ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

那覇へ子守りに

2015-11-11 16:38:36 | 日々の暮らし・思い出
石垣に居る娘のところの孫に病気が見つかって、

応援のた検査入院してる病院のある那覇に行くことになった。

いきなりの病気発見でびっくりしたけど、

何か役に立つことがあればと言ったのが実現しそうだ。

その子の下にはまだ生後4か月の赤ちゃんが居るので、

その子のお守りをさせてもらえそうだ。

孫たちのお母さんは入院している子供に付き添っていないといけないからね。

こんなきっかけで4か月の孫に会えると思ってなかったから、

ちょっと嬉しい。このちょっと、というのは

そのことだけをとって言えばとても嬉しいんだけど、

孫が病気入院したのに、嬉しいとは何ぞや、なんて誤解されても困るからね。

小さな人と毎日一緒に居られるのは正直嬉しい。

私が住むここでは赤ちゃんを見る事などほとんどない。

シルバー人材センターに登録したとき、子守りという項目があって、

それに希望の花丸をつけたんだけど、ないですね、と即答されたんだ。

ないなら書くなよと思ったけど、

ある可能性が絶対ないとは言い切れないから書いておくんだろうとは思うよ。

けど、仕事の項目欄に『子守り』という言葉を使っているのは、

なんかいいなぁと思ったよ。

シルバーに登録する人はシルバーだから、

子育て支援なんて言葉よりぴったりだと思う。

東京のシルバーとここのシルバーは雰囲気が違うから

余計ぴったりくる感じ。

私も『子育て支援』より『子守り』がいい。

ただただ子を守る、それをしたい。

ここではもう冬の衣類を来てるけど、沖縄は暖かいだろう。

いや、暑いか!?

