ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

方法

2011-10-31 10:59:16 | ひとの幸福
人の言動をあーだこーだと解釈し、

否定し、肯定し、判断し、批判し、非難し、褒め、・・・

・・している世界が今の世界。

そういう事をしている結果がこの世界、この人生。

勿論そうなっているだけのこと。

良くも悪くも無い。


ひとの潜在意識も含め、意識が変わることによって、

それが現象化する世界、人生は当然変化していく。

良くも悪くも。

生後5ヶ月の赤ちゃん

2011-10-31 10:47:22 | ひとの幸福
5ヵ月半の赤ん坊に初めて、夏みかんを食べさせているビデオを見た。

母乳以外の物を口に入れるのは生まれて初めてらしい。

「夏みかん食べてみようか」と母親は声を掛ける。

夏みかんの房を赤ん坊の口の傍に持って行く。

赤ん坊は口を開ける。

みかんの少しを口に入れる。

口をくちゅくちゅさせている。

何ともいえない複雑な顔をする。

母親が「酸っぱいねぇ!(^^)」と言う。

もう一度みかんを口に持って行く。

口を開け、くちゅくちゅさせている。

同じように眉毛が下がるようなへんな顔つきをする。

母親が「酸っぱいねぇ!(^^)」と言う。


酸っぱい→もう口に入れるのは止めよう。

酸っぱい→イヤだ。

こんな展開、判断は無いように見える。

口に入れてへんな顔をして、すぐにまた口に入れるのだから。


酸っぱい という言葉の意味も勿論わからないだろう。

何かが口に入る・・

それを見て「食べてみよう」なんて思うわけじゃない。多分。

口の傍に来たので、自動的に口を開ける、そんな感じがする。

ただ、「そういう味がした。」赤ん坊の脳は・・・そんな感じかなぁ。


何かをする→それについて、大人が何か言う。

その何か(物事)と その言葉や態度 を、

同時に体験することを何度も何度も何度もすることによって、

段々と、物事と言葉(思い、見方)がくっ付くんだろ。

物事とそれについての意味を知るんだろう。

母親は「夏みかん食べてみようか」と声かけていた。

いつか、その物、その味が「夏みかん」という言葉で、

喚起されるようになるのだろ。

どんな物もどんな出来事、現象、物事も、

それ自体は元々どんな意味も無い。

良いも悪いもない。

ただ、在る だけだ。

こういう赤ちゃんを見るとそれがよくわかる。

物事、(物や現象)を周りにいる大人がどう観ているかが子どもに伝わる。

大人が子どもを創っている。


「子供は親の言うようにはならないけど、親のやるようになる」

という昔からの言葉もある。 

「ありがとう」

2011-10-30 09:11:00 | ひとの幸福
ひとから好意を受けたり、物を頂いたりしたとき、

そういう好意が嬉しくて、

自然と「ありがとう!」って言いたくなっちゃう。


「ありがとう」って言うのは常識で、

そう言うのは当たり前だからと、

「ありがとう」と言うのは、

上に書いた自然と出てくる「ありがとう」と言った時と気分は違う。

そう言うのは常識だから言うというのは愉快に感じない。心が動いてない。


気持ちで生きるのは生き生きしてる。

常識で生きるのは生きてない。




思わず・・しちゃう

2011-10-29 13:22:10 | ひとの幸福
例えば、何も身に覚えがない時に、いきなりぶん殴られたら・・

反射的にぶん殴り返したり・・するかもしれない!?

