サーカスを見に行った。
大人一人60ルピー(60円ちょっと)という破格の安さ。
恐らくこの世で最もシンプルかつハラハラするサーカスのひとつだと思う。
会場はいかにも移動式という簡素な造りで、小汚い木板でつくられた危なっかしい階段のような段々椅子が、パフォーマンス広場を挟んで両際にズラッと設置されていた。
私が到着したときには20人ほどしかいなかった観客は、上演時間が近づくにつれ徐々に増え、最終的には恐らく700人以上の老若男女で会場はいっぱいになった。
まず足と頭をくっつける中国歌劇団のような身体術を披露したのは、いかにも現地採用的なインド顔の若い2人の女性。
次いで新体操選手のような2人のマッチョが登場し、安いパイプのような棒に上って筋肉劇を披露した。
只今トレーニング中だと出て来たのは一匹の犬。4台のハードルをたどたどしく超えて回った。
大型の鉄棒やブランコは全てその場で組み立てる。
四方にある木製の柱にくくり付けたロープでパイプを引っぱり、支柱となる2本のパイプの下に小さな木っ端を入れる。
直径10メートルほどの狭い広場で、全ては繰り広げられるのだ。
2人の男がピエロのような格好をして出て来た。
一人は身長1メートル程しかない障害をもった男で、その歩き方や仕草が何とも滑稽で可愛らしい。
2人は広場の中央に立ち、漫才師のように何やら可笑しげなことを話し始めた。
時に2人はインド顔の女性を呼んで別のパフォーマンスを促し、それに加わっては客を笑わせ、また時にはあらかじめ仕込んであったコントで会場を沸かせた。
そうやって2人のピエロが進行する形で再終幕に向かい始めた頃、いつの間にか観客とパフォーマーの間には微笑ましい一体感が生まれていた。
言葉さえ分かれば随分面白いのであろう2人のコントを眺めながら想像した。
この人たちの普段の生活や、笑っていないときの普段の顔や、家族の顔や、もしかしたら別の仕事もしているのかもしれないことや・・・、そして会場を満杯にしている人たち一人一人にも同じように普段の生活があって、それがどんなに辛いものだったとしても、今いるこの空間ではそれらを忘れて笑うことができる、その心情を・・・。
見渡せば、小さな子どもから大人まで皆が同じ方向を見て大口を開けて笑っていた。
そういえば日本では、映画も演劇も寄り席もチケットが高くてなかなか行けない。少なくとも現在の不況に喘いでいる人たちにとっては、とても気軽に行ける値段じゃない。
だからせいぜいテレビで流れる漫才やお笑い番組で孤独を癒すしかないんだ。
きっと昔はもっと、こうした気軽に楽しめるエンターテイメントが日常生活の近くにあったんだろうけれど。
経済的に貧しくて苦しい場所ほど笑いによって救われる場所が用意されているというのは、合点がいく一方、皮肉だなと思う。
その国がリッチになれば笑いの質が変わる、それは、何だか切ない現実に思えてしまう。
日本人がもはやこうした温かい生の楽しみを、なかなか味わえないように。
サーカスは再終幕を迎え、団員たちは力を合わせて大きな茶色いネットを会場いっぱいに広げた。
天井からぶら下げた2つのブランコを飛び移る、最後のパフォーマンスだ。
2人のピエロもここぞとばかりに観客を盛り上げ、パフォーマーが次々と宙を舞った。
私は、目をまん丸にして天井を見上げている子どもや大人を横目に見ながら、会場の一体感に身を委ねた。
大人一人60ルピー(60円ちょっと)という破格の安さ。
恐らくこの世で最もシンプルかつハラハラするサーカスのひとつだと思う。
会場はいかにも移動式という簡素な造りで、小汚い木板でつくられた危なっかしい階段のような段々椅子が、パフォーマンス広場を挟んで両際にズラッと設置されていた。
私が到着したときには20人ほどしかいなかった観客は、上演時間が近づくにつれ徐々に増え、最終的には恐らく700人以上の老若男女で会場はいっぱいになった。
まず足と頭をくっつける中国歌劇団のような身体術を披露したのは、いかにも現地採用的なインド顔の若い2人の女性。
次いで新体操選手のような2人のマッチョが登場し、安いパイプのような棒に上って筋肉劇を披露した。
只今トレーニング中だと出て来たのは一匹の犬。4台のハードルをたどたどしく超えて回った。
大型の鉄棒やブランコは全てその場で組み立てる。
四方にある木製の柱にくくり付けたロープでパイプを引っぱり、支柱となる2本のパイプの下に小さな木っ端を入れる。
直径10メートルほどの狭い広場で、全ては繰り広げられるのだ。
2人の男がピエロのような格好をして出て来た。
一人は身長1メートル程しかない障害をもった男で、その歩き方や仕草が何とも滑稽で可愛らしい。
2人は広場の中央に立ち、漫才師のように何やら可笑しげなことを話し始めた。
時に2人はインド顔の女性を呼んで別のパフォーマンスを促し、それに加わっては客を笑わせ、また時にはあらかじめ仕込んであったコントで会場を沸かせた。
そうやって2人のピエロが進行する形で再終幕に向かい始めた頃、いつの間にか観客とパフォーマーの間には微笑ましい一体感が生まれていた。
言葉さえ分かれば随分面白いのであろう2人のコントを眺めながら想像した。
この人たちの普段の生活や、笑っていないときの普段の顔や、家族の顔や、もしかしたら別の仕事もしているのかもしれないことや・・・、そして会場を満杯にしている人たち一人一人にも同じように普段の生活があって、それがどんなに辛いものだったとしても、今いるこの空間ではそれらを忘れて笑うことができる、その心情を・・・。
見渡せば、小さな子どもから大人まで皆が同じ方向を見て大口を開けて笑っていた。
そういえば日本では、映画も演劇も寄り席もチケットが高くてなかなか行けない。少なくとも現在の不況に喘いでいる人たちにとっては、とても気軽に行ける値段じゃない。
だからせいぜいテレビで流れる漫才やお笑い番組で孤独を癒すしかないんだ。
きっと昔はもっと、こうした気軽に楽しめるエンターテイメントが日常生活の近くにあったんだろうけれど。
経済的に貧しくて苦しい場所ほど笑いによって救われる場所が用意されているというのは、合点がいく一方、皮肉だなと思う。
その国がリッチになれば笑いの質が変わる、それは、何だか切ない現実に思えてしまう。
日本人がもはやこうした温かい生の楽しみを、なかなか味わえないように。
サーカスは再終幕を迎え、団員たちは力を合わせて大きな茶色いネットを会場いっぱいに広げた。
天井からぶら下げた2つのブランコを飛び移る、最後のパフォーマンスだ。
2人のピエロもここぞとばかりに観客を盛り上げ、パフォーマーが次々と宙を舞った。
私は、目をまん丸にして天井を見上げている子どもや大人を横目に見ながら、会場の一体感に身を委ねた。
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