ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

大さじ30杯

2012-02-29 21:41:33 | 日々の暮らし・思い出
料理のレシピで、4人分で醤油大さじ3杯入れる、というようなのがある。

大人数の料理を作ったことがなかったからだろうけど、

40人分の料理を作るからといって、

醤油を大さじで何度も何度も何度も何度も入れていた人を見たことがある。

(30杯入れていたよう)

親しい人だったので、びっくりして笑っちゃったけど、

やってる最中に声かけると何回入れたかわからなくなってしまうから、

終えてから、大さじ1杯は15㏄だから大さじ3杯は45㏄で、

40人分なら450㏄を軽量カップで計って入れた方が早かったかもよと言った。

それを聞いた人は「あっ、そうかぁ!」と自分でも笑ってた。

大さじで30回入れてた人はその時、

まとめて450cc入れればいいという知恵がなかったといえる。

聞けば「そうかぁ、なるほど」となる。

(15×3)×10=450 なんてことはとうに知ってる。

その人は所謂知恵遅れでもない、何か難しそうな国家資格を持っている人だった。

知識と知恵は違う。

知恵ってどんなふうに生まれるんだろうと考えると・・・

醤油を入れようとなった時に、瞬間的に、

(こうしたら早くできる)・・とかいうようなものが浮かぶ、

・・というようなことだろうか。

それが浮かばないと、大さじ3杯→大さじ30杯 ということになってしまう。

(そのやり方が間違っているわけじゃないけど)

この場合だったら、(早くやりたい)だけみたいだけど、

だいたい食事を作るということは、一品だけ作ってお終いというわけじゃない。

ご飯や味噌汁や二つ位のおかずも作る。

(美味しく作りたい)(手早く作りたい)(温かい物を出したい)

(ご飯と味噌汁は同時に出来るようにしたい)

(塩分はなるべく控えたい)(この材料だけでナントカ仕上げたい)

(洗い物はなるべく少なくしたい)(ガスコンロが二つしかないから、出しを早くにとっておきたい)

(明日の弁当用に途中で、この分は取り出しておきたい)

