政論四は時期的に『法哲学』に接している。その副題は『自然法と国家学』であるが、この政論と同じ一七年の冬学期にはハイデルベルグ大学において、ヘーゲルは右の副題の講義を行なっている。この関連からいえば、当面の政論は彼が己の国家観を密ならしめるための実験的操作であった。a
しかし、ヴェルテンベルグは彼が構想しているような本格的独立国家ではなく、そこに混乱の生じたのは、すでに言ったごとくであって彼が自分の国家観を完成するには、より強大な国家に就く必要がある。この点において彼がプロシャに移ったことは重大な意義を持つものであるが、
すでに同一七年の一二月二六日には、プロシャの文部大臣アルテンシュタインは、彼をベルリン大学教授に招聘する書簡を送っていた。(1)ヘーゲルがプロシャに移ったことは決して変節ではない。確かに政論三では、彼はプロシャに対して激しい反感を示しているが、しかし1806年のイエナ政権以後の
プロシャはシュタイン・ハンベルグの改革によって変貌を遂げて、彼の構想するような国家となりつつあったのである。政論四がいかなる成果を挙げたかというに、これには、一九年に成立した新憲法の内容を知ることが必要であるが、グルペによると、それはおよそ次の如きものである。