わたしは自己分析症。
またひとつ、分かったことがある。
自分はセックス依存症の気があるんじゃないかと疑っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
『「家族」という名の孤独』(斉藤学・著)という本を読んで、なるほどと思った。
これは「抱擁される欲求」らしい。それもひどく乳幼児的な。単に”抱っこされたい”欲求。
こういうのって、みんな知ってるんだろうか。
本を読んだ時は、ガーンと脳みそをぶち抜かれたような衝撃を受けたのだけど、しばらく経って冷静に考えてみると、「あぁ、そういう人ってよくいるよね」で済む話のような気もしてくる。
その本によると。
『(引用文を指して)要するに、一見成熟した異性愛に見えるものが、実は乳幼児的な”抱擁される欲求“のスリカエであったと述べられているのである。
この欲求のスリカエというのが、嗜癖というものの一つの特徴であると私は考えている。スリカエられた欲求は、それが満たされても真の充足をもたらさない。それどころか、かえって渇望をひどくするので、スリカエ行動は昂進する。
セックス嗜癖が、実は「抱っこされる安心感」という欲求のスリカエであったりすると、セックスそのものは真の充足をもたらさず、かえって次のセックスへの欲求を昂進させてしまうことになる。こうしてニンフォマニア(女性淫乱症)的な繰り返し行動が生まれる、あるいは、こうした行動の乱発を恐れて性的な関係からかたくなに身を引くことになる。』
多分、性産業に関わっている人達の中には、そういう闇を抱えている人がたくさんいるんだろうな、と想像する。
逆にそうした闇をやたらリアルに想像できてしまうからこそ、今までもアンダーグラウンドな女の人たちに少なからず興味を抱いてきたんだな、と知る。
言い訳をするならば、「私はまだ軽症だ」「淫乱ではない」「理性はある」と主張したいところではあるけれど、ここまで書いたなら今さら読んだ人にどう思われようと構わない、という気もする。
私が淫乱か淫乱でないかなんて、そんなことはどうでもいいの。
「抱っこされたい欲求」というものの辛さ、寂しさ、耐え難さは、背負ってしまった者にしかきっと分からないということ。
たとえば心臓にぽっかり穴が空いているような、スースーした感じ。
肩から背中にかけての皮膚の内側が、カスカスに乾いたスポンジみたいに軋む感覚。
喉の辺りから見えない腕がにょきにょき生えて、自分の肩や首筋や両腕や背中を抱き締めてくれる、そんな妄想。
それはとても切実で、痛々しいのだけれど、他人にはなかなか言えない(それが恋人だったとしても)恥ずかしさと後ろめたさを伴っている。
どうして恥ずかしいのだろう。どうして恋人にさえも言えないのだろう。…と考えて、ハッと思い付いた。
「抱っこされたい欲求」は明らかに「小さい頃に抱っこされなかったから」生じているのだけれど、そもそも「抱っこされなかった」のには訳があって、それは必ずしも親のせいだけじゃないんじゃないか? ってこと。
つまり、もともと自分の性格が「甘え下手」で「怖がり」で「傷つきやすい」かつ「見栄っ張り」だから、ってのも大きいように思える。そこに、甘えられなかった状況や環境、腕を振り払われた経験などなど不運が重なって、ますます「甘えちゃいけない」と思い込むようになったんじゃないか。
…そんな自己分析を昨日の夜から悶々としているわけ。
暇人だね、わたしゃ。
それで、思う。
子どもは、小さい内に何度も何度も、イヤってくらい抱き締めてやらないといけない。
だけど抱き締められずに育ってしまった大人はどうするか。
どうしたらこの甘ったれた虚しい欲求を克服できるのだろうか。
うーん…
答えは、もう少し足掻かなければ見つかりそうにない。
ちなみに「甘えることを学ぶ」というのは、簡単そうで決して簡単ではない。
安易にその解決をパートナーに委ねれば、今度は精神的に依存しすぎてドツボにハマる。それはちょっと、経験済みなの。
多分もう少し時間をかければ、足掻く過程で克服されていくんだろうな。
誰かとてつもなく愛してくれる人に頼るのではなく、逆に自棄になって淫乱の道に進むのでもなく…。
がんばれ、自分。
ちゃんと自分の足で立つんだ!