・・・とかとか、限られた時間の中で・・いろいろな(~したい)がある。

台所ではたくさんの(~したい)が全部叶うように頭を働かせることになる。

たくさんの(~したい)という願いを全部叶えようとすると、

自然といろいろな知恵が働くのかなと思う。

それも自分ひとりの為の食事作りだと、それほどの熱意は生まれてこない。

自分だけじゃなくて、

他の人にも用意したいと思う時の方が熱意や知恵が出てくる。

誰でもそうなんじゃないかと思う。


こうしたい、こうなりたい、こうなるようにという願いが、

自分にとってだけじゃなく、自分を含めたたくさんの人にとって、

豊かに幸福に、というようなより大きなものになると、

そこから生まれる知恵も自ずと豊かになるのは道理かもしれない。

文字の解釈

2012-02-29 16:34:05 | ひとの幸福
カントに「純粋理性批判」というのがあって、

ちょっと読んだんだけど、

それを読む時に「批判」という言葉についての自分の解釈・意味を持ったままでいたら、

なかなか読み進めなかった。当然だと思う。

例えば、それは

「リンゴ」という文字を林檎だと解釈して読み進めていたら、

言っていることがわからなくて、

実はその「リンゴ」という文字は(みかん)という意味なんだった・・

ということがわかった・・・というようなこと。

「リンゴ」の文字を見たら、そうか、これは(みかん)の事なんだな、

と自分の頭で置き換えて読まなければ、読み進められない・・

そんな感じだった。

「批判」という文字のことだけじゃなくて、

いろいろと難しい普段は使わないような言葉があって、

それを私がわかる言葉に置き換えて解釈するということをずっとして読んだ。

謂わば変換ばかりしながら読んだ。

だいたいのことはわかった気がした。


この「批判」という文字は、

日本語にその原文を訳する時にこれにしようと、

数ある言葉の中から翻訳者が選んで決めたものなんだと思う。

今の日本では「批判」という言葉は

何か否定的なニュアンスがあるように感じる。

俺が正しいんだぞみたいなものも感じることが多い。

否定的なニュアンスで使われることがこの世の中で多いので、

知らぬ間にその字を見るとそう反応してしまうんだろうと思う。

実際広辞苑にもそういう否定的な意味合いもある、とも出ていた。


けど、「批判」 を英悟では「critic」というそうで、

この原義は「境界線にあるものがどちらか見分けられる」であるらしい。

「critic 」はギリシャ語の「krino」から来たもので、

その意味は良いものを選別する=吟味する ということらしい。


・・これは違いを明らかにするという意味だと思うけど、

例えば、赤ちゃんと大人は違うし、

赤ちゃんより大人のほうが選別能力はあるし、

いろいろな知恵もある。

けど、赤ちゃんが間違っているわけじゃない。

未熟なだけだ。未熟は間違いじゃない。

非難することじゃない。


通常使われてる「批判」はその違いである未熟さを、

非難するニュアンスが含まれているものが結構ある。


文字もそれをどう読むかで違うものを受け取る場合がある。

何をどう受け取ろうとそれぞれの勝手なのでそういうことが出来るんだけど、

その言葉を読む時に自分の経験による解釈をひょいと退けておかないと、

読みとれないことがある。

「早くして!」

2012-02-28 19:37:48 | 日々の暮らし・思い出
子供が保育園児だった頃の話。

自分が何処かへ行くのに電車に乗り遅れたくなくて、

それまでに早く事を進めたいんだけど、

小さな子供は何をするのも時間がかかり、

早くして早くして!と願望した。

そこに行くのが遅れてしまうんじゃないかという恐れがあった。

こんなふうに、

遅れてしまうんじゃないかという恐れがなければ、

早くして早くして、という願望も無い。

何故早くして、と願望したのかと言えば、

遅れる恐れがあったからだ。


待てない、という心の状態は恐れがあるから。

何故待てないのかといえば、

早くしないと、とんでもないことが起こるというような強迫観念があるせい。


遅れたっていいや、という“願望の放棄”状態になると、

子供も自分も(早くして)という思いに邪魔される事なく、

その時のそれぞれの能力を100%発揮できる。

チーターに追われたシマウマみたいに、動物は身をすくませる事なく、

的確な行動が冷静にとれるのと同じ現象が起こる。

結果として、結構うまいこと行くようだ。

当たり前といえば、当たり前だね。


願いなんて聞くと大袈裟な感じがするけど、

私たちは毎日何度もいろんなことを願っている。

願いが叶わないでイライラしたりしてる。

「恐れることがなければ、願望することもないし、

願望することがなければ恐れることもない」、

というスピノザの言葉は本当だなぁと思う。

でも、願望しないというのは無理だね。

願望は持つんじゃなくて実現すればいいだけの話し。