いや、ちょうどいい季節かも♪









人間の悪臭のついた言葉

2015-11-11 15:11:06 | ひとの幸福
知りたくて知りたくて読んでいる状態というのは

その言葉を わからない、となっている状態かと思う。

わからないからこそ知りたい、になるのだから。

その言葉を聞いたこともあるし、読んだことがあっても、

知らない、というところから始まるんだなぁ。

知らない状態に意識的にしてるわけじゃないんだけれど、

そうなってしまうものだ。




信心 神さま 浄土 菩薩

2015-11-09 08:16:26 | 言葉
信心とか神さまとかの宗教で使われる言葉は

長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う、

とこの前書いたけど、その本、その文章、その人の言葉、を、

読みたい、知りたいと強く思って読んでいると、

蓄積されている人間の悪臭は消えて行くものだ。

言葉についてのいわば、思い込み、キメツケが離れて行かざるを得ない、という感じ。

ロードバイクを持って友人来訪♪

2015-11-08 17:03:04 | 日々の暮らし・思い出
昨日の昼ごろ、兵庫県から友人が来た。

車にロードバイクを積んで。

うちに着くなり、それを降ろし、それにまたがり、

さっそうとサイクリング、ツーリングというのか・・・

いやいや、なんとも行動的な人。

夕方うちに戻り、それから一緒に夕飯。

持ってきてくれた但馬という日本酒、これが原酒というものだそうで、

日本酒のことなど何も知らない私もぐい飲みで少し頂く。

夫と友人はとろりとして美味しいと言っていたが、

私は花粉症で鼻がおかしいせいか、日本酒がわからないせいか、

そういうふうには感じられなかったけど、

あまり得手じゃない日本酒の匂いがしないし、爽やかで美味しかった。

近くの海で取れたワラサ、鯵の刺身で乾杯と共にお喋り。

ロードバイクの話やバイク仲間との交遊やら何やら、

友人は本当にこころ楽しげに話してくれた。

仕事は結構ハードらしいけど、それも含めて、

人生を思い切り楽しんでいるという感じ。

この人は何と言うんだろう・・・とても魅力ある。

こういう人は少ないんじゃないかと思うような人。

ちっちゃな可愛らしい自己顕示欲みたいなのも感じるけど、

ちっともそれが臭くないし、嫌味がない。

そうそう、全然濁ってない。澄んでいる。

自分で書いていて、何が濁ってないのか、澄んでいるのか、

わからないけど・・・それって、一緒に時を過ごして感じた印象なんだろうな。

全然毒気がない。人に対して温かい。

自分にも他者にも否定、批判がない感じ。

さっき来た電話で私が話している最中に、

挨拶もなく帰って行った。

そういうのもいいなぁと思った。








『君自身に還れ』 大峯顕さんの言葉

2015-11-07 14:28:47 | 本を読んで
信心という言葉で、もう受け付けない、読む気にならないという人は多いと思う。

私もそのうちの一人だ。

この本でも神さまという言葉についてもそういうことが書かれてあった。

それはその言葉に溜まっている長年の手垢やほこりの臭いで

いわば、受け付けないというのは人間的な悪い匂いに対しての拒絶反応であって、

その悪臭は神さまの匂いじゃない、というのがあった。

今までの人間が作って来た臭いだ。

だから、神さまやら信心やら宗教やらの言葉が出て来たら、

長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う。

で、

108ページ・・

「信心というのは『そうだったのか、もう救われていたのか』と気づくことです。

われわれがこれからなにかやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。

今までそれに気付かないでいただけのことで、

気付いたということが、助かったことです。

・・・気付くということには二つある。われわれは絶望だと気付く・・・

普通我々は絶望だということを思っていないわけですよ。

なんとかなるだろうと思って生きている。

ほんとうに絶望だということに気付いたということが、もう救われたということだ。

・・・

109ページ・・

生き物は皆、気づくと仏は言っているわけです。

けれどもその前に、

何が善いことで何が悪いことかも全然わからないという、

そういう自分だということに気付くんですよ。

救われるということに気付くんじゃなくて、救われないということにまず気付く。

