経験的な世界を思考するとは、本質的にその経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変えることを意味する。思考は同時にかの基礎に否定的な働きをなし、知覚された素材は、普遍によって規定される場合、最初の経験的型態にとどまっていない。殻が取り除かれ否定されて、知覚されたものの
中身が明らかにされるのである。神の存在の形而上学的な証明が、世界から神への精神の上昇の不完全な解釈であり記述である理由は、それがこの上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていないからである。もし世界が偶然的なものであるとすれば、それは当然に無常なものであり、
現象であり、それ自身空無なものにすぎない。精神が神にまで上昇して行くということは、絶対の真理は現象の彼方、神のうちにのみあり、神のみが真の存在であることを意味する。この上昇は移行であり、媒介ではあるが、神を媒介するように見える世界はむしろ空しいものとされるのであるから、
それは同時に移行および媒介の揚棄でもある。世界の存在の空しさのみが我々を神へと引き上げる綱であり、したがって媒介者として存在していたものは消失して、媒介そのもののうちで媒介は揚棄されているのである。【小論理学§50(S192 )】