海と空

天は高く、海は深し

詩篇第十五篇註解

2005年08月21日 | 詩篇註解

 

詩篇第十五篇註解   義しき人

「幕屋」とあるように、キリスト教の起源が、砂漠や荒野などの地理、風土を背景とするユダヤ教にあること、特にモーゼの宗教にあることを示している。

 「誰があなたの幕屋に住み、聖なる山にすむことができるか。 」

この詩のテーマは「義しき人」である。「正しい」という日本語の概念とは少し異なっている。正義を行う人である。「聖」(カデーシュ)という観念も、日本人には比較的になじみの薄い観念であるといえる。「聖」は神のもっとも根本的な属性のひとつである。

イスラエル人は、エジプトを出ることによって、神に「聖別」された。聖別されるとは、世俗的な価値観から、神的な価値観に転換することである。人間の欲することではなく、神の欲せられること行うことである。ヘブライ民族も、宗教的指導者モーゼに率いられて、エジプトから脱出してから後、この民族はもっとも宗教的な民族になった。つまり聖別されたのである。以来ユダヤ人は、神の証人となった。神道でも、俗世の汚れや穢れを禊や清めによって清くする。宗教は諸民族の神についての、また悪や穢れに関する思想であり知識である。

イエスは神と等しい存在であるから、イエスには神の属性が余すところなく表れている。だから、新約聖書でイエスの人格を研究することによって、神の属性も明らかになる。イエスは旧約聖書に神の属性を深く学び、それを自分の性質として、生き、かつ死んだ。イエスの神の学びが徹底していたので、イエスと神は同格として、キリストとみなされるに至った。

 「聖」の反対概念は、「俗」である。つまり、聖とは、普通の世間の営みから切り離されていることである。聖書では、神の聖性はどのようなものと考えられているか。それについては、申命記や出エジプト記、特にレビ記などには、汚れたもの、穢れたものについての規定がある。神が何を清いものと考えられているか、モーゼが何を神の聖性として考えていたかは明らかである。流血、殺人、盗み、姦通などは忌むべきものとされる。

 何を神は求められているか。聖書では、神の似姿に近づくこと、これが人間の使命であるとされる。人間の使命は何か、これは、信仰者や哲学者が理性的に研究することも可能であろう。しかし、もっとも、それを明白に告知しているのは聖書である。最高の聖性は今のところ新約聖書のイエスにもっとも具体的に示されている。したがって、新約聖書を学ぶことなくしては、事実として、聖性についての認識を得ることができない。非聖書国民が、「聖」について意識に乏しいか、あるいは全くもたないのは当然である。

 「出世をしたい」とか「金儲けをしたい」とか言うのは、もちろん、神の性質であるとはいえない。聖書には、「神と富とに並び仕えることはできない」(マタイ6:24)と書かれてある。イエスは、このように人々に教えた。イエスは、この言葉をどのようにして自分の知恵とし、そして権威あるものとして、それを弟子たちに教えたのか。私たちは、これらのイエスの言葉をどう考えるか。

 富の獲得を至上の命題として生きている多くの人間にとっては、耳障りにも聞こえるかもしれない。彼と同時代に生きたナザレの人々でなくとも、そんな人物は、こんな言葉を吐くイエスを、丘の上から突き落としたくなるのではなかろうか。

 主をおそれ、すべてにおいて神に従う人、友に災いをもたらさず、利息や賄賂を取らない人、そういう人は、永遠に揺らぐことがないと詩人はいう。これが旧約の義人観である。新約では、自己の善性についての確信の揺らぎから、行為よりも信仰に「義」が求められるようになる。

 

 

 

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