またひとつ、分かったことがある。
自分はセックス依存症の気があるんじゃないかと疑っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
『「家族」という名の孤独』(斉藤学・著)という本を読んで、なるほどと思った。
これは「抱擁される欲求」らしい。それもひどく乳幼児的な。単に”抱っこされたい”欲求。
こういうのって、みんな知ってるんだろうか。
本を読んだ時は、ガーンと脳みそをぶち抜かれたような衝撃を受けたのだけど、しばらく経って冷静に考えてみると、「あぁ、そういう人ってよくいるよね」で済む話のような気もしてくる。
その本によると。
『(引用文を指して)要するに、一見成熟した異性愛に見えるものが、実は乳幼児的な”抱擁される欲求“のスリカエであったと述べられているのである。
この欲求のスリカエというのが、嗜癖というものの一つの特徴であると私は考えている。スリカエられた欲求は、それが満たされても真の充足をもたらさない。それどころか、かえって渇望をひどくするので、スリカエ行動は昂進する。
セックス嗜癖が、実は「抱っこされる安心感」という欲求のスリカエであったりすると、セックスそのものは真の充足をもたらさず、かえって次のセックスへの欲求を昂進させてしまうことになる。こうしてニンフォマニア(女性淫乱症)的な繰り返し行動が生まれる、あるいは、こうした行動の乱発を恐れて性的な関係からかたくなに身を引くことになる。』
多分、性産業に関わっている人達の中には、そういう闇を抱えている人がたくさんいるんだろうな、と想像する。
逆にそうした闇をやたらリアルに想像できてしまうからこそ、今までもアンダーグラウンドな女の人たちに少なからず興味を抱いてきたんだな、と知る。
言い訳をするならば、「私はまだ軽症だ」「淫乱ではない」「理性はある」と主張したいところではあるけれど、ここまで書いたなら今さら読んだ人にどう思われようと構わない、という気もする。
私が淫乱か淫乱でないかなんて、そんなことはどうでもいいの。
「抱っこされたい欲求」というものの辛さ、寂しさ、耐え難さは、背負ってしまった者にしかきっと分からないということ。
たとえば心臓にぽっかり穴が空いているような、スースーした感じ。
肩から背中にかけての皮膚の内側が、カスカスに乾いたスポンジみたいに軋む感覚。
喉の辺りから見えない腕がにょきにょき生えて、自分の肩や首筋や両腕や背中を抱き締めてくれる、そんな妄想。
それはとても切実で、痛々しいのだけれど、他人にはなかなか言えない(それが恋人だったとしても)恥ずかしさと後ろめたさを伴っている。
どうして恥ずかしいのだろう。どうして恋人にさえも言えないのだろう。…と考えて、ハッと思い付いた。
「抱っこされたい欲求」は明らかに「小さい頃に抱っこされなかったから」生じているのだけれど、そもそも「抱っこされなかった」のには訳があって、それは必ずしも親のせいだけじゃないんじゃないか? ってこと。
つまり、もともと自分の性格が「甘え下手」で「怖がり」で「傷つきやすい」かつ「見栄っ張り」だから、ってのも大きいように思える。そこに、甘えられなかった状況や環境、腕を振り払われた経験などなど不運が重なって、ますます「甘えちゃいけない」と思い込むようになったんじゃないか。
…そんな自己分析を昨日の夜から悶々としているわけ。
暇人だね、わたしゃ。
それで、思う。
子どもは、小さい内に何度も何度も、イヤってくらい抱き締めてやらないといけない。
だけど抱き締められずに育ってしまった大人はどうするか。
どうしたらこの甘ったれた虚しい欲求を克服できるのだろうか。
うーん…
答えは、もう少し足掻かなければ見つかりそうにない。
ちなみに「甘えることを学ぶ」というのは、簡単そうで決して簡単ではない。
安易にその解決をパートナーに委ねれば、今度は精神的に依存しすぎてドツボにハマる。それはちょっと、経験済みなの。
多分もう少し時間をかければ、足掻く過程で克服されていくんだろうな。
誰かとてつもなく愛してくれる人に頼るのではなく、逆に自棄になって淫乱の道に進むのでもなく…。
がんばれ、自分。
ちゃんと自分の足で立つんだ!
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