで、バイオリン青年のことを書いたことがある。

彼はその曲を美しく弾きたいと強く願っていた。

その青年はそんなふうに弾けなくてずっと苦しんでいて、

あるとき先生が弾いていたのを聴いた時、

「美しく弾こうなんてしなくていいんですね、その曲は既に美しいんですから」と

感動的に気付いたことがあった、という話。

稀勢の里関が「大関としての相撲を取りたい」という願いを持ったのと同じだ。

稀勢の里だったら、

「大関としての相撲を取ろう、なんてしなくていいんですね。

僕は既に大関なんだから(実力があるから大関になれたんだから)」

こういうことなのかと思った。

稀勢の里で在るだけでいい。そのままでいい、ということなのかと。

稀勢の里という状態そのままでいれば稀勢の里の実力が出る。

(そんな願いがあるのなら、いっぱい練習してるんだろうから)

大関としての相撲を取ろう、という意識は、

その状態(身体の実力)に干渉という影響を与えることになる。

観測者効果だ。

その干渉は在るがままの稀勢の里という状態(実力)にマイナーな影響を与える。

自分の意識(無意識的も含めて)は自分の身体に即影響を与えることが出来る。

まぁ考えてみれば、大関としての相撲を取ろうという思いの出発点は

土俵の上のたった今、大関としての相撲を取れてない自分だということだ。

大関としての相撲を取れていたら、そんなこと思わないからね~

自分に向かって~とれてないと宣言してるのと同じようなもんだ。

自分でそう決めているから、自分という身体はその通りになる。


無いと思うから欲しがる。

在ると思えば欲しがらない。

こういうことなのかなと思った。

稀勢の里関 ②

2013-05-25 14:19:43 | ひとの幸福
稀勢の里関が余計なことを考えていた・・と言ったそう。

そのせいで相撲が思いっきり取れなかったということだろう。

自然に「余計なこと」という言葉が出てきたのだろうと思う。

大関としての勝負をしなくちゃいけない、

優勝争いに絡まないといけない、といった考えのこと。

何が何処に余計なのか?

そういう考えが土俵の上では余計ということだよね~

はっけよいのこったと始まる勝負時には無我の境地に居ることが大事。

無我の境地で居ることで実力が発揮できるということなんじゃないか・・

大関として相撲を取りたい、優勝争いに絡みたい・・・

そういう願いは在って当然だ。

けれど、願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。

それが願いが叶う方法。

コレ、若い女の人向けの本にあった。「願いを忘れることが願いが叶うことです」って。

この、願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。

願いを持ったままでいる、ということを稀勢の里関は

大関になってからの1年以上ずーっとしていたんだろう。

それに気がついた。そういう自分だったことに気付いた。

今朝の新聞には「一皮向けた」という言葉を使ってそういう稀勢の里関のことが書かれてあった。

脱皮した、という表現も相応しい。

脱皮するというのは成長するということ。

何度も何度も人は脱皮して成長する。

稀勢の里関は今場所前不調だったことが幸いした。

不調はそのキッカケになった。

不調がよくないなんて言えないね~

美しさ

2013-05-25 10:43:42 | ひとの幸福
人はなんで美しいものを求めてしまうんだろう。

今晩のご飯を不味く作ろうなんていう人は居ない。

似合わない服を着ようなんてなる女の人は居ない。

美しく見えないようにしようなんて意識は働かない。

よりよいもの、より美しいものを無意識のうちに求めてしまう。

ひとはそうなっている。

どうして?何故ひとはそうなっているんだろう??

なってるもんはしょうがないよ・・でもさ・・・


批判やら非難やらのその経験を通して、

自分の心や世界を美しいものだけにしたい、という意志が潜んでいるから・・・

・・そういうことなんじゃないか。

もしそうでなかったら、美しくないものを見ても、しても、

気分は変わらない。

美しいものを見てるとき、してるときと一緒だ。

なんとも感じない、思わないはず。

心がいやな感じ、もやーッとした感じ、不機嫌、になるのは

自分の心や世界を美しいものにしたい、という意志があるから。

自分でそれを知らなくっても、在るものは在る。


稀勢の里関

2013-05-24 19:59:50 | テレビを見て
大相撲を義父と見た。稀勢の里が今日も勝った。

その時、NHKのアナウンサーが最近の彼の様子を語った。

確かこんなふうなことだったと思う。正確に聞き取れてないんで、

違うかもしれないけど・・・

今場所に入る前、彼は不調だったそうで、

そのせいか、今までと違う自分だったそう。

大関になって1年以上、彼は「大関なのだから大関らしくしなくちゃいけない」とか、

「大関になったのだから優勝争いに絡まらないといけない」とか、

そんなふうな余計なことを考えていた自分だったと気がついたらしい。

そういう自分だったことに気付いたら、

今の自分のままでやればいい、となって、

今までの自分と違う自分で取り組めている、という感触があるよう。

持ってる力を発揮できるところに立てたのかもしれないと思った。

こういう感じでやっていけばいいんだな、って思ったらしい。

今ここ、だけに集中できるようになったのかもしれない。

そういうのを聞いて、近いうちに横綱になれるかもしれないなぁと思った。