海と空

天は高く、海は深し

宗教研究の立場

2005年08月17日 | 宗教一般

 

このブログの目的は、ご覧のとおり宗教を研究することです。しかし、宗教といっても、実際には抽象的な宗教一般として存在するのではありません。実際に存在する宗教は、キリスト教、仏教、神道、イスラム教などの特殊宗教であり、カトリックやプロテスタント、日蓮宗や禅宗、浄土真宗などの個別宗教です。社会に存在するさまざまな個別的特殊的宗教をできうる限り多くの研究することを通じて、宗教の本質、宗教の概念に迫りたいと考えています。

 

ただ、どうしても私個人の趣好から、キリスト教や聖書に比重が行くのは避けられないかも知れません。というのも、私の問題意識は、もともとキリスト教の真理を科学的に認識することにあったからです。それにキリスト教は絶対宗教であって、最終的には「あれかこれか」の倫理的な選択を余儀なくされると思うからです。

とはいえ、この立場はその他の宗教を研究することを妨げるものではないと思います。仏教やイスラム教についても、視野に入る限り論及し、時には比較しながら研究してい行きたいと思います。

 

また、宗教研究といっても、それは本来的に伝道や宣教や教化を目的とするものではありません。もちろん、宗教を科学的に哲学的に研究して行く過程で、宗教に対する認識が深まり、「信仰」に至ることは当然にありうるかも知れませんが、この宗教研究自体は教化や伝道を目的とするものではありません。むしろ「信仰深く」あることには慎重でなければならないという立場に立つものです。

 

宗教を科学的に哲学的に認識するとはどういうことか。そもそも「科学」と「哲学」とはどう違うのか。宗教と哲学の違いについては、私たちは「宗教とは真理の表象的な認識」であり、「哲学とは真理の概念的な認識である」というヘーゲル哲学の立場と定義を承継しています。

 

ですから、私たちにとって、科学も哲学もほぼ同義であると言えますが、ここではさしあたって、さらに「科学とは個別的特殊的な次元での事物の論理的因果関係を認識すること」であり「哲学とは事物のもっとも普遍的な運動法則、弁証法についての研究である」ぐらいに定義しておきたいと考えます。

 

科学とは人間や自然および社会などの事物の存在や運動の因果関係の解明を目的とするのに対して、哲学とは狭義には、形式的には思考についての科学すなわち論理学であり、内容としては、真理や価値を研究対象としその概念的な把握を目的にしていることです。

 

したがって宗教を哲学すること、すなわち「宗教哲学」では、当然に物理学や天文学などとは異なって、単に因果関係の理法のみの認識に留まるものではなく、そこには「真理」や「人倫」などの概念の解明が中心的なテーマになります。このジャンルは特に現代日本人にとってもっとも縁遠い不人気な世界であるようです。

 

しかし、国民や民族が非宗教的であるということは、国民や民族が倫理的ではないことであり、絶対者と自覚的な関係を持っていないことを示しているのであって、これは必ずしも人間にとって名誉なことではないと思います。それは、ある意味では個人や民族の精神的な浅薄さを物語っているに過ぎません。o(*⌒―⌒*)oこうした問題も、宗教哲学の問題として、宗教社会学として論じて行くつもりです。

 

また、一方で最近になってアメリカ人が公教育に関して、聖書の記述が進化論に合致しているかどうかなどと議論しているようです。たしかにアメリカ人は日本人よりは宗教には自覚的ではあると思いますが、ヘーゲルも言うように「真実の宗教や真実の宗教性を人倫的精神の外部に求めるということは無駄なこと(精神哲学§552)」ですから、そうした議論は、私たちにとっては愚かなことであります。しかし、とはいえ、そうした議論がいっそう科学を発展させるという皮肉な現実も忘れるべきではないでしょう。現代世界において一般的にキリスト教民族がもっとも発達した科学技術を保持することになっているのも、この辺に理由がありそうです。もっとも宗教的な民族がもっとも科学的であるという事実によって、事物の弁証法はここでも貫かれているようです。








コメント (1)
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