そういう極端なことじゃなくても、

職場で、ひとから何か声かけられて、

ぱっとしてしまう行為とか、

ぱっと口から出る言葉とか、

思わずそうなっちゃうことがある。

「思わず」という言葉通り、

顕在意識で思わないうちに行為してしまうことを、

思わずしてしまった、というんだろ。


車の運転なんかでも、

いきなり目の前に人が出てきたら、思わずブレーキを踏んだり、

ハンドルを切る。

テーブルのコップが倒れそうになると、

瞬時に手を出して、倒れないようにすることとかもそう。

こういうのは顕在意識じゃなくて、潜在意識の働きらしい。


車の運転で、さっき書いたような場合に、

ブレーキを踏んだり、ハンドルを切らない人は、

多分いないんじゃないかな。


いきなりぶん殴られて、反射的に殴り返さない人は、

広いこの世にいるかもしれない。

余談だけど、昔 ノアの箱舟 とかいう宗教団体のひとの話で、

その人はたくさんの教会に行って、

出てきた牧師さんだか神父さんをいきなり殴る、

というのをわざとしたらしい。

そうしたところ、聖書に書かれてある、

「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」

・・の言葉のような対応をした人は、一人もいなくて、

そんな教会に行っても意味ないと思って、

自分で教会を創ったんだそうな。





お義父さん

2011-10-29 11:43:55 | ひとの幸福
義父と畑に行った時、

私が夏みかんの剪定をするのに、

木に登ったり、梯子に登ったり、枝の上で切っていると、

「気ぃ付けてな・・」と心配そうに何度も何度も言う。

そう言う義父は私より34歳も年取っているのだが、

平気な顔をして、梯子を使ったり、屋根に上ったりするのは、

よくやっている。

自分では平気そうな顔してやっているのに、

なんで義父はあんなにも心配するのだろうと思って、

考えてみた。


だいたい誰でもこういう状況の時、梯子に上るとか、

屋根に上がるとかの時は、

意識を集中して十分注意してやるんだと思う。

自分の動きについては、

自分の意識(気をつけてやっている)が自分でわかっているから、

心配することなくやっているけど、

他者はその意識が見えないから、心配するのかな、と思った。

義父の心はわからないけれど。


ごまかし

2011-10-28 10:11:54 | ひとの幸福
政治家が何かしたり、言ったりした時に、

マスコミは批判や皮肉が大好きで、よくある例だけど、

「ナントカが勝手にやったなんていってるけど、

罪を全部ナントカにおっかぶせて、それでお終いっていうことだぜ・・・」

・・なんていうニュアンスを振りまいている。

事の真偽は私にはわからない。

新聞に書かれてあっても、事実本当にそうなのかどうかは、わからない。

松本サリン事件の河野さん逮捕のときも、村木局長さんの誤認逮捕のときも、

事実であるかのように表現するのがマスコミだ。

事実そうなのか、そうでないのかわからない、という目で見ることが必要だ。

疑ってかかるということでも、鵜呑みにすることでもない。

けれど、こういうニュアンスには、

誤魔化しているに違いない、という自信がたっぷりあって、

(ひとは誤魔化すものだ) という人間観を持っていることがわかる。

実際にごまかした事実があったとしても、

そういう人間観から来る発言はなんだか臭い。美しくない。

・・と感じてしまう。

実際にあったことを言っていたとしても、そういう人間観から観れば、

幾らかの状況証拠で簡単に、ごまかしていた、と決め付けることもないわけじゃないだろう。

人間自体がまだ未熟だから。幼稚だから。

「あの人は税金を払わなかった」というのは人間観から来る言葉じゃない。

現象を観察しただけの言葉だ。

実際ひとを悪意でごまかしたりしない人の方が割合としては多いと思う。

マスコミで取りあげるのは、少数派ばっかりで、

一億人近くが真面目にごまかさずに行なっていることは、

取り上げられない。

マスコミも、せっせと観測者効果を振りまいてる。

そうしてることを知っていて、やっているのか、

知らないでやっているのか、私は知らない。


観客

2011-10-28 09:48:03 | 量子力学と心
観測者効果の一つ。

芝居や漫才とか落語なんかもこの例がわかりやすい。

何かお笑い芸人が話して、観客がシーンとしていたら、

その後の展開に影響があるだろう。

脚本も書き直されたりするかもしれない。

観客がおおっ!と反応すると、

芸人からもっともっと勢いみたいなものが引き出される。

もっと面白い展開になる・・。

よく芝居も映画と違って、観客と共に創られて行くものだ、

という話を聞くが、その通りと思う。

人生もそういう意味でその時その時、共に創るドラマといえる。

(世界)という現象もそう。

全てのひとりひとりが共に創っているのが今この(世界)