そのように救われないということに気付くということが、

救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです。


この本の151ページに・・

「真理に出会うということは、思い込みが全部いらなくなったということだと思いますよ。

浄土真宗は信心を強調するけれど、

少なくとも浄土真宗の親鸞が言っている信心とは

人間のあらゆる思い込みは空しいということ、

思い込みがいらなくなった世界のこと。

それを仏さまからもらった信心と言っているんですね。

それを言うとなんだか非常に擬人的な世界のようになるけど、

要するに、はっと気づいた世界というか。・・・

それを信といっている。」

・・・引用は以上。


こういうことって、本当に不思議なんだけど、

こんなにひどい自分だったのか・・と驚きと共に気づいた時に、ある。

もうどうにでもなれ、と絶望的な気持ちになった時にも、ある。

それは非常な暗さのはずなんだけど明るい。

何の行為も行動もするわけじゃなく、

ただ気付くという経験で起こる。

とてつもない経験、という感じ。

気付くということはどんなこと、物でも、

元々在るものに気付くということだ。

あ、こんな所に探してた鍵があった、昔のノートがあった、という気づきと一緒で。


既にそこにそれは在ったのだ。


気付きが起こるということは

既に救われていた、ということなんだと思う。


救われないということに気付くということが、

救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです・・・

とあったけれど、

浄土真宗というものを知っていても知らなくてもそれは起こる。

浄土真宗が生まれる以前から

全ての人間は救われているということなんだろうと思う。

ただ救われていることを知らない人がいるだけで。







この世の私・・・②

2015-11-07 08:33:04 | ひとの幸福
喜びを喜ばず、苦しみを苦しまず・・・そういう私は

ナントカナニ子というこの私じゃない。

ナントカナニ子は大いに喜び、笑い、大いに悲しみ、泣き、

大いに苦しみ、大いに僻み、絶望し・・・

けれど、ナントカナニ子の苦しみや悲しみなんてものは

新聞や本で知る苦しみのうちに到底入らない程度のものだとよく思うけれど、

ナントカナニ子が感じる悲しみや苦しみがなければ、

ひとの心に共感することなんてできない。

自分が傷を負った分だけひとの傷を共に感じることが出来るのだと思う。






この世の私・・・

2015-11-06 08:41:03 | ひとの幸福
この世の私は腰が痛い。

この世の私は風邪っぽい。

・・一昨日書いたものなんだけど、

この世の反対は普通「あの世」と言うけど、

一般にそう思われているところのあの世とは違う感じもする。

この世でナントカナニ子を生きている、という、

なんとも不思議な感覚を、感じると、

このナントカナニ子が感じる喜びや悲しみや気になる感やらが、

少し違った感じになる。

そういったものを客観視しているような感じ、なのかな。

山岸さんが書いてた、人生は舞台だったか劇場だったか、

ナントカナニ子がそこに出ていて、

それを観ている、そういう感じ。

喜びを喜ばず、悲しみを悲しまず、苦しみを苦しまず、寂しさを寂しがらず・・・

そういう自分がいる感じ。




世界は常に変わっている

2015-11-05 15:58:38 | 言葉
空海の言葉。

「働いているときも、

休んでいるときも、

思いと行為は一致していなければなりません。

眠っているときも、

目覚めているときも、

世界は常に変わっているのです。」


原文は・・・

「行に在り、座に在りても、

観智離れず。

あるは眠り、

あるは覚るに、道場すなわち変ず。」


観智離れず、という言葉は 

思いと行為は一致しなければならない と訳するのか・・・

そのような意味なのか・・


美味しいと思ったら、そのように行為しなければならない、

嫌な奴がくれた食べ物を食べ、美味いと思ったのに、

不味いなんぞと言わないように、

と空海は言っていたのか・・・

また、

~こうしたいと思っていることは、

そう“なる”ように行為しなければならない、と、

空海は言っていたのか。

そうなっているか、ならなかったか、見届けることをしなければならないと

空海は言っていたのか。

智という字はそんなニュアンスがあるんじゃないか・・などと

無学な私は勝手に思ったよ。


道場を世界と訳しているのはどうしてなんだろう???