「わかる」★

2012-02-28 17:21:03 | ひとの幸福
「わかる」というこの言葉のもつ内容に私は興味があるみたいだ。

今までも、どんなことなのかと何度も考えている。

どんなこともわからないと現象は進まない。

これが食べ物だとわかるから、人はそれを食べる。

こういうやり方が便利だとわかって、それをしたら便利だった。

失敗のわけがわかって、失敗しなくなる。

あの人はあれを嫌がるとわかったので、あの人の前であれはしない。

ガンになるわけがわからないから、ガンは減らない。

人間関係のトラブルが起こる本当のわけがわからないから、トラブルは続く。

本当の幸福がどんなものなのかわからないから、

何をどう目指していいか、わからなくて幸福にならない。

・・こんなふうに“わかる”ことが進むことは、人が幸福になる道と言えそう。

なんだか、こう書いてみると当たり前な気がして来るね~。


「わかろうとする」という思いがどういう時に発せられるのか、考えてみると、

「どんな問題があるのか」「どんなことを考えているのか」

「それはどんな用事か」「それはどんな計画なのか」

「その漢字はどう読むのか」「地震で何が起こったのか」・・・

・・というような場合であることがわかる。

・・そういうような(何?)(どんな?)がある元々疑問形の?が湧いて来たときに、

(わかろうとして)聞いたり、辞書やネットで調べたり、する。

(辞書、ネット、ひとの言葉)の意味がわかれば、

「そうなのか」という納得が得られる。


「わかろうとする」という意識の働きが起こるのは、

何がわからないのか、本人にわかっているので起こる。

そして、「わかりたい」という願いの実現方法も知っている。


人間関係のトラブルが起こる本当のわけがわからないから、

トラブルは続く・・と上に書いたけど、

この場合の“わからなさ”は(何?)とか(どんな?)がわからないということじゃない。

人間関係のトラブルが起こる本当のわけ がわかってない自分で在ること、

が、わからない、 ということ。


トラブルになる本当のわけをわかってなかった自分だと気づいた時に、

そのわけがわかる。


何故なら、本当のわけをわかってなかった自分だった とわかるのは、

既に本当のわけをわかった自分でしかないから。


そう、「わかる」とは“わからないことがわかる”それしかない。

無知の知。な~るほど だね。

弁当

2012-02-28 14:17:26 | 日々の暮らし・思い出
東京にいた時、通勤していた夫に毎日弁当を作っていた。

自分の心象風景ががらっと変わってしまったことがあった後、

朝作る弁当が変わった。

ご飯と海苔を重ねて、間に鰹節を挟み、

その上に鮭の切り身をチンして乗せた・・それだけの奴。

一年近くこの同じ弁当を毎朝作った。

他のメニューを作りたい、いろいろ作りたい、という気持ちが発生しなかった。

それ以前はいくらかは考えて作っていた。

栄養のバランスを考えて作らなくちゃいけないとか。

そういう(~しなくてはならない)という思考がその時一切消えてしまった。

毎朝このスタイルの弁当を作る、

それがその時の私のやりたい気持ちの(やらなくちゃならないじゃなくて)

分量だったんだと思う。

それ以上の(いろいろ野菜や色のある)弁当を作るとすれば、

当時の私にとって、「やらなくちゃならない」モードになってしまう・・・

・・そういうことが、意識してじゃないけどわかってたんだろと思う。

「やりたい」気持ちだけでやっていた。

「良い弁当を作らなければいけない」が無いので、そういうことになった。

夫は毎日その弁当箱を空っぽにして帰って来た。

後になって聞いた時も、「別になんとも思わなかった」と言ってた。

彼が嘘を言ったという可能性が無いわけじゃないけど、

彼を見ると嘘じゃないのかな~と思う。

彼は栄養がナンタラにそれほど関心がない。

その時もし、彼が「こんな弁当じゃイヤだ」と言ったら、

その時の私はどんなふうだったんだろう?と想像すると、

それを聴いて、そうかぁ!と思って、

弁当を用意したい気持ちの分量が変化してたんじゃないかと思う。

そして、もう少し色のある弁当を作っていたんじゃないかと思う。

その時の弁当の姿は二人の気持ちが一致していた結果といえるかなぁ。

「馬鹿になる」

2012-02-28 11:13:49 | ひとの幸福
よく世間で「バカになれる」という表現を聞く。

普段大真面目な堅い人が宴会の席で、

志村けんの真似なんかしてバカになりきったりすることがある。

大いに受ける。普段と違うほど面白い。

これはその場の雰囲気に(周波数に)同調できるという現象なんじゃないかと思う。

その時その時のその場にある周波数に同調できるというのは、

変幻自在、自由自在な感じ。

例えばその場が苦しみに満ちた場である場合、

そこでの自分は共感するけれど、(そこの周波数と同調できるということ)