「記憶は嘘をつく」

2011-10-27 10:31:23 | 本を読んで
 
榎本博明さんの「記憶はウソをつく」というのを読んだことがある。

「記憶の再構成理論」というのがあって、

「記憶は出来事が起こった時点で固定されるのではなく、

後になって想起する時点で、

そのときの視点から再構成されるとみなすもの」とある。

「主観的な思いに記憶は左右される・・

想起というのは、オリジナルな経験をそのまま保存しておき、

思い出すときに、それをただ引き出すというような受動的な作業ではない。

想起するときの視点から、過去経験の素材の痕跡をもとに再構成するという、

きわめて能動的な作業なのだ。・・・」

こう言える根拠として、いろんな心理実験なども載っている。

前に書いた、過去を変えた話しもそういえばそういうことだ。

その時は心からやったことでも、

後で騙されたと思うと(相手は騙してはいないのに )

その時点で美しい思い出が悔しい思い出になる。

うん、これなんか全く記憶の再構成だね~。

思い出す時の自分の視点から構成されてる。


相手の機嫌

2011-10-26 15:36:31 | ひとの幸福
「このひと怒っている」と思うことで、

気が重くなったり、気がもやーっとするのは、

その怒りが自分のせいではないか と思うからじゃないか。

初めて会った人が怒っているように見えても、

自分のせい とは思わないから、気が重くなる事は無い。

怒らせた(自分のせい)という “思い” は世の中にたくさんあるけど、

そういう“事実”は無い。

怒ったとしたら、そのひとが怒っている。

自分の発した言葉や態度はあくまでその人がそうなったキッカケであって、原因ではない。


自分が怒らせた と“なる”と、対応は、ビクビクモードになりがち。

自分のせいで怒ってるんじゃないか、ビクビク・・ という波動と、

お前のせいで怒っている という波動 が共鳴する・・・んじゃないかな。

相手がお前のせいだと思って怒っていても、こちらにそれがないと、

相手の怒りモード と共鳴出来ない。

すると怒りは共鳴ならず、蛙の面にしょんべん状態になる。

相手は面食らう。合気道と同じかもしれぬ。


諍い

2011-10-24 16:07:11 | ひとの幸福
ひとから聞いたカボチャ事件。

カボチャが硬くて包丁が入っていかず、夫に頼んだら、

「そんなこと女の仕事だ!」と言ってやってくれなかった。

悔しくて、カボチャを投げて割ったという。

その話を聞いたときは、そりゃ、悲しかっただろう、と思った。

けれど、それまで仲良く暮らしていたとしたら、

いきなりそんなふうに夫がなるとは考えられない。

いつも心から優しく接してくれる人に、

「カボチャ切って」と言われた時にいくら男尊女卑の気風があったとしても、

邪険に対応するということなど、出来ないんじゃないか・・と思う。

その場面だけ、その状態、その現象だけ、見ると、

明らかにこの態度はひどい、夫が悪い・・・というふうに見えるけれど、

そう“なる”にはそう“なる”だけの何かがそれ以前にあることが多い。



浜田真理子さん♪

2011-10-24 09:48:14 | ひとの幸福
久しぶりに浜田真理子さんの歌を聴いた。

一時こればっかりだったけど。

松江に雨が降る、だったかな、

「ぬくもりがある」とかの歌詞を聴いて思った。

この歌詞を作ったのが誰だか知らないけど、

このひとが松江をぬくもりがある街と捉えている。

私が松江に行っても、ぬくもりがある街とは思わないかもしれない。

ひとの口から出る言葉、ニュアンスはそのひとの観ている世界だ。

話しをすると、どんな心の世界に住んでいるのかわかると思う時もある。

「パパはなんだかわからない」

2011-10-23 15:42:53 | ひとの幸福
どうして惹かれるものと惹かれないものがあるんだろ。

何故だかわからないけど、惹かれる。

今もあるかもしれないけど、週刊誌のマンガで

「パパはなんだかわからない」という奴。

あれなんかそうだった。

あの「パパはなんだかわからない」というネーミングにも凄く惹かれた。

あの絵のパパの表情とあのタイトル・・・

なんだかわからないけど、惹かれる。

こういう感覚って面白い。

一人一人こういう感覚は違う。

なのでひとは面白い。

忘れる

