海と空

天は高く、海は深し

6月18日(火)のTW:「主観的芸術品」

2013年06月19日 | Myenzklo

第二篇 美的個性の諸形態〔ギリシャ精神の第一期〕第一章主観的芸術品〔人間自身の諸型態〕〔1.道具〕いろいろの欲求を持つ人間は外的自然と実践的な交渉をするが、その場合には人間は外的自然によって自分自身の欲求を充たし、それを使い減らすのであって、その点でそれを手段として扱う。


だが自然の対象はなかなか頑固で種々に抵抗する。そこで人間は自然を征服するために多の自然物を持ちだしてきて、それによって自然を自然そのものに当たらせる。つまり、この目的のために道具を発明するのである。ところで、この人間の発明は精神に属するところだから、道具は自然という対象よりもa


高次のものと見られなければならない。我々はまたギリシャ人が特に道具を重んじた事実をも知っている。というのは、ホメロスの中に道具の発明に対する人々の歓びが実に躍如として描かれているからである。アガメムノンの王笏について語る個所では、王笏の起源がくどくど語られている。b


また蝶番で開く扉のことだの、武具のこと、器具類のことなどが悦ばしげな口調で述べられている。そしてこの自然制服のための発明の名誉は神々に帰せられている。(ibid s26 )


〔2.装飾〕ところが人間は他面ではまた自然を装飾として使用する。装飾は元来はただ富裕の印であるとか、人間が自分で作り出した業績を表わす印というくらいの意味しか持たない。ところが、この装飾に対する関心がホメロスの描くギリシャ人ではもうずいぶん発達している。a


装飾は野蛮人も文明人も共に付けるが、野蛮人はただ自分を装うにとどまる。すなわち、その身体が外物によって飾り立てられてただ喜んでいるという程度を出ない。しかし、この飾りは他のものの飾りだとは云っても、人間の身体という他のものの飾りに他ならない。b


しかも人間はこの身体と離れがたく結び付いているものであるから、自然一般と同様に身体をも同様に改造しなければならない。だから真っ先に起る精神的な関心は、身体を意思に相応しい立派な器官とすることである。もっともそうすることが一面では他の目的に対知る手段となることもあるが、c


しかし他面ではそれ自身が目的となることもあり得る。ところがギリシャ人にあっては各人が自分を他人に示し、それによって楽しもうとする無限の衝動が見られる。この感性的な享楽は彼らの平静な気持ちの元とはならないが、また感性的享楽に付き物の迷信、迷信の馬鹿らしさに陥ることもない。(s27)


人間はここでは、恰も空に舞う小鳥のように自由に、そのわだかまりのない、純な人間的性質の中にある一切をさらけ出すが、それはその自分をさらけ出すことによって、自分の良さを証明すると共に、自分を承認してもらうようにするのである。(ibid s 28 )


〔3.競技〕以上がギリシャ芸術の主観的な始まりである。人間はそこでは自由な美しい運動と力のこもった技、熟練とによって肉体を一個の芸術品にまで作りあげた。ギリシャ人はその麗しい姿態を大理石や絵画の中に客観的に表現するに先立って、まず自分自身をこの麗しい姿態に作り上げたのである。a


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