やはり養老先生の「かけがえのないもの」という本の、
「かけがえのない身体」という5章の中の言葉・・
「・・・脳がもっている大きな作用で私が非常に重要だと思っているのが、
『現実とは何かを決めてしまう性質』です。
(平たく言うと、このことはこういうことであると捉えてしまう性質、かと)
動物もまったく同じです。動物もまた世界をそれなりに把握していて、
自分が把握している世界こそ現実だと思っています。
人間もそうで、これが現実だということは、
人間自身が決めているのです。
その場合の現実とは何かといえば、
人間が何かをするときに影響を与えてくるものすべてを言います。」
・・以上引用。
枯れ尾花を幽霊と思って、逃げて転んで足を折れば、
その人にとって幽霊は現実。
そういう意味の現実というのは動物にも存在していてとても重要なことで、
何故それが重要なのかというと、
そのことが「現実は人によって違う」ことを意味するから・・と彼は言っている。
「現実とは、何かを“決めてしまう”性質」と彼は言っている。
“決めてしまう”・・というこの表現。
それは“決めようとして”なくても、
“決めてしまう”という無意識的な作用を言っているのかと思う。
この章の最後の「自然の身体を取り戻す」という項に、
人によって現実が違うわけだから、そのままではどうしても争いになる。
極端な場合は戦争になる。けれど、
私たちがひとによって現実は違うことをはっきりと認め合うことが出来れば、
少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。
こんなふうに彼は言っている。
全くその通りと思う。
私がここで毎日同じようなことばかり書いてるけど、そのことと、
彼のこの発言は違う表現だけど、同じと思う。
いろんな、そのように在る姿を、在ると認め合うことが出来たら、
少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。
そしてこの後に続く彼のコレ・・
「しかし、、多くの人が正義なり真理なりという、
いわば抽象的なものに対してこの現実感を付与したままであれば、
なかなか解決は出来ません。」
・・これが『自分の考えが正しい』と突っ張るもの。
コレは無意識的に作用するから難しいのかと思うけど、
そう在る自分に気付くこと以外に解決方法はありません、ということなんだろうなぁ。
自分が誰かの言動に不機嫌、不愉快な気分になったときは、
必ずといっていいけど、これがある。
「かけがえのない身体」という5章の中の言葉・・
「・・・脳がもっている大きな作用で私が非常に重要だと思っているのが、
『現実とは何かを決めてしまう性質』です。
(平たく言うと、このことはこういうことであると捉えてしまう性質、かと)
動物もまったく同じです。動物もまた世界をそれなりに把握していて、
自分が把握している世界こそ現実だと思っています。
人間もそうで、これが現実だということは、
人間自身が決めているのです。
その場合の現実とは何かといえば、
人間が何かをするときに影響を与えてくるものすべてを言います。」
・・以上引用。
枯れ尾花を幽霊と思って、逃げて転んで足を折れば、
その人にとって幽霊は現実。
そういう意味の現実というのは動物にも存在していてとても重要なことで、
何故それが重要なのかというと、
そのことが「現実は人によって違う」ことを意味するから・・と彼は言っている。
「現実とは、何かを“決めてしまう”性質」と彼は言っている。
“決めてしまう”・・というこの表現。
それは“決めようとして”なくても、
“決めてしまう”という無意識的な作用を言っているのかと思う。
この章の最後の「自然の身体を取り戻す」という項に、
人によって現実が違うわけだから、そのままではどうしても争いになる。
極端な場合は戦争になる。けれど、
私たちがひとによって現実は違うことをはっきりと認め合うことが出来れば、
少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。
こんなふうに彼は言っている。
全くその通りと思う。
私がここで毎日同じようなことばかり書いてるけど、そのことと、
彼のこの発言は違う表現だけど、同じと思う。
いろんな、そのように在る姿を、在ると認め合うことが出来たら、
少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。
そしてこの後に続く彼のコレ・・
「しかし、、多くの人が正義なり真理なりという、
いわば抽象的なものに対してこの現実感を付与したままであれば、
なかなか解決は出来ません。」
・・これが『自分の考えが正しい』と突っ張るもの。
コレは無意識的に作用するから難しいのかと思うけど、
そう在る自分に気付くこと以外に解決方法はありません、ということなんだろうなぁ。
自分が誰かの言動に不機嫌、不愉快な気分になったときは、
必ずといっていいけど、これがある。