すぐに諦めてしまうんだなぁ・・こいつ(わたし)は。
COPDなんだろうとすぐに 諦めた・・ ことが
要らぬ薬を一年も体内に入れたことに繋がったんだと思う。
昔から、気性がさっぱりしてると言われてきたけど、
運動神経が鈍くて逆上がりが出来なくても、
走るのが遅くても、バレーボールの球が打てなくても、
跳び箱が跳べなくても、頑張ろう!なんて思うこともなく、
高校の数学や物理がわからなくても、
出来なくったっていいやとばかりにすぐに諦め、
努力ということも一切せず、
いや、高校の数学テストの寸前に問いと答えを丸暗記するという手を使って
しのいだこともあった。それは努力なしで出来たから。
・・・自分の持ってる少ない能力の範囲でやれることをただやって来たんだなと。
そんなふうに生きて来たんだとこの年齢になって気づく。
努力ということをしなくて生きて来たから、
悔しいとか、なにくそっ!、とかの思いを持ったことがない有り様だ。
あ、あった、唯一努力したのは
15年以上前のある日突然、ピアノを弾けるようになりたいと思いついて、
レッスンに一年間通ったことだ。
努力した、努力した。努力とはこういうことかと納得した。
「嫌でもそれをやる」
練習が嫌でもそれをしない限り、ピアノを弾けるようにはならないのだとわかって、
練習を放り投げたくても、ピアノを壊したくなっても、
練習するしか方法がないのだと観念して、ええ、練習しましたとも。
だから今はモーツアルトのトルコ行進曲くらい弾けますの・・・
いやいや、決してそうではなく、(ここのところ、必ず読んでください)
その経験で得たことは「努力」とは自分の願いを実現するために、
実現方法としてコレだと確信することを、
゛嫌でも”やること。コレを理解した、そのことだ。
今頃??と思う人、いるのかなぁ・・
実際その辺のところもわからない。
(嫌でも)というのがなくちゃ努力とは言えない、と私は思ってる。
願いを実現するという過程に努力は要らない場合というのは・・・
願望実現を目指してそのために行為行動することが
簡単には出来ないことでも楽しくて面白くて嫌にならなかったら、
努力 は要らない。努める、なんて無い。
出来ないことがあっても嫌にならずに、
ただやるべきことをやるだけなんだろう。
今は出来ないんだ、と思うだけで。
すぐに出来るはず、と無意識のうちに思っているから、
そうならないから、嫌だぁ! になるのかな・・・
走ることや球技やら、数学やら物理やらに、
(出来るはず)や(出来るようになりたい)がなかった私は
こんなこと出来ないわぁ・・でおしまいだったのだと思う。
家族からも期待されてなかったのも幸いだったのかもしれない。
何が幸いなのか・・!?
ピアノの練習を嫌でもやったことで上に書いた以外に
私に起こったことは・・なんだ?
一応バイエルを終えた・・・
けれど、それがどうした・・というような思いもある。
それからの日常生活でピアノを楽しむ、ということにもならず・・・。
元々の私の趣味嗜好とピアノを楽しむこととはあまりにかけ離れていた、
という気はする。
けれど、嫌でも練習したら出来る日が来る、という感想は持ったなぁ。
嫌でも、やる、という経験をしないより、
そういう経験をした、というのはよかったろう・・・
今、思うのは、心が意識が自由自在な存在でいたい・・
(出来るはず、なれるはず、)が無いからこうして
なれてもないのに、のほほんとしていられるんだろう。