ギリシャの場合のように思考が積極的に自分を意識するようになると、思考はいろいろの原理を持ち出すようになり、そうするとこれらの原理が現存の世界の中に深く食い込むことになる。元来ギリシャ人特有の具体的生命というのは人倫であり、すなわち宗教と国家とに捧げられた生活であって、a
それ以上につっこんで反省をせず、一般的な諸規定にまで分析を進めないところにある。そういう一般的な規定となると、それは早速に具体的な型態を毀すことになり、具体的な型態に真っ向から対立することにならざるをえない。法律は直接に現存するものであるが、しかもその中には精神が宿っている。b
ところが、思考が登場するや否や、その思想は早速、種々の政治組織の吟味をやり出す。そして「もっとよいもの」を見付けだしてきて、その自分がよいと認めたものを現存のものに置き換えようとし始める。(ibid s 63 )
【内面性と思考】ギリシャ世界の堕落を深い意味から理解して、その原理が自立自由となりつつ内面性にある点を明らかにしなければならない。今や内面性が種々の形で現れてくるのが眼に映る。思想、すなわち内面的普遍はギリシャの美的宗教を脅かし、個人の情熱と恣意は、a
その国家組織と法律とを脅かし、要するに一切の中に自分を見て、自分を挙げつらう主観性というものは全直接存在(無垢、素朴、単純)にとって一大脅威となる。それ故に思考こそが堕落の原理となり、実体的人倫性(無反省の習俗)の堕落の原理となる。なぜなら思考は対立を引き起こすものであり、b
理性の弁証法を駆使するものだからである。無対立ということを根本とする東洋の国家においては、最高原理が〔無反省、無媒介の〕抽象性にあったから、道徳的な自由は出番がなかった。※ここでも、自我に分裂をもたらす思考の驚くべき破壊的威力についてヘーゲルは語っている。意識、自我の自己内分裂。
※歴史哲学講義のなかでも弁証法的理性の原則が貫徹されていることが分かる。しかし、講義のなかにその事例をしっかりと把握するだけではまだ足りない。講義の中に論旨の展開の必然性を学ばなければならない。さらに大切なことは、現実の中にしっかりと弁証法理性を認識し、定式化して行く能力である。