日記にヨハネ書の読後感を書いていたら、「復活」について考えることになった。もう少し、深く考えたくて、こちらのブログに移して考えることにする。
「復活」の観念はもちろんキリスト教独自のものである。しかも、それはキリスト教の核心を成す概念である。
「復活」とは、十字架の上で処刑されて死んだイエスが、弟子たちや支持者たちの間に再び現れたと言う伝承に基づくものである。この復活の伝承が今日にまで至っている。
復活したイエスの肉体は、次のような特色を持っていた。
「マグダラのマリヤは復活したイエスを庭師と間違えた。(ヨハネ第20章第15節)」
「ユダヤ人を恐れて鍵で閉ざしていた部屋に復活したイエスは入ってこられた(20-19)」
「実際に復活したイエスを見るまで信じなかったトマスに対して、イエスは『私を見ることなくして信じるものは幸いであると言われた』(20-29)」
「夜が明けたころ、イエスは岸に立っておられたが、弟子たちはそれがイエスであることに気がつかなかった(21-4)」
「エマオに向かいつつあった二人の弟子は、目が遮られていたために同行しつつあった者がイエスであることに気がつかなかった(ルカ24:16)」
「弟子たちは復活の話をはじめて聞いたとき、たわごとのように思われたので、婦人たちの言葉を信じなかった。(ルカ24:10-12)」
「弟子たちは、はじめは亡霊を見ていると思ったが、イエスの手足を見、触れて初めて、復活したイエスが肉も骨もある身体であることがわかった。(ルカ24:37-39)」
「イエスの復活を信じきれない物分りの悪い弟子たちに、イエスは、モーゼと預言者たちからはじめて、聖書全体についてご自分の語られているところを説明された。(ルカ24:25)」
しかし、
「彼らの目があけられるまでは、イエスであることがわからなかった(24:31)」
以上の記事からわかることは、「心眼が開かれる」ことによってイエスのご肉身の復活が信じられるということである。この心眼が開かれることが悟ると言うことである。
こうして、「イエスは弟子たちの間に復活され、復活されたイエスは、天に上げられた。(ルカ24:51)」
「あなたたちは主のなされた奇跡と驚くべきことを見た。しかし、主は今日に至るまで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。(申命記29:2)」とある。