苦しまない。

そういうのって、共感する自分とそれを観察する自己が分かれている感じがする。

苦しみを苦しまない。

その場が喜びの場だったら、

喜びを喜ぶ。


自由な人に・・

2012-02-27 19:19:50 | 日々の暮らし・思い出
あれをしたい という事柄についての願いは実現方法がわかりやすい。

カップラーメンが食べたい、となったら、無ければ買いに行けばいい。

そして湯を沸かせばいい。

こういう願いの実現方法は知っている。

高速思考で用は足りる。


子供が常識なんかに捉われない自由な子になるように・・・

なんていう願いを、子供を産み、育てていた頃、思っていて、

あーかな、こーかな、とかいろいろ思ったけど、

こうしたらそれが実現するということを、

結局わからないまま子供は大きくなってしまった。


実現してないので、ずっーと願っていた状態が続いた。

願っているという状態が続くということは、

いま、願いが叶ってないという認識で居るっていうことなので、

その認識から、昨日書いた“引き寄せ”の法則によって、

願いが叶ってないという現象を引き寄せることになるわけだ。

謂わば、悪循環かもしれない。


カップラーメンが食べたいという願望の実現した姿は、

カップラーメンを食べているという行為なんだけど、

常識に捉われない自由な子供になるように、という願望の実現した姿は

常識に捉われない自由な子供に“なっている”姿だ。

それは行為じゃなくて、境地。

境地の結果としての行為行動というのはあるけど。


願うだけでそういう境地になるならどんなに簡単だろうと思うけど、

この世界は物理的世界なので、

思っているだけで、なんの行為も行動もなければ、

何も起こらない。

自由なる境地になる物理的な方法があるはず。


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カツオ君のお母さん

2012-02-27 14:52:58 | テレビを見て
昨日テレビで「サザエさん」を見た。

絵馬に願い事を書くというような話で、

カツオ君の友だちのナントカちゃんが 願い事が無い とか言っていて、

それを聞いたカツオ君のお母さんは、

「願い事が無いなんて幸せなのね~」と言った。

おおっ!!と思った。

願い事が無いということは願いが全て実現しているという状態だ。

満足している状態。 今幸福で在るという状態。


スピノザという人が言った言葉の中に、

「恐れることがなければ願望することもないし、

願望することがなければ恐れることもない」というものがあるようで、

これを実感したことがある。

昨日書いたお金のこともそうだけど、

娘のことで凄く心配したことがあって、

娘に~こうなってほしい、幸せにいい感じになってほしい、

というような願望をずっと持っていた。

娘がナンタラで不幸になってしまうんじゃないかという不安、恐れ、

一時期そんな心の状態だったことがあった。

お金のことなんかよりもずっと私を蝕んだ、そういう気がする。

2ヶ月間位だったかな、四六時中娘の事が頭から去らなかった。

全く人生初の出来事で以前にも書いたことがあったと思うけど、

恐れを思ってしまうこの意識という存在自体をなくしてしまいたかった。

お金の時と同じように、ある時、もうどうなってもいい!

娘がそーなった時はそーなった時のことだ!

やれることしかやれない!

と開き直れた。謂わばこれは願望の放棄だ。

途端に、気持ちがすーっと静かに穏やかになったことをよく憶えている。

そうしたら目に見える現象が進んで行った。

自分のやることがすっきりと見えてきた。

スピノザの言葉である“願望することがなければ恐れることもない”状態になった。


彼によれば、「叡智とは恐れの不在としての平静さ」

恐れと無縁であるということは、

願望とも無縁であるということ。そしてそれは絶望している者。

真理があれば十分であって真理が彼を満たしている。

絶望と幸福は1枚のコイン。

絶望のきわみにあるとき、愛が姿をあらわす。

幸せを願望するのを止めること こそが幸せを生きる唯一つの方法」

・・・こういった言葉があったけれど、

本当だなぁと思う。

でも、絶望するには願望しなければならない。

願望しなければ絶望できない というこの矛盾!

これも呼吸のようなものなんだろうな。

吸わなければ吐けない。吐けなければ吸えない。

吸うのが良いでも吐くのが良いでもない。

絶望が悪いわけでもなく、願望が良いわけでもない。

ただそうなっている。

喝采♪

2012-02-27 14:27:08 | ひとの幸福
古いけど、ちあきなおみという歌手がいて、

その人は「喝采」という歌がヒットして、

確かレコード大賞も受賞した。

その後結婚相手が急死して、芸能活動をやめた。

どんな理由でやめたのか知らないけど、

この前、もしかして・・と又妄想が広がった。

その喝采という歌の中には、

舞台で歌っているときに大事な人の訃報が入ってきたというような言葉がある。

ドラマチックな歌だ。

この歌はヒットもしたし、

たくさんたくさん心を込めて歌ったんだろうと思う。

何千回と歌ったかもしれない。

前回書いたけど、「お金がない」という言葉を

心から何度何度も何度も何度も・・・発すると、

量子ゼノン効果でその状態が続く・・なら、

こういう歌を本気で心を込めて歌ってたら、

そういう結果になってもおかしくない・・んじゃないか・・

って、思ってしまった。

・・で、彼女はそれにびっくりして深く後悔し、

歌手をやめてしまった・・・?????

ホント、これ全くの妄想よ。

ちあきさんがどう思ったかは知らないから。

でも、これ、在り得ないっていえない・・・?!