「道場」を広辞苑で見ると・・・

1.釈尊が成道した菩提樹の下。

2.仏法の修法・修行の場所。寺院。

3.武芸を教授し練習する場所。

4.修養を訓練を主として団体生活をする所。

・・・この4つが書かれてあった。


「道場」が「世界」・・・

仏教や空海や、空海の居たその時代のことを研究した人が訳すのだから、

きっとそういう感じの言葉なんだろうと思う。

世界は人が修行する場所・・ということなんだろうか・・・

そんなふうに思っている人はあまりいないと思うけれど、

思っても、思っていなくても、

結果として、そうなっているんじゃないか、という気もする。




不思議な感じ・・・

2015-11-04 16:53:36 | ひとの幸福
普段はそんなこと思ってないんだけど、

ぱっと意識が変わって、今ここのこの意識が在る、

これしか私にはわからないし、これしか世界はない・・

そういう感じになると、頭が不思議な感覚になって、

周りの世界がいきなり静かに見えて来るような気がする。

私一人なんだ。

世界は私なんだ。






『空海 人生の言葉』より・・

2015-11-04 14:49:26 | 言葉
同じく『空海 人生の言葉』より・・・

「あなたの心が暗闇であれば、

巡り合うものはすべて禍いとなります。

あなたの心が太陽であれば、

出会うものはすべて宝となります。」


原文はこれよ。

「心暗きときは即ち遭う所悉く禍なり。

眼明らかなれば則ち途に触れて皆宝なり。

奈良時代の空海が書いた言葉。

古文というのはいいね。

理解できれば。

心はどこに・・・

2015-11-03 15:38:44 | 言葉
「あまりに近すぎて見えないものは、

あなた自身の心です。

とても微細で、どこにでも存在しているのは、

あなた自身の仏なのです。

仏というものが

不思議で理解しがたいのと同様に、

あなたの心もまた広大で

はかりしれないものなのです。」

・・・空海 秘密曼荼羅十往心論 巻第九。

こういうのを読むと、

心や仏というものが量子力学的な存在なんだと、

空海は知っていたのかとなぁ・・などと夢想する。


「哀しい哉、哀しい哉・・」

2015-11-02 15:15:45 | 言葉
「哀しい哉、哀しい哉、復(また)哀しい哉。

悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉。」

・・・これは空海の『遍照発揮性霊集 巻第八』にある言葉だそう。

川辺秀美さんという人が編訳の『空海 人生の言葉』というのの中にある。

最初の方にこれがあった。

声に出して読み始めると涙が流れ出て来る。

なんで???と自分でも思うけど、

勝手に出て来る。

空海がこれを書いたとき、どんなふうに哀しかったのか、

何がどんなふうに悲しかったのか、わからないし、

哀しいと書いて何を伝えたかったのかもわからない。

何故私から涙が出て来たのかも、わからない。

何か一つのことで悲しくて涙が出た、という感じでもない。・・

何かを具体的に思い出して涙が出て来たわけじゃない。

なにか・・この、人生というもの・・に

そういうことを感じたんだろう・・・

この詩のような言葉を読んだだけで、

涙が流れた。

言葉の力なんだろうな、と思った。


むむむむ・・・・気になる気になる・・・・

2015-11-02 08:51:13 | 実例体験観察
家から出て、人に会う機会が以前より多い最近。

腰痛やら身体硬化症?やら認知症予備群?症状とかあるので、

自治体が設けてくれている太極拳と自力整体の教室に参加するようになったり、

自治体の秋の行事にも出かけている。

昨日も久し振りに以前働いていた職場の人に出会った。

むむむむ・・・と気になる気になる・・・

のはその人のことじゃなく、

その時の自分の心の状態。

後になって、その時の自分の心が観えてくる。

不自然な心が観える。

あぁ、そんな自分だったなぁ・・・とちょっと暗い気分になったんよ。

でも、さっき池田晶子さんと大峯顕さんという人の対談集を読んでいたら、

興味深い文章があって、

そうだな、そうだな、と思った。

(どういう文章だったか、またの機会に書くね)

そうしたらその後で、

こうして観える個である自分の心じゃなくて、

もっとずっと大きな心、それも自分なんだけど、それが確実にあるとわかるから、

こういう個である自分が気になるのかなと思った。

上手く表現できてないけど、

そんなふうに思えたら、なんだかすごく楽になったよ。

不思議だねぇ、心って。




嫌な奴はどうでもいい!?

2015-11-01 16:01:18 | ひとの幸福
昨日こういうのを書いている・・・

・・・その人のことが気にならなくなった。

どうでもよくなった・・・これ。

どうでもいい、というのはどう在ってもいい、ということだ。

その人がどうしようといい、どう在ろうといい、ということ。


どうでもよくなった、と書いている・・・ということは、

その前はどうでもよくなかった、ということだ。

あ~だったらいい、こうだったらよくない、

というような心の状態の私だった、ということ。

相手のそのままをそのまま認める、という私じゃなかった。

当たり前のことだけど、ひとは勝手にあ~とかこ~とかするものだ。

人は誰でも自分の意志で生きているもの。

いちいち人から許可を得て行為行動するもんじゃない。

なので、それを見る側聞く側は、

どうでもいい、という心状態が当たり前ということだね~


が、しかし・・どうでもいい、と聞くと、

なにやら不穏な空気を感じてしまう・・・

投げやり、虚無感、そんなイメージがある。

そういうイメージがあるのも当たり前か・・・

どうでもいい、という言葉は 絶望 も意味するから。

相手のことに関して、どうでもいい、というのは、

相手に何の願いもない・・相手にどうこうしたいと思わない・・・

という状態だ。

相手をどうこうしたい、と思うから、

相手は自分の思い通りにならず(人は自分の意志で動くものだから)

イライラ、カッカ、もんもん、する。

相手に絶望すればそんなのなくなる。

相手も自分も自由になるじゃないか・・・・・