『入門』2014年平成26年1月11日(土)晴
§2我々の認識の第一の源泉は経験である。一般に経験にとって必須なことは、我々が或るものを自身で知覚したということである。しかし、知覚と経験とはまた区別されなければならない。まず第一に知覚は、今は偶然にこういう状態にあるが、(S23)
他の場合には異なった状態にあり得るところのただ一つの対象をもっている。ところが私が知覚を繰返し、その繰り返した知覚の中に、これらのすべての知覚の中で同じにあるところのものを認め、それをはっきりとつかむとき、これは一つの経験である。経験はまたいろいろの法則をもつ。
それはすなわち、一方が存在する時には何時でもまた他方が継起するというような二つの現象の結合を意味する。しかし、経験はただこういう現象の一般性を表わすにとどまり、関連の必然性は示さない。経験はただ、或るものがこうあること、またそれがどんな風にして起るか、またどんな形で存在しているか
ということを教えはするが、しかしまだ根拠(Gründe)または何故に(Warum)ということを教えない。そこで、例えば過去というような、我々がそれについて自分で経験することのできない非慈雨に多くの対象があるから、我々は他人の権威(Autorität)に
頼らなければならないことにもなる。我々が他人の権威に基づいて本当だと考えるような対象もまた経験対象である。我々は真らしい(wahrsheinlich)ところのものを他人の権威に基づいて信じる。我々は事実真らしくないものを、しばしば真らしいものと考える。しかし、
まさに真らしくないもの(das Unwahrsheinliche)こそが、しばしば、真なるもの(das Wahre)である。――とくに或る出来事は、我々がそれらについて自分で経験したいろいろの事情の帰結から、またそれらの事情の多様の関を通して証明される。だから、(S 24)
何かを物語る人々は信ずるに足るだけのもの(Glaubewürdigkeit)をもたなければならない。すなわち、事柄(Sache)についての知識をもち得るような事情にあったことが必要である。我々はその人の調子から、彼らの誠実さ、すなわち彼ら真面目なのか、それとも何かそれに
利害関係をもつのかを推定することができる。著作家が或る暴君の統治の下で執筆し、暴君に賛辞を呈するときには我々はこれがヘツライであることを知る。誰かがその中に自分を織り込んだ何事かを物語るのを聞くときは、我々はもとより彼が自分の利益のために物語っていることを知るだろう。
しかし、誰かが敵の良い性質とか行為を非常にほめている場合には、我々は言われたことをむしろ信ずるにちがいない。(S 24)
経験はそれ故に諸々の対象が如何なる状態にあるかと言うことだけを教えて、それらが如何にあらねばならないかということも、如何にあるべきかということも教えはしない。後者の認識はただ事物の本質または概念からのみ生じる。だが、この認識のみが真実なものである。我々は概念からして
対象の諸々の根拠を認識するのだから、法律的、道徳的、宗教的諸規定についても、概念を認識しなければならない。(S 25 )