
1880/M13)ー1966(S41) 永井荷風は1879/M12)ー1959(S34)
妓楼巴家の八重次が藝者をやめ踊師匠となったのは大正8年40歳の時
彼女は何度も名を変えているが タイトルは藤蔭静樹とした
今日は彼女の人生を概観する
1880/M13)
新潟市の古町で寿司屋の次女として誕生(本名:内田ヤイ )
町内の置屋庄内屋の養女になり 女主人に可愛がられて育つ
※明治末期の新潟には置屋100余 芸妓・娼妓600ほど 古町には最大の花街
幼少時から三味線・踊りを仕込まれ 寺子屋に通って読み書きを習う
12歳で庄内屋の人気舞妓になる
1898(M32) 19歳の時に上京
翌年 女役者・市川九女八に弟子入り 佐々木信綱門下にもなり短歌を学ぶ
22歳の時 欧州帰りの川上音二郎一座の「オセロ」公演で明治座出演
同年 日舞を習うため藤間流家元勘右衛門に入門する

川上音二郎と妻・貞奴
1910(M43) 30歳で藤間流名取となり藤間静枝と名乗る(歌人でもこの名)
<浄らかに朝顔咲きぬ露の間の玉ゆらをだに命を舞はむ> 藤間静枝
帰郷しないため実家から仕送りを止められ 新橋から芸者に出る
(芸妓名:元巴家八重次)
そして慶大教授にして稀代の放蕩男荷風と出会う
1913(T02) 二人は結婚するが 翌年には別れる
・・・荷風の放蕩に愛想が尽きた静枝は「三行り半」を書いて家を出る
荷風は 三行り半については触れず 焼棒杭どうのこうのと日記に残す
静枝も 後年「別れるんじゃなかった」・・・と言ったと伝えられている
その静枝の男関係を 荷風は断腸亭日乗に書いているという
手元にある文庫本には その日付近辺はかなり飛ばされている 残念!
どうやら静枝の男性関係もまた かなり跳んでたらしい
1917(T06) 現・芸大教授和田英作(※)の後援で「藤蔭会」第1回公演を行う
※以前このブログでも紹介した洋画家
その後 新進の芸術家たちを次々とスタッフに加え 斬新な舞台を上演
1921(T10) 40歳 新舞踊団体として再出発 童謡舞踊・新民謡運動を始める
2年後 麹町に藤蔭会本部創立 中山晋平らと 童謡運動で全国を巡業
この頃 若い男性と浮名を流す 皆20歳代半ば 荷風で爺さんに懲りた?
1928(S03) 48歳 シベリア鉄道経由でパリへ行く 吉屋信子とロンドン旅行
翌年パリ在住の画家らの企画により Théâtre Feminaで公演して帰国
帰国後 舞踊はクラシック音楽など取り入れて先鋭化する
1931(S06) 藤間流家元から 藤間の名前を返上しろと抗議される
「藤蔭流家元藤蔭静枝」を名乗り、日本舞踊協会から脱退する
しかし 戦火激しくなり 前衛舞踊の取締りも強化 前衛の火も消える
戦後を駆け足で
1953(S28) 第1回舞踊芸術賞受賞
1959(S34) 永井荷風他界
1960(S35) 紫綬褒章受章
1964(S39) 舞踊家として初めての文化功労者に選定
1965(S40) 勲四等宝冠章受章
1966(S41) 86歳で他界
1959(S34) 永井荷風他界
1960(S35) 紫綬褒章受章
1964(S39) 舞踊家として初めての文化功労者に選定
1965(S40) 勲四等宝冠章受章
1966(S41) 86歳で他界
日舞から出た前衛舞踊とはどんなもの?
Youtubeで探したが見つからなかった
新潟の古町も懐かしい 花街と縁があったのではないが・・・
今日の最後
断腸亭日乗の何年だったか忘れたが 「私みたいな子孫を残したくない
だから避妊の措置をせず 事に及んだことは無い」旨の記述があった
なるほど それで養子を貰ったのか・・・
ところが 静枝のことを調べていたら 彼女が荷風の子を産んだ話があった
ほんとかい?・・・その話を次回に載せたい
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]