海と空

天は高く、海は深し

6月24日(月)のTW:【中世教会が含む三つの矛盾】

2013年06月25日 | Myenzklo

【中世教会が含む三つの矛盾】1)主観的精神の矛盾「主観的精神は絶対者の証をするものであるが、同時にそれは有限で現実的な精神でもあり、知性と意志とに分かれて現れる。精神の有限性はこの知性と意志の区別に踏み込むところから始まり、またそこに矛盾と疎外の現象が現れる。a


というのも、ここでは知性と意志が真理によって貫かれているものではなく、真理はこれら両者にとっては単に与えられてあるものだからである。絶対的内容の外面的な性格は、その絶対的な内容が感性的で外的なものとしてある、という意識になって現れる。日常的な外的存在物が同時に絶対者として現れ、b


また、そう見られなければならないことが絶対的な要求として中世期の精神に課せられたことである。2)僧侶の矛盾:矛盾のもう一つの型態は、教会そのものの中の関係にある。真の精神は人間の中にあるものであり、人間の精神である。個人は礼拝によってこの絶対者との同一性の確証を得るのであって、c


教会はただこの礼拝の教師であり、指導者であるという役目を受持つに過ぎない。ところが中世においては、インドのバラモンと同じく、僧侶階級が真理の保有者となる。真理は学問、教養、修行によって得られるものであるが、それらだけでは十分とはされないで、全く外面的な方法、非精神的な称号が d


真理の所有を裏付けすることになる。この外面的な方法が僧職叙任式である。その結果、僧職が個人の身体に貼り付けられ、個人の内心というものはどうでもよいものとされるようになる。どの点から見ても信仰とは縁がなく、非道徳的で、どんな愚物であっても一向に差し支えないということになる。e


3)僧侶の財産:第三の矛盾は、教会が外的存在として領地をもち、莫大な財産を所有する点である。しかし、教会はもともと、富を軽蔑するものであり、また富を軽蔑すべきはずのものであるから、ここに教会は虚偽に陥ることになる。」(ibid s 226 )


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