死に方について、たまに考える。
どこで死ぬのか。
どうやって死ぬのか。
誰がそばにいるのか。
どうやって葬られるのか。
ここスリランカでは、一般的に死体は埋葬される。
2~3日家に安置された後それなりに立派な棺桶に入れられ、仏教徒の場合はお坊さんが10人ほど家に来てお経をあげ、大勢の親戚や友人が行列になって棺桶を埋葬地まで運ぶ。
そして近しい人たちは大声で泣き、挙げ句の果てに気を失って倒れてしまう人も2~3人は必ずいるという。
人の死に際や埋葬の瞬間に立ち会うことは、自分の生き方を考える上で大事なことだ。
人は必ず死んでゆくんだ、ということを、こんなにマザマザと目の前に突きつけられ、残された人たちの悲しみを肌で覚え、死んだ後の世界を想い、もしくは死んでしまったらどうなるのか分からないことを知り、もう二度と開かないその人の目蓋を疑い、自分にも必ず訪れるその時を想像する、そのことの貴重さ・・・。
葬儀に集まった大勢の人たちの中に、小さな子どもがたくさんいるのを見ながらそんなことを思った。
それにしても、こっちの人の発狂の仕方には目を見張るものがある。
そんなに叫ばなくても・・・というレベルを超えて、それはウソなんじゃないの???と疑ってしまうほどの力の入れようで、まるで赤ん坊が意味も分からず連鎖して大泣きするように、枯れた涙をさらに絞り出して悲しみを表す。
友人の親戚の葬儀でもついに2人の男女が気を失って倒れ、埋葬終了後に車で運び出された。
ところでスリランカでは、 誰かが亡くなった後1週間家をオープンにし、訪れる親戚や友人をもてなすのが習慣らしい。
家族は1週間という長い間、夜一睡もせずに霊をなぐさめ、総勢何十人何百人という人にお茶や食事を振る舞う。
そして1週間後、疲れ果てた家族の顔には何か “やり遂げた” という充実感がみられ、更に皆で癒し合った悲しみが少しずつ前向きのエネルギーに変わっているように見えた。
こうやって死と向き合い、乗り越えていくんだ・・・。
それは決して形式ばったものではなく、残された者がお互いに悲しみや辛さを隠さずにさらけ出す、ある種の猶予期間みたいなものだと私は思った。皆で一緒にどん底まで落ち込んで悲しみ、そして這い上がるための。
そしてそのことをもって、きっと彼らは亡くなった者への感謝や敬意を表しているのだろう。
そうやってこの国では、皆が、きちんと、「死」と対峙して生きているんだ。
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