退院した義父

2012-02-26 16:23:11 | 日々の暮らし・思い出
義父は術前(脳が萎縮状態のとき)、術後はそれ以前より声が出なくなっていた。

さっき、義父は「だいぶ声が出るようになった」と言った。

・・ということは、

ついこの前までは声が出にくかった、ということが義父はわかっているということだ。

声が出るようになった今の自分を客観視できている、ということだと思う。

その時そうだった自分と、客観の自分というその二つの存在が

はっきりと分かれていることを示している。


声が出ている自分、・・そういう自分だからこそ、

声が出なかったことがわかる。とも言える。


「声が出ている」と言語化したということもそれを表わしてる。

ずーっと変わりなく、声が出ていたら、

「声が出てる」、なんて馬鹿げた事は言わない。


言語化、というのは言葉を持つ人間にしか出来ないことと思うけど、

自分の状態について言語化出来るということは、

自分を客観視出来ているということ。


「結婚することになりました・・・」

2012-02-26 15:49:50 | 言葉
「結婚する事になりました」という言葉がある。

「なる」とは、そうなるからにはプロセスがある・・

・・というようなことをたくさん書いてきた。

そのプロセスは結婚する二人だけのことじゃない。

二人が巡り合えたことになったアレコレ・・

「スライディング ドア」という映画みたいに、

あの時全くの他人があそこであーういうことをしなかったら、

二人が会うという機会はなかった・・とか、

その時の、全くの他人があーしなかった現象が起こるのもその前の現象に繋がっている。

二人が結婚する事になったのはそれまでのすべての時空が含まれている。

結婚そのことに限らない。

全ての出来事がそうだ。

こうして私が今パソコンに向かっていることになっているのも。

今までの直接私に関係のないことも含めて、総ての時空が含まれている。

「なる」というのはそういうことだ。

多分、こういうことは、

ちらっと読んだ今村仁司さんの本にあった言葉だったと思うけど、

「すべての事物は過去の歴史的経験の凝縮である」、

という文章が云っていることと同じなんじゃないかと思う。


日本語では「結婚することになりました」の前に、

「おかげさまで」というのがある。

これも特定の誰かのおかげという意味合いじゃないと思う。

誰とも云えない、全ての時空から成る(生る?)ものへの感謝みたいな感じがする。

言っている本人はそう考えて言っているわけじゃない。

自然に口から出てくる。

考えたら凄いことだね~

潜在意識ではそれを知っているということ・・といえないかな。








「お金はある」

2012-02-26 13:27:08 | 量子力学と心
人間として先天的に持っている不安は二つある。

一つは落ちる不安、もう一つは大きな音に対しての不安だという。

本にあった言葉だ。それが本当かどうか知らないけど、

そうだとして考えると、

それ以外の不安は生きて来た環境によって発生した不安と言える。

だとしたらそういう不安は解消する可能性は十分あるということだろう。

「なくなったらどうしよう」「なくなるんじゃないか」

という不安感が一番大きいかな。

身体の健康、家族、お金、財産、友人知人・・・。

無くなることを認め、無くなってもいいと覚悟を決めると、

その反対に豊かになる。

そういう実感を持った経験がある。

その時は「不思議とそうなった」という感じだった。

事実そういうことが起こるということは

何らかのわけがそこにあるということ。


「お金がなくなるんじゃないか・・」という不安を持っていた自分とは、

どういう状態なのかと観察すると、

少ししかお金を持っていないと思っている、ということ。

少ししか持っていない自分で在る、と認識している自分だった。

あの時、元々大変なのは嫌い、楽なの大好き私は、

お金が無くなる不安に怯えていた自分に耐えられなくなったんだろう、

もうどうでもいいや!

お金が無くなったら無くなったときのことだ!

その時考えよう!という感じになったら、

現実的にお金は無くならなかった。そういう方向に進んだ。

そういう実感を持った。


“無くなること”に関心が向かなくなったら、

無くなるという現象にならなかった。

量子ゼノン効果だな、これも。


この前整体に行った先で、なんやら張り紙があって、

それに「言ったらいい言葉」と、「言わない方がいい言葉」というのが

書かれてあって、

言わない方がいい というのの中に、

「お金がない」というのがあった。

勿論言った方がいい言葉の中には「お金はある」があった。

実際通帳の残高がホントに無くても、

「お金はある」と思ってた方がいいんだ。

そうだね、自分の通帳には無くったって、

ひとの名前の通帳にはたくさんあるだろうからね。

ムカデ山とこ子という「私」の通帳の残高には無くても、

大きな意味での「私」にはお金はたくさんあるということだし。


失敗②

2012-02-26 11:12:40 | 本を読んで
戦争や紛争や小さなトラブルがいつまでもこの世界に続くのは、

①それを失敗とも捉えず、

②もっと皆が住みよい世界にしたいという意志が私たちに無いからなのか・・

③そんなことどうせ無理とあきらめきっているのか・・

(人間はそんなもんだよと・・)