2011-10-23 13:57:26 | ひとの幸福
この頃いろんなことをよく忘れる。

いや、この頃に限らない。

なんせ若い頃JR(当時国鉄)の通勤定期の期限が切れたのを、

忘れて半年もそのまま毎日通勤してた。

当時は今みたいな改札じゃなかった。

駅員さんが定期を見るというスタイルだった。

ホントに忘れてた。知ってたらとても出来ない。

ある日、精算すればいいと、電車に乗った。確か東北への一人旅だったか、

あ、検札の人が来る、定期出しとこ っと思って、

ふと、定期を見ると、!!!キャー!超ヤバイ。

瞬時に考えた。しらを切ろう。

だって悪意なんかなかったんだから。

それっきゃない。

ホントに何気なく、はい、お願いします・・とかなんとか言って、

定期を堂々と出し、精算した。

車掌さんはにこやかに去って行った。

終わった時のあの安堵感。忘れられない。

いや、それが言いたいんじゃなくて。


忘れる というのは行為じゃない。意識だ。

忘れて、期限切れの定期を「使ってた」のは行為・動作だけど。

(忘れた)という思いがあった場合だけ、

忘れるということ がある。

実際に期限切れを知らなかった時は、

意識に(忘れてた)が無い。


認知症がひどくなると、その人にとっては

(忘れる)ということは無いのではないかと思う。

既に食べた昼飯を「まだ食べてない」と言う という現象はあるだろうけど、

本人は忘れてるという認識はない。

それを「忘れてぇ!この呆け」と怒ってもしかたない。

怒られても変わらない。

昼飯を食べたという現象はあったにしても、

その人の人生にとっては、その日の昼飯は食べてない のだ。

どんな物も事も、在ったという事実があっても、

在るという自覚が無かったら その人にとっては無い。

その人はその意識しか生きられない。




言うことを聞きなさい・・

2011-10-22 10:42:19 | ひとの幸福
子どもの頃母に「言うことを聞きなさい!」と叱られたことがある。

その時の母は 聞く=やる の意味だった と思う。

聞いて、その通りしなかったら怒られたから、そう思う。 

けれどこの言葉自体は(言うことを聞きなさい)だ。

面白い。

何故、(言うことをやりなさい)という表現じゃないんだろう?

いつの頃か、その言葉を聞いた時「やりたくない」と母に言ったら、

「聞いて、うんと言ったんだからやりなさい!」と脅迫された。

それを聞いて「うんと言ったのとやるのは違う!」と言ったら、

「ハイと言ったんだからやるの!」と母。

「じゃあ、どんなことでも、ハイって返事したら、しなくちゃなんないのっ!

じゃあ、おっかさんも例えばこんなこと言われてもやるのっ?」

こんな言い合いをしたことを憶えている。

(お母さんと素直に言えなくて、おっかさんと呼んでた。)

結局このときはお互いに主張して、お互いが譲らなくて、

もの別れに終わったのだった・・・


こんな所で・・

2011-10-22 09:54:04 | 日々の暮らし・思い出
こんなことがあった。2年前の職場でのこと。

Uさんが屈んだ格好で、外の水道の蛇口から加湿器のタンクに水を入れていた。

いつも私は事務室の流しの水道からそのタンクの水を入れている。

(外は寒いのに・・中でやれば寒くないよ)という思いがあったので、

Uさんに「こんな所で水入れているの?」と声かけた。

Uさんはびっくりした様子で「いけなかった?」と言った。

私もよくあることけど、

「こんな所で・・してるの」とか聞くと否定されているように受け取る。

聞いた言葉を瞬時に(評価)と受け取ってしまう習慣?が

たくさんの人にあるような感じがする。

いいか、いけないか・・という評価。

全然そんなつもりはないのに、

聞いた方で(評価)されたと受け取る、捉える。

どうしてこう成ったか・・

・・やはり今までたくさん評価されて来た歴史があるから・・と思う。


よく評価されたと、自分が捉えると、ほっとし、喜ぶ・・・

悪く評価されたと、自分が捉えると、さっと逃げる、とにかく謝る、

自分がダメかと思う、いけない事をしたかと思う、・・・

こんな結果になる。

飴と鞭でしつけられてきたと思う。

犬や象みたいに。

もちろん、良かれと思ってだけどね。

子供を愛してるから。

みんな、人間で、犬や象じゃないんだけど・・・・。

もっと違う方法がある気がするよ。