【研究者はつらいよ】
今日は冒頭にある研究者の作成したグラフを掲げた
荷風の「断腸亭日乗」から 彼の房事(=棒時?)回数を推定したものだ
グラフ下に記号の注釈が書いてあったが 私は研究者ではないのでカット
人の房事回数を数えるなんて・・・私は研究者にならなくて良かった
【人間五十年?】
それはさておき 50歳(1928/S3)12月31日の日乗を以下に超要約記述する
<持病の腹痛再発に続きひどい風邪に罹る 淫欲が無くなり自分でも驚く
世事にも関心なく公憤もせず 文壇の輩のとやかく言うのは煩い蚊のようだ
今思えば妻もなければ子孫も無い いつ死んでも心残りはない>
<世の文学者 カフェ以外に世間を知らず 手紙も書かず礼儀も知らない
風流を解さず 意志弱く 粗放で驕慢 最も劣等な人間である
一時期 慶應義塾の教師となったが 40歳の頃に辞めた
以来 文学者を友人に持つことは一切無く それこそ幸福の第一位である>
<争って人を傷つけたことなく 金で人に迷惑をかけたことはない
女好きだが処女を犯したことはなく 道ならぬ恋をしたこともない
50年の生涯を顧みて 夢見の悪い事が一つもないのは 極上の幸せ
東の窓が少し明るい 除夜の繰り言もこの位にして51年の春を迎えよう>
50歳 断腸亭にとっても一つの節目だったのだろうなぁ・・・
そう思いながら要約したが 口語体だと情緒に欠けるような気がする
【馴染みになった女性たち】
それから8年 58歳(1936/S11)1月30日の日乗
<帰朝以来 馴染みを重ねたる女を左に列挙すべし
鈴木かつ 蔵田よし 吉野こう 内田八重 中村ふさ 野中直 今村栄
関根うた 清元秀梅 白鳩銀子 黒沢きみ 渡辺美代 大竹とみ 古田ひさ
山路さん子>・・・総勢16名である
ここでの記述量が最も多いのが「中村ふさ」 以下 原文通りに記述
「初神樂坂照武の抱、藝名失念せり、大正五年十二月晦日三百圓にて親元身受をなす、一時新富町龜大黒方へあづけ置き大正六年中大久保の家にて召使ひたり、大正七年中四谷花武藏へあづけ置く、大正八年中築地二丁目三十番地の家にて女中代りに召使ひたり、大正九年以後実姉と共に四谷にて中花武藏といふ藝者家をいとなみ居りしがいつの頃にや發狂し松澤病院にて死亡せりと云ふ、余之を聞きしは昭和六年頃なり、實父洋服仕立師」
「中村ふさ」に関する記述はこれ以外にも多く 以下に原文のまま記述する(年月日は省略)
「夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く」
「雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乗りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。
お房もと牛込照武蔵の賤妓なりしが余病来独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ来りしなり。
然る処いろ/\面倒なる事のみ起来りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。」
「婢お房病あり。暇を乞ひて四谷の家に帰る。」
「お房この日また帰り来りしかば伴ひて宮川亭に一酌す。新富座を立見して家に帰る。」
「雜誌女性の草藁をつくりし後、四谷の妓家に徃きお房と飲む。」
「午後四谷のお房來りて書齋寢室を掃除す。」
「女給の語るところを聞くに其頃余が家に召使ひたりし阿房といふ女四谷の妓となりゐたりしが數年前鳥目となりつゞいて發狂し、目下駒澤村の瘋癲病院に幽閉せられつゝありと云ふ」
「思へばその頃わが六兵衞の茶碗洗ひしお房も既に世になき人とはなれり」
・・・婢(はしため=女中)の割に記述も多く 荷風の格別の想いが伝わる
しかし ふさ子以上に 荷風の思い入れが強かったのは「内田八重」
彼女のことは次回に回し 今日はこれで終わり
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]