④そういう意志や情熱はあっても、その実現方法を知らないからなのか・・・

自分自身の経験から考えると、

上の四つ、全部あると思う。

けれど、②のような大きな意志を持つ人たちに巡り会って、

その意志に共鳴する自分を発見した。

そんなふうだったなぁ。

それからは・・

『論理的に言語化し、推理して、

失敗の理由を白日の下にさらさないとダメ。

非常に理性的な過程を経ないと失敗からの学習は出来ない』

・・このようなことをグループで楽しくやる機会に恵まれた。


失敗

2012-02-26 10:59:41 | 本を読んで
将棋の羽生善治さんと脳科学者の茂木健一郎さんの対談を読んだら、

興味深く思うのがあった。

茂木さんが言うには・・・以下

ひとは失敗の理由を学ぶことは殆ど出来ない。

人間の脳の性質からして、成功というのは勝手に強化される。

それを強化学習という。

失敗して同じことは二度と繰り返さないということは、

単純な場合なら出来る。お湯を沸かしたヤカンに触ってすごく熱かったから、

もう二度と触らないようにするとか。

けれど、もう少し複雑な理由が失敗の背後にあると、

脳の自然な学習のメカニズムに頼っていては

絶対に無意識の学習は出来ない。

論理的に言語化し、推理して、

失敗の理由を白日の下にさらさないとダメ。

非常に理性的な過程を経ないと、失敗からの学習は出来ない。

我々はそれを実生活の中ではほとんどやっていない。

人間は皆、失敗した時はそれを一時も早く忘れたいと思う。

嫌な思い出は忘れたい。

その時に冷静に、どういう理由で失敗をしたのだろうかと振り返ることはやらない。

将棋界はそれをやっている。

・・以上なんだけど、凄く合点した。


戦争とかもそうだけど、人間が何度も同じ間違いをしてるのは、

失敗から学ばないから。

当たり前といえば当たり前のことだね~

高速思考ばかりしているともいえるかもしれない。

低速思考したら、失敗から学べるんじゃないかと思う。

何故失敗をそのまま看過してしまうのかと考えると、

こうなりたい、こうしたいという強い意志が無いからなのかな。

どう生きたいのか、どういう世界を望むのか、

そういう意志が無ければ、失敗経験から学ぼうという展開にはならないだろうし。


以前に書いたことあるけど、子供の頃、跳び箱が飛べずに失敗ばかりしていた。

その失敗から学ぼうという展開にならなかったのは、

跳べるようになりたいという強い意志がなかったからだ。

跳べなくったって構わないと思ってた。

跳びたい が なかった。

それと同じことなのかなと思う。



認知 ②

2012-02-25 20:09:02 | ひとの幸福
ある現象が在った、ということ と、

それが在ったと認識していること、ということは別。

いわば、在った事実について、在ったという自覚の有無が、

認知症と認知症ではない人とを分けるのかと思う。


例えば、食事をしたのに、

食事したという事実が在ったという認識がないのが認知症状。


こういう目に見える現象の“事実”もあるけれど、

目に見えない現象である意識も、

(こういうことを思った)という“現象・事実”である。

それは自分にしかわからない。

なんせ意識は目に見えない現象だから。

そういう意味で、自分がこう思った、こう感じた、こう考えた、という事実が在っても、

それが在った、という認識が無いのは認知症状といえると思う。


その時その時、自分がどう感じ、どう思っているかに自覚もなく、

そのせいで、何かをする時に心底からの納得がないまま行動して、

そうしているという事実に、自覚が無い状態というのは

かなり認知症状が重いような感じがする。

・・見に覚えがあるのでわかる。

その時はそうしている自分に自覚がなかったから、

重症だという認識はなかった。


脳が萎縮して認知症状が現われるという。

義父の場合は転んだという物理的原因で脳の血管が破れ、

出血し続け、2ヶ月かかって大きな血腫になり、

それが脳を圧迫し、脳は萎縮したので認知症状が現われた。

何故脳が萎縮したのか原因はわかっている。

その原因を除去したら、脳は復元した。

物理的原因で萎縮した脳は物理的原因を取り去れば復元する。


さっき書いたような自分の意識に自覚が無いという状態は

その部分の脳を退化させる。そう確信する。

自覚するという働きを司る脳は使われなければ萎縮するんだろう。

使われないもの、動かないもの、は死ぬ。


心理的原因で脳が萎縮した場合は、

物理的原因と違って手術など出来ないのだろう。

現在、こんなに医学が進歩しても、脳が萎縮する原因はわかってないという。

身体ばかりに注目し、意識の方がおろそかになっているせいじゃないかと思う。

物質である脳にばかり注目し、

肝心要の意識に関心を寄せてない現状が、

認知症の原因すらわからないという状態を生んでいるのかと思う。